日本滅亡

土屋正裕

日本滅亡

日本滅亡


令和20年(2038年)8月13日(金曜日)、東京は凄まじい猛暑に見舞われていた。

江戸川静香(90歳)は東京・墨田区押上の自宅で寝ていたが、窓を開けていても風はソヨとも吹かず、生ぬるい扇風機の風を浴びていても少しも涼しくなかった。

エアコンは何年も前に故障していた。修理する金がないのでプラグはコンセントから抜いていた。

年金だけでは食べていけず、なけなしの貯金を切り崩しながらのギリギリの生活。

もう何年も外食も旅行もしたことはない。酒好きの江戸川だったが、とっくの昔に晩酌もやめた。

15分おきにシャワーの水を浴びて扇風機に当たり、気化熱で少しでも涼もうとしたが、例年にない異常な酷暑で室温は午前中すでに40℃近くに達していた。

力なくプラスチックの団扇を仰いでいると、妻の妙子(85歳)が台所から声をかけた。

「おじいさん、お昼は何がいいですか」

「なんでもいい」

「そうめんでも茹でますか」

「うん」

ここ数年、夏はそうめん以外のものを食べた記憶がない。夏バテに効くと言っても鰻の蒲焼など高すぎて庶民には手が届かない。最後に鰻を食べたのがいつだったか、思い出そうとしても思い出せなかった。

江戸川は「つる亀」という老舗の蕎麦屋の主人だった。

高齢化により店を閉じた後は妙子と二人暮らし。3人の娘はそれぞれ嫁ぎ、7人の孫がいる。

90歳という高齢だが、矍鑠としていて、風邪ひとつ引いたことがなかった。

午前11時56分、つけっぱなしのテレビに緊急地震速報のアラームが鳴った。

「和歌山県で地震。強い揺れに警戒」

という字幕が流れ、しばらくしてカタカタと部屋が揺れ始めた。

最初はそれほど強い揺れではなかったが、やがて激震が襲ってきた。

江戸川はめまいを覚えた。まるで遊園地のコーヒーカップの中にいるかのように家中が揺れていた。

体が、床が、天井が、家具が、部屋全体が、ミキサーにかけられたかのようにぐるぐる回っているのだ。

妙子がそうめんを茹でるために湯を沸かしていたが、慌ててガスの火を消した。居間の箪笥の上から彼女のコレクションであるこけしがバラバラと転げ落ちた。

「ひどい揺れだなあ」

江戸川は上半身裸で畳の上に寝そべったまま他人事のようにつぶやいた。台所で妙子は腰を抜かしたのか返事はない。

築50年以上が経過している江戸川の自宅は不気味な悲鳴を上げた。長い揺れは5分以上続いた。

テレビのニュースは地震の情報を伝えていた。

震源は紀伊半島沖で地震の規模を示すマグニチュードは9.3。

静岡県静岡市、御前崎市、磐田市、浜松市、愛知県豊橋市、名古屋市、三重県津市、松坂市、志摩市、尾鷲市、和歌山県串本町、新宮市、和歌山市、御坊市、兵庫県南あわじ市、徳島県徳島市、美波町、高知県室戸市、高知市、須崎市、黒潮町、土佐清水市、愛媛県宇和島市、宮崎県日向市、宮崎市で最大震度7を観測。

テレビのモニターから独特の音が聞こえてきた。「ピーヒョロロー……」という小鳥のさえずるような電子音。大津波警報発令だった。

「東京、千葉、神奈川、静岡、愛知、三重、和歌山、徳島、高知、愛媛、大分、宮崎、鹿児島の各都県に大津波警報が出されました!大津波警報です!沿岸部にいる方はただちに高台に避難してください!今すぐ逃げてください!」

男性アナウンサーの絶叫にも似た声が響く。

「津波が来れば少しは涼しくなるんじゃないか」

などと軽口を叩く江戸川だったが、彼はまだ我が身を待ち受ける運命を知る由もなかった。


駿河湾から九州沖にかけての海底に延びる水深4000メートル級の深い溝のことを「南海トラフ」と呼ぶ。

南海トラフの南側にあるフィリピン海プレートは、日本列島が乗っているユーラシアプレートに毎年数センチずつ移動し、その下に沈み込んでいる。

海側のフィリピン海プレートが動くと、陸側のユーラシアプレートが引きずり込まれ、ひずみがたまっていく。

そのひずみが限界に達すると、陸側のプレートが元に戻ろうとして跳ね上がり、地震が発生する。

その際、プレートが海水を一気に持ち上げるため、津波も発生する。

南海トラフでは過去に約90~150年間隔でマグニチュード8前後の巨大地震が繰り返し発生している。

駿河湾を震源とする東海地震、遠州灘沖と熊野灘沖を震源とする東南海地震、紀伊水道と土佐湾沖を震源とする南海地震が連動した場合、マグニチュード9クラスの超巨大地震となる。

南海トラフで連動型の巨大地震が発生すると一体どうなるのか。

平成24年(2012年)8月に発表された国の中央防災会議の有識者会議の試算によると、最悪の場合、関東以西の30都府県で最大32万3000人が死亡する(うち津波による死者は7割)。負傷者は62万3000人。

全壊・焼失建物は238万6000棟。自力で逃げられなくなる脱出困難者は31万1000人。津波による浸水面積は1015平方キロメートル。

最も被害が大きいのは静岡県で、10万9000人が死亡(静岡県民の35人に1人が死亡)する。

各地の震度の想定は、静岡県から宮崎県までの10県151市区長村で震度7。

震度6強が21府県239市区町村。東京都内は震度5強。

津波は高知県黒潮町と土佐清水市で最大34メートルにもなり、8都県を20メートル以上の大津波が襲う。

経済的な損失も甚大だ。有識者会議の試算では、最大で220兆3000億円にのぼる。日本のGDP(国内総生産)の42%に当たる。

これは日本の国家予算の2年分を上回り、平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災の10倍以上である。

太平洋沿岸が大地震と大津波に襲われ、建物、道路、電気、上下水道などのインフラとライフラインの被害は関東以西の40都府県で169兆5000億円にのぼる。

最も被害額が大きいのは企業の工場が集中する愛知県で30兆7000億円。大阪府では24兆円と推定される。

避難者数は地震から1日後で700万人。1週間後は950万人。1ヵ月後でも880万人にのぼるとみられる。

停電は発電施設の被災や需給が不安定になることで被災直後に2710万軒。1週間後も88万軒にのぼる。電話は930万回線が不通。

断水は水道管の破損や浄水場の被災で地震直後に3440万人が影響を受け、1日後は2840万人。1週間後は1740万人、1ヵ月後も460万人が水道を使えない。

都市ガスは180万戸で使用不能。1週間後も160万戸、1ヵ月後でも50万戸で給湯器などが使えない。

津波により港湾の防波堤は延長417キロのうち135キロに被害が生じる。被災地の港湾が本格的に復旧するのは2年以上後。

そして、被災地から出る廃棄物は最大で2億5千万トン。津波で運ばれる土砂は5900万トン。総計3億1千万トン。地震から1年後でも処理できない。

死者数だけで東日本大震災の約20倍。被害額は東日本大震災の10倍以上。まさに“戦後最大の国難”と言うべき未曽有の大災害である。

東京都の死者は推定1500人。津波被害を受ける島嶼部のみであり、23区内の被害は想定していない。

しかし、エレベーターのある高層ビルが林立する都内では、震度5弱以上の揺れを感知すると最寄りの階に自動停止するエレベーターが多いが、地震による停電でエレベーターそのものが停止してしまい、多くの人々が閉じ込められることになる。

エレベーターに閉じ込められる人は最大で2万3000人。これらの人々を救出するために多くの救助人員が割かれるので、火災や倒壊で家屋に閉じ込められた被災者の救出が遅れる可能性もある。


地震発生直後から本州・四国・九州にかけての日本の太平洋沿岸に大津波が襲来した。


静岡県伊東市で地震発生の19分後に10メートル。

下田市で13分後に33メートル。

沼津市で4分後に10メートル。

静岡市で4分後に13メートル。

中部電力・浜岡原子力発電所がある御前崎市で5分後に19メートル。

磐田市で5分後に12メートル。

浜松市で5分後に16メートルの大津波が到達した。


愛知県では豊橋市で地震の9分後に19メートル。

名古屋市で地震の1時間42分後に5メートル。

三重県津市で1時間6分後に7メートル。

尾鷲市で4分後に17メートル。

志摩市で6分後に26メートルもの大津波が襲った。


和歌山県串本町では2分後に18メートル。

新宮市で4分後に14メートル。

御坊市で15分後に16メートル。

和歌山市で46分後に8メートル。


大阪市で1時間50分後に5メートル。

兵庫県神戸市で1時間31分後に4メートル。

姫路市で1時間59分後に3メートル。

淡路島の南あわじ市で39分後に9メートル。


津波被害は四国が凄まじく、香川県高松市で1時間56分後に4メートル。

徳島県徳島市で44分後に7メートル。

美波町で12分後に24メートル。

高知県室戸市で3分後に24メートル。

高知市で16分後に16メートル。

須崎市で15分後に25メートル。

黒潮町で8分後に34メートル。

土佐清水市で4分後に34メートル。

宿毛市で8分後に25メートル。

愛媛県松山市で2時間17分後に4メートル。

四国電力・伊方原子力発電所で46分後に3メートル。

宇和島市で29分後に13メートルの津波が襲った。


津波は瀬戸内海沿岸も襲い、岡山県岡山市で3時間21分後に3メートル。

広島県福山市で3時間51分後に4メートル。

広島県広島市で3時間42分後に4メートル。

山口県防府市で2時間3分後に4メートル。

山口市で2時間13分後に5メートル。

下関市で3時間39分後に4メートル。


九州では福岡県北九州市で3時間30分後に4メートル。

大分県大分市で47分後に9メートル。

佐伯市で18分後に15メートル。

宮崎県延岡市で18分後に14メートル。

日向市で18分後に15メートル。

宮崎市で18分後に16メートル。

日南市で16分後に14メートル。

鹿児島県志布志市で36分後に7メートル。

肝付町で28分後に10メートル。

鹿児島市で1時間45分後に4メートル。

九州電力・川内原子力発電所がある薩摩川内市で1時間34分後に5メートル。


神奈川県小田原市で28分後に4メートル。

鎌倉市で34分後に10メートル。

千葉県館山市で31分後に11メートル。

鴨川市で39分後に8メートル。

勝浦市で41分後に6メートル。

東海第二原子力発電所がある茨城県東海村で1時間30分後に3メートルの津波が観測された。


東京は伊豆大島の大島町で20分後に16メートル。

新島の新島村で12分後に31メートルもの津波が到達し、東京湾には3時間6分後に3メートルの津波が到達するという。


日本の沿岸を津波が総なめした感じだ。

工業出荷額が日本全体の3分の2を占める「太平洋ベルト地帯」は激震と大津波で壊滅し、日本の大動脈である東名高速道路と東海道新幹線は全線不通。

テレビのニュースは被災地が大津波に襲われるシーンを繰り返し放送している。

黒い濁流が大量の瓦礫とともに人家を押し流し、街を呑み込み、すべてを破壊し尽くして海に連れ去っていく。

波が去った後は見渡す限りの泥の海だ。打ち砕かれた建造物や大木、岩石、車両、船舶などの瓦礫が累々と横たわり、泥の中から引き裂かれた人体が突き出ている様は、まさにこの世の地獄のような光景だった。

生き残った人々は愛する者を失って途方に暮れる者、気が触れたように泣き叫ぶ者、魂を置き忘れたように呆然とする者など十人十色だった。


しかも、悲劇はこれだけでは終わらなかったのである。


地震発生から6時間後の午後5時46分。

再びテレビの画面に緊急地震速報のアラームが鳴り響いた。

「千葉県で地震。強い揺れに警戒」

数秒後、東京は二度目の激しい揺れに襲われた。

南海トラフ巨大地震の余震か。いや、そうではなかった。

南海トラフと連動し、相模トラフが動いたのだ。

震源は房総半島南端の野島崎付近。地震の規模を示すマグニチュードは8.5。


フィリピン海プレートの境界線には南海トラフの他に相模トラフと呼ばれる震源域がある。

相模湾のフィリピン海プレートと北アメリカプレートの境界(相模トラフ)を震源とする巨大地震は過去に繰り返し発生している。

元禄16年11月23日(1703年12月31日)に関東地方を襲った元禄地震、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災が相模トラフ沿いの巨大地震である。

南海トラフ巨大地震が相模トラフ巨大地震を誘発する可能性があり、過去には東海道沖を震源とする安政東海地震(1854年12月23日)の32時間後に紀伊半島沖を震源とする安政南海地震が起きている。


うだるような暑さの中、東京・墨田区の自宅で死んだように寝ていた江戸川は凄まじい地鳴りで目が覚め、突き上げるような激しい揺れで飛び起きた。

開けっ放しの窓から外に転がるように飛び出した直後、築50年以上の老朽化した自宅は轟音とともに白煙を上げて崩れ落ちた。

台所で夕食の支度をしていた妻・妙子の姿はない。

「おい、ばあさんや。ばあさんや、いたら返事をしてくれ」

何度も呼びかけたが妙子の返事はない。

血のような真っ赤な夕空を見上げると、すぐ目の前の東京スカイツリーが振り子のように揺れているのが見えた。

平成24年(2012年)2月29日に完成し、同年5月に開業した高さ634メートルの「世界一高いタワー」だった。

耐震性は極めて高く、27年前の東日本大震災でも被害はなかったが、今回の地震では外部の設備(ライトアップ用の照明器具)や鉄骨の一部が破損し、地上に落下した。

スカイツリーに隣接する高層ビルも大きく揺れている。

ビルの上層階では室内の家具やOA機器が揺れに合わせて左右に激しく移動し、窓ガラスを突き破って転落した。

ガラスの破片、家具、OA機器が凶器と化して地上にいた人々を直撃し、割れた窓から放り出された人々がこれに続いた。

とても立っていられない激しい揺れだ。江戸川は這うようにして安全な場所に避難しようとした。

この一帯は新しいビル群の間に古い住宅が密集している。

周囲の老朽化した木造家屋が次々に倒壊し、粉塵と瓦礫の破片を巻き上げた。

屋根瓦の欠片が飛んできて、江戸川は頭と足に傷を受けた。

コンクリートの電信柱がポッキリと折れ、電線がちぎれて稲妻のような閃光と火花を散らした。

地面は激しく波打ち、アスファルトやコンクリートの路面が割れて黄色い土がむき出しになり、水道管が破裂して真っ黒な泥水を噴き上げた。

車道では自動車同士が多重衝突し、ガードレールを突き破って歩道に突っ込み、漏れ出したガソリンに引火して炎上、次々に誘爆して阿鼻叫喚の焦熱地獄と化していた。

街のあちこちから真っ赤な火の手が上がり、真っ黒な煙が空を覆い始めた。

次第に揺れが収まってきて、江戸川は立ち上がろうとしたが、倒れてきた木材の下敷きになってしまい、動けない。

と、その時……。

崩壊した江戸川の自宅から灰色の煙が立ち昇った。

漏電したのか、燃えやすい木造家屋はたちまち黄色い炎を上げて燃え始めた。

「だ、誰かあッ!た、助けてくれえッ……!」

声を振り絞って叫んでみるが、誰からも反応はない。

鼻を突くキナ臭い熱風が渦巻き、江戸川の露出した肌は焼かれて体毛はチリチリとくすぶり始めた。


相模トラフ巨大地震で発生した大津波は相模湾沿岸を呑み込み、東京湾にも侵入してきた。

横浜、川崎、千葉の湾岸に集中する石油タンクが火を噴き上げ、湾内に流れ込んだ石油が燃え広がる。

この“燃える水”が津波とともに東京湾から河川を逆流し、壊れた堤防から市街地になだれ込んだのである。

湾岸に立ち並ぶタワーマンションは次々に炎上し、そびえ立つ松明のようになった。

火災の熱と煙に耐えられず、逃げ遅れた人々は自ら身を投げた。

消防車の梯子も届かない高さだ。駆けつけた消防隊は為す術もなく見守るしかなかった。


テレビのニュースは東京湾岸の石油コンビナート火災を伝えていた。紅蓮の炎が渦巻き、漆黒の煙が空を覆い尽くし、この世の終わりのような光景を現出していた。

平成15年(2003年)9月26日に発生したマグニチュード8.0の十勝沖地震では、北海道苫小牧市の出光興産北海道製油所で石油タンク2基の火災が発生した。

苫小牧周辺の堆積平野で増幅された長周期地震動の周期と石油タンクの固有周期が一致し、石油タンクの中で液体が共振する「スロッシング現象」が発生、浮き蓋の上にあふれ出した重油やナフサに引火したことが分かっている。

この教訓から平成19年(2007年)以降、スロッシングを避けるため、石油タンク内の石油の量を下げることが決められている。

しかし、タンクの導管から油が漏れて出火する可能性はあり、石油備蓄基地の最大の弱点と指摘されてきた。

また、地盤の液状化※による石油タンク倒壊の危険性も指摘されていた。ひとたび液状化が始まると、地盤は50メートルも水平移動する可能性がある。

東京湾の石油コンビナートは耐震化されていたが、いくつかの石油タンクは点検のため石油を抜き、水を入れていた。水を入れたタンクは重くなり、地震の揺れで倒れやすくなる。ひとつのタンクが倒れれば、周囲のタンクも倒壊し、大炎上してしまうのだ。

東京湾岸には5000基以上もの石油タンクがある。

千葉県市川市・船橋市の京葉臨海北部地区に230基。千葉市・市原市の京葉臨海中部地区に2888基。東京都大田区から神奈川県川崎市・横浜市にかけての京浜臨海地区に2082基。

これらの石油タンクからおびただしい量の石油が漏れ出して引火し、東京湾にも流れ込んでいた。

横浜の海上防災基地から出動した海上保安庁の船舶は炎上する東京湾に入れず、海からの消火活動は断念せざるを得なかった。

さらに、湾内に取り残された貨物船や大型タンカーが次々に炎上し、今や東京湾は「巨大な火薬庫」と化していた。

東京湾には品川火力発電所、大井火力発電所など12基の火力発電所がある。湾内に石油が流れ込んだため、これらの発電所では冷却用の海水を取水することができなくなった。

火災により生じた大量の黒煙は風に乗って東京都心に流れ込んだ。煙には二酸化硫黄などの硫黄酸化物、二酸化窒素などの窒素酸化物、一酸化炭素、炭化水素、浮遊粒子などの人体に有害な物質が多量に含まれていた。

東京湾の大火災が自然鎮火するまでには1週間かかるとの見通しも出た。日本が海外に依存する燃料、食料、工業原料の35%が東京湾に運ばれる。東京湾が機能不全に陥ったことは、日本全体の麻痺を意味していた。


※液状化現象。地震の際に地下水位の高い砂地盤が振動で液体状になる現象。比重の大きい構造物が埋もれ、倒れたり、地中の比重の小さい構造物(水道管など)が浮き上がったりする。


テレビのニュースは「環状7号線と8号線の間の木造住宅街で大規模火災が発生」と伝えた。

警視庁は環状7号線の信号をすべて赤にし、都内に車両を入れさせず、一方通行にして車の流れを都外に押し出しているという。

環七と環八の間に広がる住宅街の大火災で夜空は不気味な血の色に染まり、キナ臭い風とともに火の粉が降り注いでくる。

竜巻のような炎の柱が夜空を焦がし、魔物のように荒れ狂いながら地上の建物を舐め尽くしている。


佐藤雄三(55歳)は埼玉県行田市の自宅で妻(53歳)と2人暮らし。

新宿区に本社のある保険会社の外交員だったが、地震発生当時、担当地区である京王線沿線を歩いていた。

保険外交員の仕事は厳しい。

担当地区や担当職場訪問先は与えられるが、一自営業であり、飛び込み営業も必要だ。

朝出社し、夕方帰社して報告する。

顔が広くないと難しいところがあり、佐藤は転職も考えていたが、自分の年齢を考えると今より条件のいい職場は見つかりそうにもなかった。

高給取りの外交員もいるが、それはほんの一握りに過ぎず、佐藤の給料だけでは到底生活できないので、佐藤家の収入はファッションデザイナーである妻・千里の稼ぎに頼っているところが大きかった。

佐藤は北海道江別市出身。東京の大学を出た後、医療機器メーカーで営業の仕事をしていた。

由香という一人娘がいたが、21年前、小学5年生の時にマンションから飛び降り自殺した。

自殺の原因は担任の男性教師にレイプされたことだった。

由香を自殺に追い込んだ男性教師は懲戒免職になったが、その後、何食わぬ顔をして別の学校で教師をしていることを知り、佐藤は復讐を決意した。

懲戒免職で教員免許を失効しても、3年で再申請が可能になるため、再び免許を取得し、前歴を隠して他の土地で再就職する教員が後を絶たないのだ。

(これでは死んだ娘が浮かばれない……)

仕事を辞めた佐藤は娘の敵を捜し出し、文化包丁で刺し殺した。佐藤は逮捕され、裁判で懲役12年が確定。

服役中に妻は心労で亡くなり、模範囚として9年で仮釈放された佐藤は、保険の外交員をしながら今の妻と出会った。

千里は前の夫との間に男の子を一人産んでいたが、夫の家庭内暴力で離婚。女手ひとつで息子を育て上げ、息子はもう独立している。

もう子供ができる年齢ではなかったし、佐藤も娘のような悲劇は懲り懲りだった。

子供のいない佐藤夫妻は貧しいながらも平和で安定した生活を送っていたのである。


仕事中に地震に巻き込まれた佐藤は京王線笹塚駅の近くにいた。

立っていられない激しい揺れ。周囲のビルから壁や看板がはがれ落ちて地面に落下した。

佐藤はカバンで頭をかばいながら安全な場所を求めて右往左往した。

古い木造家屋の多くは倒壊し、倒壊を免れた鉄筋コンクリートの建造物も土台から傾き、無残な姿を曝している。

電柱も折れたり、傾いたりしていて、切れた電線が垂れ下がっている。電気が流れていれば感電する恐れがある。

夏の夕方でまだ外は明るかったが、地震直後に発生した大火で空は墨を流したような黒煙に覆われ、環七沿線は猛火に包まれていた。

凄まじい臭気と熱気。激しく咳き込む人々。

誰かが「人が降ってきた!」と叫んだ。雄三が夜空を見上げると、無数の浮遊物が宙に舞い、豆粒のような人型がくるくる回転しているのが見えた。

(火災旋風だ……!)

雄三は以前、テレビで見たのを思い出した。

秒速100メートル、最高温度1000℃という火災旋風は、100~200メートルもの高さに達する。

火災により生じた上昇気流に乗り、酸素を求めて地上に吹き下ろす。

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災では、発災1時間後から34時間にわたり100以上の火災旋風が発生した。

火災旋風に巻き込まれた数百人が空高く舞い上げられ、地表に激突死した。

昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲では、都内各所で巨大な火災旋風が発生し、バケツリレーで消火作業に当たった人々を呑み込み、死者10万人、負傷者100万人という甚大な被害を出した。

火災旋風の詳しいメカニズムは解明されていない。予測不能な炎の渦が縦横無尽に暴れ狂い、地上の人々を容赦なく焼き尽くそうとしていた。


雄三は新宿の本社に引き返そうとしたが、スマホで情報収集すると、すでに東京湾から有毒ガスが都心に流れ込んでおり、政府は23区の住民に屋内退避を呼びかけていた。

(環七と東京湾に挟み撃ちにされて、このままじゃ東京から脱出できなくなるぞ……)

東京湾岸に12基ある火力発電所と5000基の石油タンクが被災したため、都内は大規模な電力不足に陥り、停電と断水が長期化する恐れがある。

雄三は素早く思考を巡らせた。

環七沿線を北上し、荒川に出て、荒川沿いを歩いて埼玉に入り、あとは高崎線の線路に沿って歩いて行けば、自宅のある行田市にたどり着ける。

歩いて行くのは無謀だと思ったが、今はそれしか生き残る道はないと思った。


比較的安全な道を探しながら一晩中歩き続け、東の空が白む頃、ようやく雄三は板橋区まで来た。


北区の赤羽に出て、東北本線沿いに歩いて行くつもりだったが、地震で荒川の堤防が決壊したとの情報が飛び込んできた。

「地震洪水」という聞き慣れない言葉に雄三は首を傾げた。

荒川は埼玉県秩父地方を源流とし、東京東部を流れて東京湾に注ぎ込んでいる。その名の通りの“暴れ川”であり、たびたび氾濫を繰り返してきた。

江戸時代の寛保2年7月28日(1742年8月28日)の洪水(寛保二年江戸洪水)では、浅草が水深2.1メートル、亀戸が3.7メートルも浸水した。

国は過去のデータを元に上流にダムを築き、遊水池や水門を設け、堤防の高さと幅を大きくするなどの治水事業を行なってきた。

中でも昭和5年(1930年)に完成した荒川放水路は、明治43年(1910年)8月の「東京大水害」を機に東京を水害から守るために開削された放水路だ。

平成7年(1995年)1月17日の阪神・淡路大震災では、淀川の堤防が2~3キロメートルにわたって破壊された。

堤防の基盤地盤が液状化で3メートルも沈下したのである。

全体では19ヵ所、延べ延長約5.7キロもの区間で堤防の沈下や亀裂などの被害が出た。

この荒川放水路の左岸堤防は阪神大震災で破壊された淀川の堤防と同じ形状をしている。

平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災では、千葉県浦安市や東京・江戸川区で液状化による被害が広範囲に発生した。

翌年、東京都が作成した液状化予測図では、江東5区の海抜ゼロメートル地帯で隅田川、荒川放水路、江戸川、中川、新中川の堤防の真下に液状化の可能性が高い地盤が広範囲に存在することが分かった。

つまり、地震による液状化現象で、東京の周囲を取り巻く江戸川、新中川、中川、荒川、隅田川の河川堤防が同時多発的に破壊され、大洪水が発生する可能性が指摘されていたのである。

特に荒川左岸堤防は阪神大震災時の淀川と同じ形状であり、約2キロにわたって連続破壊沈下を引き起こす可能性が高いと指摘されていた。


ニュースでは、JR赤羽駅近くの堤防が決壊し、すでに駅周辺の水深は2メートルにも達しているという。

荒川からあふれ出した水は東京都心の丸の内や大手町にも達し、東京都と埼玉県の約98平方キロメートルが浸水した。

しかも、地震による堤防の破壊が原因の地震洪水では、河川とつながる海から河口を逆流してきた海水が氾濫を引き起こす。

河川の水とともに東京湾から膨大な海水が都心に流れ込み、海水面と同じ高さになるまで浸水が止まらないのである。

その上、海の干満に合わせて洪水が流入・流出を繰り返すため、堤防の決壊部をさらに広げてしまう。

洪水を食い止めるには仮設堤防を作り、ポンプで水を汲み出すしかないが、全国からポンプ車をかき集めても排水には4週間もかかるという。


雄三は水と食料を探したが、どこのコンビニも品切れ状態。公園の水道も断水していた。

避難所となっている小学校をのぞくと、多くの避難者ですし詰めの状態だった。ほとんどが高齢者で、日本の高齢化を見せつけられる思いだった。


令和7年(2025年)には世帯主が65歳以上の世帯が都内で213万世帯(都内全体の3分の1)に達した。

同じ年には世帯主が75歳以上の世帯が都内で平成17年(2005年)の2倍以上に増加した。

また、65歳以上で一人暮らしの高齢者が都内で87万人に達し、23区内の生活者が7割を占めた。

この年(2025年)、東京圏の世帯数がピークに達し、高齢者世帯が増加。

この年までに日本の人口は約400万人減少し、翌年(2026年)から日本の人口は1億2000万人を下回った。

令和12年(2030年)には日本の人口がピークだった平成18年(2006年)から1000万人減少し、日本の生産年齢人口は7000万人を下回った。

同じ年、日本人の平均年齢は53歳になり、日本の労働力人口は5680万人になった。

東京区部の人口はこの頃まで増加を続けたが、令和22年(2040年)には日本の人口は約15%減少し、高齢者の割合は約36%に上昇。

日本の総人口は1億700万人に減少するとみられていた。

令和24年(2042年)以降、すべての年齢層で人口が減少し始めるとみられ、毎年100万人規模で日本人が減っていくことになるのだ。

令和30年(2048年)にはついに日本の総人口は1億人を割り込み、令和32年(2050年)には日本の総人口は9600万人に減少(2010年との比較で20%の減少)する。

労働力不足は深刻化し、インフラを維持できなくなり、地方は過疎化が進み、東京の一極集中はさらに加速する。

日本経済の生産力を維持するには、2050年までに日本の総人口の3分の1に相当する約3000万人の移民(家族を含め約4600万人)を受け入れる必要があった。

しかし、英語が通じず、難解な日本語を理解しなければならない日本への移民は外国人労働者にとって魅力に欠け、思うように移民は集まらなかった。

日本は少子高齢化問題を先送りにし続けてきた結果、かつて世界第2位を誇っていた経済力※は衰退し続けていた。

2038年、衰退する日本を尻目に中華人民共和国が経済力では世界1位となった。


※日本のGNP(国民総生産)は昭和43年(1968年)に西ドイツ(当時)を抜いて世界2位となった。以降、42年間にわたって日本は米国に次ぐ世界2位の経済大国の地位を維持していたが、平成22年(2010年)に中華人民共和国に名目GDP(国内総生産)で抜かれ世界3位となった。


「水や食べ物はありませんか?」

区役所の腕章を巻いた中年男性に訊ねたが、

「ここには何もありませんよ」

という素っ気ない返事。

「何もないってどういうことですか?ここは避難所でしょう?備蓄食料とかないんですか?」

「流通備蓄なんでないんですよ」

「流通備蓄?」

災害に備えて全国の自治体は飲料水や非常食などを備蓄しているが、毎年、賞味期限切れの在庫を処分しなければならず、コストがかかる。

そのため、自治体は災害時に業者から物資を供給してもらう契約を結んでいる。これを「流通備蓄」と言い、国も都も流通備蓄を「備蓄したもの」とみなしていたのである。

ところが、大震災で交通規制が行なわれたため、物資が届かない。物流倉庫は東京湾岸に集中しており、液状化現象や火災で倉庫が被災した可能性が高かった。

しかも、流通備蓄は各自治体が独自に民間業者と契約を結んでいるため、自治体間の連携が取れておらず、大手業者に契約が集中している。

大手業者が被災すればイチコロだ。都内の避難所はどこも一様に水も食料もないという絶望的な状況に陥っていた。


便意を催したのでトイレを探すと、校舎のトイレも長蛇の列。

「くっせー!」

と叫んで元気よく子供たちが駆け出す。雄三の鼻孔を悪臭が突いた。水が止まっているため、用を足しても便器に水を流せない。それでも人間は排泄行為をやめることはできない。避難者が構わず排泄するので、便器からあふれた山のような排泄物で息が詰まりそうだった。

(断水しているのに用を足せばどうなるか分かっているはずだ。仮設トイレを作ればいいじゃないか。なんで、みんな掃除しようとしないんだ……?)

雄三は腹が立ってきた。

日本は世界一清潔な国で、日本人の民度は高く、世界有数の安全で衛生的な国だと言われてきたが、これでは発展途上国の民度をバカにできない、と思った。


政府は災害対策基本法第109条の緊急措置を決定し、国民生活安定緊急措置法第26条で生活必需物資の配給と物価統制を定めた。

この措置により、全国の食品メーカーは政府に商品を供出しなければならず、とりあえず当面の物資は確保できたかに見えた。

ところが、全国から集められた支援物資は政府が置かれた東京に集中することになり、皮肉にも東京以外の全国で深刻な物不足が発生したのである。

最も不足したのはガソリンなどの石油製品だった。東京・千葉・神奈川の3都県で全国の24%の石油製品が生産されているが、東京湾の大炎上で壊滅状態に追い込まれたため、全国からガソリンを調達しなければならなくなった。

その結果、全国でガソリンが不足する事態となった。首都・東京を生かすためのやむを得ない措置ではある。が、東京を生かせば地方が死ぬ。東京が死ねば日本が死ぬのだ。

日本の首都を遷都すべきという声も上がった。さいたま新都心に一時的に首都機能を移転する案も浮上した。しかし、「首都の代替機能は東京以外にない」として官僚が抵抗したため、この案は立ち消えとなった。


東京が今、死にかけている。そしてそれは、日本という国が死に始めたことを意味していた――。


荒川の堤防決壊で大量の泥水が荒川区の東京メトロ千代田線町屋駅に流れ込み、板橋区や足立区にも広がり、避難所となっている板橋の小学校も水浸しになった。

足立区の北千住駅付近は地下鉄のトンネルを通って濁流が流れ込み、完全に水没してしまったという。

オフィス街が広がる新橋駅周辺も見渡す限りの泥の海と化していた。

地震洪水による死者は3万5000人から8万1000人との見通しも出た。

東京が炎上し、水没する……。SF映画でしか見たことのないような凄惨な光景が現出していた。


被災者たちは火災の煙と煤で顔を真っ黒に染め、血と汗と泥にまみれながら、安全な場所を求めて右往左往していた。

洪水でトイレや下水道から汚物があふれ、強烈な悪臭を放つ汚水で衛生状態は劣悪になっている。

病原菌やウイルスが蔓延し、避難所で感染症のクラスター(集団感染)が起きれば、目も当てられない惨状になるだろう。

(もはやここも安全ではないな。何とかして東京を出なければ……)

だが、どうやって東京を脱出すればよいのか。

環七と環八の間は大火で突破は不可能だ。

さらに荒川沿いは浸水で移動できない。

火と水に阻まれ、東京からの脱出は極めて困難な状況になっていた。

雄三は絶望感で目の前が暗くなるのを感じた。

(東京は低地で、しかも荒川や隅田川のような大きな川が流れ込んでいる。おまけに住宅が密集していて、江戸時代から何度も大火で焼け野原になった。火事と洪水のリスクと背中合わせのところに1300万人も住んでいるんだ。考えてみれば、これほど危険な大都市は世界でも東京くらいのものじゃないか?東京は人間が住むのに適した環境じゃない。よく、今までこんなところで暮らしていたものだ……)

雄三は今更ながら東京の危険性に気付いたのだった。


雄三は災害伝言ダイヤルの171をプッシュし、ガイダンスに従って自宅の電話番号をダイヤルし、伝言を録音した。

「俺だ。北海道の兄貴のところに行く。無事なら来てくれ。待ってる」

北海道の実家では兄の雄一が土地を持っており、農業を営んでいた。

これから食糧難の時代がやってくる。アスファルトとコンクリートに囲まれた東京には飲める水も、実のなる木も、耕すべき畑もほとんどない。

戦争や災害で輸入が途絶えれば、たちまち恐ろしい飢餓が襲ってくる。餓死者が続出してもおかしくない。

実家で農業を手伝えば、自分の食べるものは何とかなるかもしれない。

これからは学歴や職歴、年収なんてものが意味を持たなくなるだろう。自分で自分の食べるものを手に入れられる人間こそが最強なのだ。

何とかして東京を出て、ヒッチハイクでもしながら北海道の実家に行こう。

千里は無事だろうか。もし生きていれば北海道まで来てくれるだろう。

(何があろうとも、人間は最後の瞬間まで、自分の力で生きなきゃいけないんだ……)

雄三は自分に言い聞かせるように頭の中で復唱し、足にぐっと力を入れて踏み出した。


令和20年(2038年)8月13日(金曜日)。


その日、大矢明裕(85歳)は神奈川県川崎市多摩区の自宅マンション5階の部屋にいた。

午前11時56分、マグニチュード9.3という日本の観測史上最大級の南海トラフ巨大地震が発生。

それから6時間後の午後5時46分、マグニチュード8.5の相模トラフ巨大地震が起きた。

地震の揺れは確かにひどいものであったが、大矢が住む鉄筋コンクリート造りの8階建てマンションは堅牢であり、大矢と妻の栄子は無事であった。

「ばあさんや、大丈夫か?」

「すごい揺れでしたねえ。おじいさんこそ大丈夫ですか?」

「わたしゃ、この通り元気だよ。おまえ、けがはないか?」

「はい。それより、どこで地震があったんでしょ?テレビをつけてくださいな」

ふたりとも高齢である。

マンションのリビングは食器棚からこぼれ落ちた食器類で足の踏み場もないような有様。薄型テレビは引っくり返り、停電したのか電源が入らない。

ポータブル・ラジオの電源を入れた大矢は、しばらくラジオのニュースに耳を傾けていたが、27年前の東日本大震災の時、直接の被害がなかった首都圏でも「買い占め騒ぎ」が起こり、スーパーやコンビニの陳列棚から商品が消えたことを思い出した。

「おい、ばあさんや。どうも、大変なことになってるみたいだ。今のうちに水と食べ物を買っておいた方がいいと思うが、これからちょっと行ってくる」

「外は暑いし、まだ危ないですよ」

「なに、すぐそこのスーパーだ」

大矢は栄子が止めるのも聞かずに部屋を出た。

エレベーターが止まっているので非常階段を降り、マンションから徒歩3分ほどのスーパーマーケットを目指した。

目もくらむような炎天下を大矢はゆっくりと歩いた。

方々で救急車や消防車のサイレンが聞こえる。どこかで火事が起きているのかキナ臭い風が漂ってくる。

(お、なんだこれは……)

大矢は目を疑った。まだ地震が起きたばかりなのにスーパーの前に長蛇の行列。

若者もいれば高齢者もいる。老若男女を問わず、猛暑の中で人々が押し合いへし合いながら並んでいるのだ。

人間、考えることは誰しも同じだった。大きな災害の後に来るのは飲料水と食料品の不足だ。大矢と同じようにみんなが水と食料を求め、スーパーに殺到したのだ。

いつもなら混雑していても大して待つこともなく終わる買い物が、この日は数時間待ってもレジまでたどり着けない。

大矢が会計を済ませる頃には商品もすっかり消え失せ、人々は別の商店を探して移動していた。

帰りがまた大変だった。エレベーターが使えないので、5階の部屋まで階段を登るしかない。85歳の衰えた足腰に階段の昇降はきつかった。

「おじいさん、あんまり無理しないでくださいよ」

しきりに心配する栄子。彼女も今年80歳。夫婦そろって高齢者だ。どちらかが動けなくなれば共倒れになる。


大矢は岩手県盛岡市出身。大の犬好きで、盛岡の県立高校を卒業後、上京してブリーダーになった。

神奈川県川崎市にペットショップ「大矢ケンネル」を開業し、ブリーダーとしての腕は非常に優秀であった。

長年続けた店を高齢化により閉じた後、今は妻の栄子と年金暮らし。

一人娘の裕実は33年前の2005年夏に交通事故で他界し、夫婦ふたりきりの孤独な生活を送っていた。

無論、年金だけでは食べていけない。

大矢も動けるうちは働こうと思い、警備員や駐車場の管理人などをし、栄子も近所のスーパーでパートタイムの仕事をしていたが、年齢を重ねるごとに仕事も減り、夫婦ともに持病もいくつか抱え、体中が悲鳴を上げていた。

少しでも収入を増やそうと株式投資もやってみた。

証券会社の営業マンから、

「預金だと金利は1%にもなりません。株式投資をしてみませんか」

と勧められ、電力会社と鉄道会社の二銘柄の株を購入した。

電力会社は途上国への進出で将来が期待できる割安株だと思い、3000株を900万円で、鉄道会社は徐々に株価が上がると思って1万5000株を750万円で購入したのである。

ふたつとも安全な値上がり株だと思っていたが、電力会社は増資に踏み切り、株価は1900円にまで下落。

上がる気配がないため手放したところ、300万円以上の損失となってしまった。

かなりショックだったが、気を取り直し、鉄道会社の株で取り戻そうと思っていた。

ところが、その鉄道会社も増資に踏み切ったため、株価は300円台にまで落ち込んでしまった。

売れば再び300万円の損失。甘い誘い文句に釣られて生半可な気持ちで始めた株式投資だったが、1500万円以上あった貯金をわずか2年で700万円も減らしてしまったのである。

今のところ、夫婦は何とか食べていけるが、どちらかが病気や怪我をして入院・通院することになり、医療費が増えると思うとゾッとするのだった。


2038年8月13日、日本列島を襲った悲劇は「8.13」として日本人の記憶に深く刻み込まれることになった。

この日を境に戦後長らく続いた日本の平和と豊かさは過去のものになっていったのである。


南海トラフ巨大地震と相模トラフ巨大地震の後、首都圏は日に日に深刻な物不足に陥っていた。


東名高速が被災して使えず、しかも太平洋岸の重要な港湾と工業地帯が破壊されてしまったため、食料や燃料、生活用品などの物資が全国で不足しており、なんとなく他人事だと思っていた首都圏の住民も物資の窮乏に苦しむようになった。

どこのスーパーやコンビニも入荷された商品は瞬く間に売り切れてしまう。

買い占めを防ぐため店頭には、

「お一人様商品は一点まで」

という注意書きが貼られたが、家族の多い家庭は一家総出で商品を買い占めてしまう。

買い占めた商品を不当な高額で売りつける悪質な転売業者も現われる。

こうした状況を受けて政府は、国民生活安定緊急措置法第26条に基づき、食料と生活用品の配給制を決定した。

同法では、

「物価が著しく高騰し又は高騰するおそれがある場合において、生活関連物資等の供給が著しく不足し、かつ、その需給の均衡を回復することが相当の期間極めて困難であることにより、国民生活の安定又は国民経済の円滑な運営に重大な支障が生じ又は生ずるおそれがあると認められるときは、政令で定めることにより、当該生活関連物資等の割当て若しくは配給又は当該生活関連物資等の使用若しくは譲渡若しくは譲受の制限若しくは禁止をすることができる」

と規定されている。

大矢は配給の行列に朝から晩まで並び、5階の自宅マンションに階段で昇り降りした。

配給所は近所の小学校の校庭だった。自衛隊のトラックがやってきて、迷彩服姿の自衛隊員が菓子パンを配ったり、おにぎりやカレーライスなどの炊き出しを行なう。

配給品は一人一個まで。あらかじめ配られた配給切符と引き換えに配給品を受け取る。

大矢は、

「家で弱って寝ている妻がいるんだ」

と言って、栄子の分も受け取ろうとしたが、ヘルメットにマスク姿の自衛隊員に、

「ご本人に来ていただかないと。そういう決まりなんです」

と断られた。

(冷たいやつだ……)

と思ったが、物資が不足している今は贅沢を言っていられない。一個だけもらったあんパンを持ち帰り、半分に分けて栄子と食べた。


栄子はどんどん衰弱していた。震災前はコロコロと太っていたが、震災のショックで食物が喉を通らないのだという。昼夜を問わず余震が襲ってくる。相当なストレスなのだろう。

停電と断水も日常茶飯事になった。突然、何の予告もなしに電気や水道が止まってしまう。電力不足で政府は節電を呼びかけ、計画停電の実施を決めたが、いつ停電するのか誰にも分からず、暗くなるともう何もできず横になるしかないのだった。

節電のため、マンションは玄関や廊下の照明は点いていても、エレベーターは停止したままだった。

85歳の老躯に食料調達の重労働はこたえた。栄子は大矢が配給で入手したわずかな食物も口にしようとしなくなった。

駅に行っても電車は本数が激減しており、すし詰め状態の列車をホームで長時間待つ羽目になった。

ガソリン不足でマイカーの使用は制限され、バスも本数削減。タクシーを拾うのも至難の業だった。

救急車は呼んでもなかなか来ない。病院は機能不全に陥り、緊急を要する手術以外は延期。重症者以外の入院患者は退院を余儀なくされた。

もはや人々は通勤・通学どころではなく、誰もが命の糧を求めて朝早くから長蛇の行列に並ばなければならなかった。

ゴミ収集車も来ない。路上に堆く積み上げられたゴミ袋は異臭を放ち、ハエがたかり、街の衛生状態は劣悪化していた。

停電の長期化で暗くなった街には泥棒や強盗が横行するようになり、日本の自慢であった世界有数の治安の良さも過去のものとなった。

誰もが夜の闇に恐怖を抱くようになり、侵入されやすい一軒家の住人は眠れぬ夜を過ごした。マンションの低層階にも賊が押し入り、大矢も護身用に包丁を枕元に置いて寝るようになった。

人々は疑心暗鬼に駆られ、誰も信用しなくなった。些細なことで争い、奪い合い、傷つけ合うようになった。

厄介な病人や老人は家族に見捨てられ、男たちは女性や子供が困っていても手を差し伸べようとしなかった。

混乱に乗じて闇取引で荒稼ぎする者、犯罪行為に手を染める者、利己的で他者の迷惑を顧みない者が幅を利かせるようになり、献身的で誠実な人間は軽んじられた。

前途を悲観した人々の自殺や無理心中が報じられるようになった。新聞紙も資源節約のため10ページ程度の薄っぺらなものになっていたが、大矢は気の滅入るような悲惨なニュースに接するたびに明日は我が身か、と思い、溜息を吐いた。

財力のある富裕層は海外に移住したり、子弟を留学させたりしていたが、そんな資力もない大多数の庶民は飢餓と犯罪者に怯えながら日本に留まるしかなく、記録的猛暑の中で底冷えのような絶望感が漂っているのだった。


「ほら、今日は、ばあさんの好きな梅干のおにぎりだよ。私はもう食べたから、遠慮せず、お食べ」

大矢は寝たきりになった栄子を少しでも元気づけようと、配給で1個しかもらえなかったおにぎりを栄子に与えようとした。

「ううん、いいのよ。おじいさんこそ食べて。もっと元気になってちょうだい」

栄子は弱々しく返事をするだけで、ほとんど口をつけようとしない。コンコンと咳き込み、熱もある。風邪をこじらせ、肺炎になったらおしまいだ。

病院はどこも患者の受け入れを拒否する。救急車は呼んでも来ない。来ても受け入れてくれる病院はない。

ドラッグストアも超満員で、入荷されたばかりの商品はあっという間に消えてしまい、風邪薬を手に入れることさえ難しいのだ。

もっと栄養価の高いものを食べなければ弱って死んでしまう。

が、今やどの店でも肉など滅多に手に入らず、闇市では市価の何倍もする怪しげな肉が売られている。何の肉か分かったものではない。

肉だけではない。野菜や卵、鮮魚、乳製品なども不足していた。外食産業は壊滅し、かつて家族連れでにぎわったチェーン店は閉鎖された。

広い庭のある持ち家暮らしの者は家庭菜園を作り、せめて野菜だけでも自給しようとしたが、大矢のような庭のないマンション暮らしではそれもままならない。

街からペットの犬や猫が消え、やがてカラスやハトも見かけなくなった。アスファルトの舗装道路を勝手に剥がし、畑を耕そうとする者も現われた。

大矢は毎日、痩せ衰えた肉体に鞭打って、足が棒になるまで歩き回り、わずかな食料を探し求めたが、通い慣れた回転寿司店の前まで歩いてきて、思わず足を止めた。

店はとっくに閉店している。うっすらと埃をかぶったテーブルが曇ったガラス窓から見えた。

震災前は年金暮らしの大矢も月に一度、自分と栄子への“ご褒美”に寿司を食べに訪れたものだった。

ほんの少し前まで当たり前にあった平和な生活がそこにあった。

金さえあればいつでもどこでも何でも買えて、贅沢を言わなければ平穏無事に暮らせた。その“当たり前の日常”はもう、どこにもない。

大矢の足下を砂埃とともに薄い新聞が舞った。ズボンに絡みついた新聞紙をつまみ上げると、社会面の記事が目に入った。

【母親が5歳女児を殺害】

【バラバラ遺体を発見、自宅で解体か】

というセンセーショナルな見出しで始まる記事は、神奈川県座間市のアパートで35歳の母親が生活苦から5歳の娘を絞め殺し、遺体を浴室でバラバラに解体していたという衝撃的な事件を報じていた。

容疑者の自宅からは遺体の解体に使ったとみられる包丁やノコギリが押収されるとともに、遺体の一部が入った冷蔵庫も見つかったという。

極度の貧困で精神に異常を来たしたのか?それとも、飢餓に迫られての食人目的の犯行か?

江戸時代、飢饉に見舞われた農村では、親が子を殺し、子が親を殺し、死者の肉を口にする者もいたという。

だが、今は戦後の平和で豊かな日本だ。ついに超えてはならない一線を超える者が出てきたのか。貧すれば鈍するというが、人心の荒廃は人間の理性や良心などいとも簡単に吹き飛ばしてしまうのだろうか……。


地震発生から49日目。

令和20年(2038年)10月1日(金曜日)。


殺人的な猛暑がいくぶん和らぎ、朝晩は肌寒いくらいに涼しくなり、秋の気配が漂う頃、日本最高峰の富士山(標高3776メートル)が永い眠りから目覚めた。

8月13日の南海トラフ巨大地震の翌日、富士山麓の静岡県富士宮市を震源とするマグニチュード7.0の強い地震があり、

「いよいよ富士山の噴火間近か」

と人々に緊張が走った。

その後、9月18日から山麓で不気味な地響きが聞こえるようになり、噴火前日の9月30日夜から富士山麓一帯でマグニチュード4~5の中規模の地震が数十回も起きた。

10月1日午前10時ごろ、富士山の南東斜面から白い雲のようなものが沸き上がり、入道雲のようにものすごい勢いで膨らんでいった。

富士山の東斜面には高温の軽石が大量に降り注ぎ、樹木を焼き尽くした。

火口から噴き出る噴石は10キロ先まで飛び、堅牢なコンクリートの建物の壁に穴を開けた。

午後4時ごろには噴煙の高さが1万メートルに達した。火口から真っ赤な火柱を盛んに噴き上げ、灰色の噴煙の中を稲妻が走る光景は神秘的ですらあった。


江戸時代の宝永噴火(1707年12月16日)以来、331年ぶりに大噴火した富士山は大量の火山灰を関東一円に降り積もらせた。

東京では前夜から地震が相次ぎ、当日の昼頃から雷鳴が聞こえた。南西の方角から黒い不気味な雲が広がってきて東京上空を覆い、空から雪のように白い火山灰が降ってきた。

大量の降灰で都内は真昼なのに薄暗くなり、夕方には灰が黒くなってきた。

火山灰はガラスや鉱物の小さな粒子である。吸い込んだり、目や皮膚に付着すると様々な障害を引き起こす。

細かい粒状の火山灰はパソコンなどの電子機器の内部に入り込み、静電気で誤作動やトラブルを引き起こす。

火山灰は水に濡れると硫酸イオンが溶け出して導電性を生じるため、送電線に積もると絶縁不良を引き起こす。また、火力発電所の吸気フィルターを詰まらせてしまうため、首都圏は大停電に陥った。

浄水場も機能停止。流れ込んだ火山灰が固まって下水道も使えなくなり、トイレの水を流すこともできなくなった。

航空機のエンジンが火山灰を吸い込むとエンジンが故障し、墜落の危険があるため首都圏の空港はすべて閉鎖された。

農作物への影響も深刻であった。

農地に降り積もった火山灰は日光を遮り、植物の成長を阻害する。火山灰は酸性であるため植物を枯らせてしまうこともある。

降灰量は富士山麓で約50センチ、東京都全域と千葉県の一部で約2センチ。

たった2センチの降灰でスリップ事故が多発し、道路も鉄道も使えず、農作物は1年も収穫できない。

火山灰は雪のように解けることもないため、除去作業には大変な時間と労力を要する。


「おじいさん、雪ですよ。雪。久しぶりですねえ。今日は裕実の誕生日でしたね。あの時も雪が降って、ここじゃ滅多に雪なんか積もらないもんだから、裕実ったら無邪気にはしゃいで、手が真っ赤になっても雪だるまを作るのをやめなくって、あなたが風邪ひくからやめなさいって大声で裕実を叱ったの、あの時が初めてでしたね……」

火山灰を雪と勘違いした栄子が子供のようにはしゃいで言った。

「ばあさんや、雪じゃないよ。灰だよ、灰。富士山が噴火したんだよ」

大矢の故郷は岩手県盛岡市である。5月まで雪が“根雪”となって融けずに残る盛岡と違い、神奈川では真冬でも雪が積もることは滅多にない。

「ばあさん、何をしてるんだ」

「裕実のために雪を取っておいてあげようと思いましてね。あの子、雪が大好きでしたね。雪国育ちのおじいさんの血を引いたんでしょうね」

大矢がいくら止めても栄子は聞かず、マンションのベランダに積もった火山灰を手ですくい取って集める。

「よさないか。栄子、裕実はもう死んだんだ。死んだ人間はもう、二度と戻ってこないんだよ」

大矢は涙声で言った。

裕実は病弱な娘だった。少しでも強い子に育ってほしいと願い、バレエや日本舞踊を習わせた。それが良かったのか、裕実は活発な娘に成長した。

学生時代はアルバイトで貯めた金でバイクを買い、ツーリングに出かけるようになった。

今となってはそれが仇になったのだ、と思う。

山道でカーブを曲がり切れずに裕実はバイクごと谷底に転落。全身打撲で即死だった。

就職先も内定しており、何事もなければ結婚して子供の一人や二人はいたに違いない。

大矢は仕事一筋の人生で、酒もタバコもやらず、真面目そのもの。ブリーダーとしての腕は業界でも指折りだった。

そんな大矢も愛娘の裕実は目に入れても痛くない可愛がりようだったが、裕実が早世すると、ますます寡黙な性格になった。

(俺がバイクなんか乗せなければ今頃は……)

何度も自分を責めたが、死んだ娘は二度と帰ってこない。

33年という時の長さがようやく、大矢の心の傷の痛みを忘れかけさせていた。

「ばあさん、いい加減にやめないか……」

大矢は激しく咳き込んだ。

微粒子の火山灰は吸い込むことで空気と一緒に肺の奥深くまで入り込む。息苦しく、咳が止まらない。

火山灰は皮膚にベタベタと付着し、炎症を引き起こす。目に入るとゴロゴロした違和感があり、目のかゆみ、痛み、充血がある。こすると角膜に傷をつけ、視力低下の原因になる。

栄子は狂ってしまったのだろうか。大矢が栄子の腕をつかんで部屋に入れようとした時、栄子が苦しげな呻き声を上げた。

灰にまみれた手で心臓のあたりを掻きむしるようにする。大矢は栄子を抱えるようにして床に寝かせた。

「おい、ばあさん。ばあさんや、どうした。しっかりしろ」

栄子はまもなく事切れた。

死因は分からない。もうずっとまともな食事をしていなかったから衰弱死だろう。医者に診せてやることも、薬を買って飲ませてやることもできなかった。

せめて湯灌をしてやりたかったが、大矢の体力も衰弱しており、すでに死後硬直の始まった栄子の遺体を浴室まで運ぶことはできそうにもなかった。

葬式を出してやろうにも、葬儀社はどこも予約で一杯。火葬場もパンクしていて、数週間待ちが当たり前という。

当たり前にできていたことが、ある日突然、当たり前でなくなった。自分が生きているうちに、そんな日が来ることを想像したこともなかった。

栄子の遺体をこのまま放置しておけば、すぐに腐敗が始まり、耐えがたい悪臭を放つだろう。

大矢も体調が悪い。咳が止まらない。だるくて微熱があり、鉛を呑んだように体が重たい。

遅かれ早かれ自分も発病し、栄子と同じ運命をたどることになるだろう。

どうせ死ぬなら、ここで栄子と一緒にいてやりたい、と思った。大矢は栄子の遺体に布団をかけ、腐臭が外に漏れないよう窓と扉の隙間を厳重に目張りした。

訪ねてくる者は誰もいないだろう。誰もが自分が生き残ることに必死なのだ。音信不通となった高齢者夫婦に関心を向ける者などいるはずがなかった。

大矢はリビングのカーテンを少し開けた。

無数の火山灰の塊が小さな黒い虫のようにワラワラと暗い空から舞い降りてくるのが見えた。


南海トラフ巨大地震と相模トラフ巨大地震による死者・行方不明者は57万人以上。

津波による犠牲者だけで47万人以上に達した。


※参考文献


『日本最悪のシナリオ 9つの死角』(財団法人日本再建イニシアティブ、新潮社)

『検証!首都直下地震-巨大地震は避けられない?最新想定と活断層-』(木村政昭、技術評論社)

『水害列島』(土屋信行、文春新書)

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日本滅亡 土屋正裕 @tsuchiyamasahiro

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