音響室の観客

野森ちえこ

思い出の劇場

 その小劇場が閉館するというニュースが舞いこんだのは、あの夏を思いださせるような、じっとりとむし暑い夏の夕暮れのことだった。


「サヨナラ公演か」

『ああ。引き受けてくれんだろ?』

「もちろん」


 多くの劇団や役者を輩出してきた東京を代表する小劇場。仮にT劇場としておこうか。

 俺にとっても、そこはちょっと特別な劇場だった。


 ☯


 もう二十年近くまえになるか。

 その夏も、息をするのが苦しいくらいに暑かった。


 当時、T劇場は『出る』と評判だった。

 むかしは処刑場だったのだとか、いやいやここはかつて墓地だったのだとか、真偽不明の話とともに小劇場界隈で広まっていたのだ。

 俺が当時所属していた劇団も何度かT劇場で公演をしていたが、確かにそういったものに敏感な人間が特定の場所(調光室など)に行くと体調を悪くするというようなことが多々あった。

 ただ、その土地にいわくがあるかどうかに関係なく、人間のさまざな感情が集まる劇場という場所ではさほどめずらしいことではない。

 とりあえず俺がいた劇団内では、T劇場でなにかをはっきり見たり聞いたりした関係者はそれまでいなかったし、俺はそれほど敏感なほうではない。だからまさか、自分がソレの目撃者になるとは思ってもみなかった。


 ☯


 なるほど。

 これは噂になるはずだ。


 はじめてその姿を目にした瞬間、なんだか妙に納得してしまったことをよくおぼえている。


 念とかエネルギーとか、そういうものがよほど強いヤツだったのか、あれほどはっきり『見えた』のは本当にはじめての経験だった。

 それなのに、どうもソレが見えているのは俺だけのようだった。フィーリングというか、周波数があってしまったのだろうか。まったくもってうれしくない符合だ。

 なにしろそのとき、俺は舞台の上にいた。

 座席には観客。本番まっただなかでの出来事だった。


 気にしてはいけない。

 芝居に集中しなければ。

 そう思えば思うほど目が向いてしまった。

 座席数二百もない小劇場であるが、舞台上からはっきり顔を判別できるのはせいぜいまえの二、三列。

 座席の一番奥にある音響ブースは作業用のライトがついてはいたものの、やはりうっすらとスタッフのシルエットが見える程度。そのなかにあって、ソレだけがくっきりと浮かびあがっていた。気にするなというほうが無理だった。


 それでも初日はなんとか無事におえることができた。

 しかしながら公演期間は一週間。

 やはりというかなんというか。

 つぎの日も、さらにそのつぎの日も、本番になるとソレは必ずあらわれた。

 くいいるように、舞台を観ていた。


 ――音、なんか変なところありました?


 三日目の終演後、音響スタッフがそうたずねてきた。


 ――いや、なんで?

 ――だって、やたらとこっち見てたじゃないですか。最初は気のせいかと思ったんですけど、初日からずっとですよね。


 日本全国ツアーでまわっている劇団員は皆、多かれ少なかれ不思議な体験をしてきている。劇場もそうだがホテルなどもわりとよく『出る』のである。

 それは、役者兼音響スタッフであるこの後輩も例外ではなかった。


 すこし迷ったが、俺はひとまず『たまたま』だと誤魔化すことにした。

 これまでいろいろ体験してきているからこそ、ほんとうのことをいえば怯えてしまうかもしれないと思ったのだ。

 ざんばら髪の、いわゆる落ち武者といわれるような鎧姿のおっさんが、音響ブースの――おまえのうしろからじっと舞台を観ていたんだよなんて。

 少なくとも公演期間中は黙っておいたほうがいいと判断した。


 ☯


 人間というものは慣れるものだ。

 見た目は恐ろしいが、なにをするわけでもない、ただ舞台を観ているだけの亡霊。

 楽日を迎えるころには、もう俺もソレをひとりの観客として認識するようになっていた——とまではさすがにいえないけれど、そこにいるのがあたりまえのようにはなっていた気がする。


 そうして舞台は無事に幕を閉じ、俺はソレのことを仲間たちに話しまくったわけだけれど、結局なぜ俺にだけ見えたのかはわからないままだった。

 無理やり理由を探すとすれば、T劇場の舞台に主役として立ったのがはじめてだった、ということくらいだろうか。

 もっとも、そのまえの年に主役をつとめた役者は見ていないそうだから、主役にだけ見えるというわけでもないのだろう。

 その後、俺もまた主役として何度かT劇場の舞台に立ったけれど、やはり見える公演のときもあれば見えない公演のときもあって、その基準は謎だった。

 ただ、ふとしたときに、もしかしたら本当に『観客』として観ていたのかもしれないな、とは思った。だからその舞台が好みにあわないと観にこない(出てこない)のではないかと。

 本当のところはわからないけれど、もしそうなら、どうにかまた観にきてもらえるような舞台を——なんて思ってしまう。これも役者のさがだろうか。俺だけか。


 ☯


『じゃあな、また連絡する』

「おう」

『いい舞台にするぞ』

「当然」


 通話を切ってスマホをテーブルに置くと、俺はベランダの窓をあけた。とたんにむわっと熱せられた空気が全身を包みこむ。空が赤々と燃えている。


 T劇場のサヨナラ公演。ありがたいことにメインキャストとして声がかかった。いろんな意味で思い出深い劇場である。なにをおいても引き受けるにきまっている。

 公演は来年の夏。

 はたしてあの鎧武者観客は観にきてくれるだろうか。



     (了)


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音響室の観客 野森ちえこ @nono_chie

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