カミハカリの演算 ネオフューチャー・ドラゴンゴッド

第一章 ③葛藤と克服

　宇和島市吉田町（よしだちょう）。

　理解できていなかった記憶は。長じるとともに。理解できた記憶へと変容する。

　『未知』という麻酔が切れたとき。残酷な古傷の痛みは一気に浸潤（しんじゅん）した。

　あの日の幼女は中学生になっていた。

　思春期を迎えた少女は幼児期にみかん畑で起きた出来事をつぶさに理解してしまった。おぞましい記憶の再来は。澄んだ心を容赦なく蝕（むしば）んだ。

　みかん農家のひとり娘である『凛（りん）花（か）』は人懐こくて天真爛漫（てんしんらんまん）な少女だ。そして自家のみかんが一番の好物だ。

　しかし。朧気（おぼろげ）だった忌まわしい記憶が瞭然（りょうぜん）となったとき。凛花は部屋に籠（こも）りがちになった。お喋りで快活だった気質（きしつ）には翳（かげ）りが生じた。食欲も失せて日に日に体重が落ちた。

　大好物のみかんが喉を通らない。心と体がみかんを拒絶してしまうのだ。遊び場だったみかん畑に怖気（おじけ）づいて近づけない。

　凛花はストレスから過換気症候群を発症していた。瞳は輝きを失って明るい笑顔が消えていた。

　……五歳の自分に大きな男が覆いかぶさってきた。身体のあちこちを撫（な）で回された。下半身が引き裂かれるような痛みが走った。乱暴に激しく揺さぶられた。顔にかかるハアハアという荒い息。男の唾液。男の汗……。

　記憶から消去しようと藻掻く。思い出すまいと足掻く。けれど不意に過（よぎ）る汚い感情は勝手に湧き出してきてざわめく。真っ黒い憎悪（ぞうお）の塊（かたまり）が縦横無尽（じゅうおうむじん）に蠢（うごめ）いている。制御できなくて恐ろしい。

　永遠に生理がこない体。女性としての機能が喪失した体。すでに穢（けが）され壊（こわ）れているこの体への嫌悪感は自分という存在意義を否定するには十分（じゅうぶん）だった。

　ゾワゾワと不快感が襲ってくる。思わず吐き気をもよおした。動悸がする。呼吸が苦しい。息ができない……。

　わずかに息を吸って。それから少しずつ。ゆっくりと吐き出した。

　凛花は想起（そうき）する。

　幼いころから両親の笑顔が時折悲しそうに見えていた。学校から帰宅するたびに大げさに安堵（あんど）する私の家族は度を越した心配性なのだと思っていた。

　幼少期に縁側に腰掛けて爺（じい）が読み聞かせてくれていたのは絵本ではなかった。ゲーテの名言集だった。

　過保護だった。ほんの些細（ささい）なことにも敏感に反応して。表情の変化を感じ取ろうと顔色を窺（うかが）って。過剰なまでに慮（おもんばか）っていると感じていた。

　忌まわしいあの日から。心は血を流している。家族は罪悪感という深い傷を背負って嘆き憂（うれ）いている。

　この苦しさから解放されたい。この暗い翳（かげ）りを乗り越えなければならない。

　暗澹（あんたん）として苦しみ続けている両親や爺のためにも。私自身が奮い立つしか術（すべ）はない。　

　凛花は決意した。

　旧暦神無月の昼下がり。小雨（こさめ）上がりのみかん山の急坂を一歩ずつ踏みしめて登りはじめた。

　恐々（きょうきょう）とした記憶残るみかん畑のあの場所に。近づくだけで全身が小刻みに震えはじめた。

　胸が苦しい。ゼイゼイと過呼吸の兆候が表れる。だけど負けない。小さく息を吸って。いつもより強く吐き出した。

　大量の血が流れた『あの場所』に辿り着く。ゆっくり息を吐き出す。そうして。くるりと辺りを見渡す。

　「うわぁ……」

　視界いっぱいに広がったのは眩（まばゆ）い眺望だった。ふわりと潮風が吹き抜けた。

　錯覚なのかもしれないけれど。優しい何かに包み込まれて歓迎されたように感じられた。

　……なんて綺麗な景色なのだろう。穏やかな瀬戸内の海。柔らかくて暖かな陽射しに照らされて。海面がキラキラと煌（きら）めいている。

　たわわに実った早生（わせ）のみかん。急斜面の農業用モノラック……。

　絶佳（ぜっか）なる風景は凛花のざわつく心（しん）奥（おう）と浅い呼吸を徐々に落ち着かせてくれた。

　不意に涙が零（こぼ）れる。

　……私にとって。爺のみかん山からのこの景色が元気の源（みなもと）だった。癒しだった。

　やんちゃにみかん山を走り回っていた。みかんをつまみ食いして叱られた。大好物のみかんを食べ過ぎて。いつもお腹がいっぱいだった。みんな笑顔がいっぱいだった。

　お転婆（てんば）だった幼少期の日々を。慈愛にあふれる日々を。ありありと思い出していた。

　勇気を振り絞って。少し湿った固い地面に寝転んだ。幼いころと同様に。仰向けになって大きく両手を広げて空を見上げた。

　そのとき。ジッとこちらを見つめる真珠色龍神と視線が重なった。

　凛花は吃驚（びっくり）した。それと同時に。五歳のあの日に目撃したあの美しい龍神は夢でも幻（まぼろし）でもなかったのだと確信した。

　……やっぱり！　あのとき！　宇和島湾の真珠色龍神が稲妻を呼んで私を助けてくれたんだ！　

　真珠色龍神は大空を優美に舞った。澄み渡った青い空には大きな虹が架けられた。

　凛花は黒目勝ちのつぶらな眼（まなこ）を見開いた。瞬きするのを忘れて架かる虹を見つめた。

　虹を背にした真珠色龍神が弧（こ）を描いて空を舞う。まるで元気を出せと励ましてくれているかのようだ。　

　『未來は明るい。……生きよ！』

　聴こえた。真珠色龍神からの力強いメッセージが確かに聴こえてきたのだ。

　青白かった頬はみるみる紅潮（こうちょう）してきた。瞳は光を取り戻して燦然（さんぜん）と輝いた。

　凛花はガバッと飛び起きた。みかん山の急坂を駆け降りる。

　大きく深呼吸をして。引き戸の玄関を勢いよくガラッと開けた。家族が驚いて目を丸くした。だからにっこり笑って。溌溂（はつらつ）と呼びかけた。

　「ただいま！　お腹すいたっ！」

　夕ご飯をおかわりしてもりもり食べた。大好物のみかんを口いっぱいに頬張った。

　たくさんお喋りして。たくさん笑った。優しい両親は泣きながら笑っていた。

　爺は手拭いで顔を覆（おお）い隠した。目頭をギュッと押さえつけたまま。ガハハッと豪快に笑った。

　……もう大丈夫だよ。元気だよ。心配かけてごめんね。

　大好きな家族に伝わっただろうか。

　凛花は絶望の淵から這（は）い出した。未來の影像を描いて希望を失わなかった。明るい笑顔を取り戻した。

　それでも不意に。心に翳（かげ）りが生じることがある。そんなときには空を見上げた。

　空を見上げて大きく深呼吸する。澄んだ透明な勇気が全身に入り込んで染み渡ってくる。

　そうして空を見つめているうちに。いつの間にか。二十四節季ごとに変じる雲の動きの速さまでをも諳（そら）んじていた。

　今日も空を見上げる。

　そして今日も『それ』を探す。晴天に曇天に荒天に。『それ』はいつ現れるかわからない。だから見渡して探してしまう。

　空を見つめる視線の先には大空を飛翔する真珠色龍神の姿があった。

　希望の源泉はいつだって空にある。

　いつの間にか。凛花にとって真珠色龍神は心の支えになっていた。かけがえのない特別な存在になっていた。