『うつスケッチ』

小田舵木

『うつスケッチ』

 雨が降りそうな空。灰色のそれはどこか不吉だ。

 私は今日も傘を忘れた。天気予報を確認する癖がないのだ。

 天気が崩れると私は精神が不安定になる。天気ごときでメンタルを左右されるのは情けないって?いや、案外根拠のない話でもないのだが。

 私は家路を急ぐ。もう外には用事はない。久方ぶりの通院を済ませたばかりだ。

 

 私はメンタル持ちだ。所謂いわゆるうつ、というヤツだ。

 発症のきっかけは仕事…だと思う。仕事でのストレスが私の脳を変性させたのだ。

 そう、うつは脳の病だ。神経伝達物質の働きが低下することで起きる。

 だから。気の持ちようで治る、なんて言われると腹が立ってくる。

 

 雨は降りだした。私は雨に身を任せる。季節は夏。蒸した暑い空気の中、雨に打たれるのは少しだけ気持ちいい。

 しばらく雨に身を任せていると、我がマンションが目に入り。

 走って帰る。到着したマンションのエントランスでしばらく息を整える。

 息が落ち着いたら、ポストを確認する。入っているのはゴミばかり。会社を辞めてから元から少ない郵便物が更に減った。

 

                    ◆


 部屋に入ると。キッチンを兼ねた廊下にゴミが散乱しているのが目に入る。

 うつになると、身の周りの事がとにかく億劫になる。そうしてあっという間にゴミ屋敷と化していく。

 私はため息を吐きながらゴミをかき分け寝室の方に入っていく。

 そこで服を脱ぐ。雨に打たれたせいかびしょ濡れだ。洗濯機に放りこんで、適当な部屋着に着替えて。


 そして。何もすべき事がないことに気付く。病院にいくのが今日の唯一の用事で。

 スマホを取り出し、動画アプリを起動。何か情報を入れてないと、頭が自責モードに切り替わってしまう。

 動画はいい。情報量が多いためか頭の隙間を埋めるのにはぴったりだ。

 私はしばらく、猫と柴犬の動画を堪能する。動物は見てて疲れない。人はそうでもない。 


 しばらくすると。身体が気持ち悪い事に気付く。雨に打たれたせいだ。汗と雨が混じって気持ち悪い。

 だが。風呂を沸かして入る、という一連のプロセスがどうにも億劫で。

 私はまた動画に埋没する。どうでも良いような動画を頭に詰め込む。そうしていれば何もかも気にはならない。


 私は思い出す。そう言えば病院帰りにスーパーで弁当を買ってきていた事に。

 うつになると、料理さえ出来なくなる。昔は何かと自炊したものだが。調理の段取りを考えるだけの頭が働かないのだ。

 スーパーの弁当は、コンビニのに比べると少し油の気が少ない。コレはありがたい話だ。あんまり油っこいと食べた後で気持ち悪くなってしまう。

 メニューは海苔弁。白身魚のフライとちくわの磯辺あげ。素朴な組み合わせだが、白飯をかっこむには最適の組みあわせだ。


 弁当を食べてしまうと、私は煙草を吸う。

 メンタルを患っている者は喫煙率が高い。コレは俗説ではない。そういう論文をかつて読んだことがある。神経伝達物質、ドーパミンの働きが下がっている者は、ニコチンにその代わりをさせる…と言った内容だった。私はそれを読んだ時、なるほどな、と思ったものである。私は昔からの喫煙者である。

 そう考えると―うつになる因子を若いころから持っていた…という事になるのかも知れない。

 

                   ◆


 私は夢を見ていた。久しぶりの夢である。睡眠薬を常用している私は普段は夢を見ない。


 私は機械を操作していた。あるモノの製造装置。その装置は高速で回転するローラーで構成されている。そのローラーは時速8000回転でモノを製造する。

 中々気の抜けない機械だった。こいつは何かと不良を起こす。ちょっとでも気を抜いたら、不良品を山ほど製造してしまう。

 私は神経を尖らせて、機械のコンソールに向かっている。そしてパラメータとにらめっこしている。

 時々、製造品を抜き取って、目視検査。不良がないか目を凝らす。ここで不良を出したら後工程に負担がかかって、出荷が遅れる。出荷が遅れれば、最悪違約金を払う羽目になる。

 ああ。プレッシャーが身を襲う。私は今の所は不良を出した事はない。

 だが、製造にかかる時間は先輩がたとは比べものにならない程遅い。だから生産計画には着いていけてない。 

 ああ。私はなんでこんな装置のオペレートを任されているのか?

 いい加減、下ろしてくれた方が気が楽だ。

 製造品を抜き取る。すると―大きな傷があり。コイツはまずい。機械の停止ボタンを叩き、私は機械を止め。

 トラブルに対処をする。とりあえずはリカバリー可能なモノだった。

 そしてもう一度、機械を回転させ直す…

 

                   ◆


 まるでさいの河原の石積みみたいな前の仕事の夢を見た。

 やってもやっても終わらない仕事。襲い来るプレッシャー。

 それに私は負けたのだ。情けない話である。

 私は自慢じゃないが、人より仕事が出来ないクチだ。

 何をやっても、人に怒られ続けたものである。

 接客業をしていた時だって―人を怒らせる名人だった。幾度クレームをつけられた事か。


 …嫌な夢を見ちまったな。 

 部屋を見回せば真っ暗で。そのほの暗さに少しだけ安心する。

 私は夜が好きだ。夜になると動いてる他人が減るのがなんとも気持ちが良い。

 

 私はコンビニに出かけた。酒を買いに走った。

 本当は今は酒を呑んではいけない。うつの薬は基本酒と飲むのは厳禁だ。

 だが。呑んでないとやってられない気分になってきてしまっていた。

 

 深夜のコンビニ。そこには外国人の店員が一人。

 ああ。働いてんなあ、偉いなあ。私はそんな気分になる。それと比べて私は。寝て食って煙草を吸うだけ。うんこ製造機と揶揄されても仕方がないような人生。


 とりあえず。私は酒のコーナーにいそいそと行き。ストロング系の酎ハイの500の缶を2つ買ってしまう。

 コイツは破滅的なセレクトである。泥酔コースまっしぐら。

 

                  ◆



 私は家に帰ると、ストロング酎ハイを一気にあおる。

 人工甘味料と安物のウォッカの味。不味い。コイツを呑む度に思う。こんなモノは二度と買うまいと。

 なのに、毎回買ってしまうのは何でだろう?安くて気軽に酔えるからだろうか?それとも私もアル中の領域に入りかけているからだろうか?


 酔う。視界がぼやけて曖昧あいまいになってくる。気分が少しハッピーになる。

 そう。うつであろうが酔えば少しはハッピーな気分になれるのだ。

 ま、酔いが覚めたらそのリバウンドで一層落ち込むのだが。

 スマホを確認する。迷惑メールばかり受信している中、友人からメッセージが混じっており。

「元気にしているか?」それは私の親友の一人が送ってきたものだ。

 私はうつになると。メッセージの返信が出来なくなる男だ。未読無視を決め込んでしまうのだ。その理由は―分からない。本当は返信して一応生きている事を知らせた方が良いのだが。

「アイツ。元気にしてるかな」独り言がこぼれる。こんな独り言を零すくらいなら友人に返信すればいいのに。貴方あなたはそう思うだろう。

 だが。今の私が返信したとして。それ以降のメッセージのやり取りをどうするか?ここで悩んでしまうのだ。


 ああ。酔いは人の建前を剥がしていく。

 私は闇雲に悲しくなる。

 悲しくなっている理由は分からない。ただ、何故か悲しい。

 悲しくなってくると。将来の事が頭を過ぎるが…何もヴィジョンを描けない。

 このうつを治して…いや治らないかも知れないが、症状を抑えてまた、働かなければならない。そう、自らの生計くらいはまかなえるくらいに。

 だが。私は怖い。またうつの症状が酷くなったら?そもそも数年のブランクを経て、また働けるだろうか?


 将来なんて、真っ暗だ。今の私に用意されたモノは。

 さっさと死を選ぶべきなような気がしてくる。何時もの事だが。

 私はクローゼットを開ける。そしてそこに置いてあるロープと溜め込んだ睡眠薬を見て。そいつを使って自殺する様を思い浮かべる―

 

                   ◆


 私は見知らぬ公園の大きな樹の下にいる。そいつの枝の一つにロープの一方を結わえて。もう一方は輪っかにする。ハングズマンノットに結わえれば完成。あとはこの輪っかに首を突っ込めばいい。

 私は用意してきた睡眠薬を飲み干す。たくさんの粒は飲み込みにくかったが、噛んで潰して無理やり飲み込んだ。

 私はロープの輪っかをつかみながらしばらく逡巡しゅんじゅん。死ぬしかないと分かっていても自殺をするには勇気がいる。


 私の知人は10年前に自殺している。彼も首を吊った。

 そう言えば。もう彼の歳に追いついちまったな。昔はずいぶん年上に思えたものだが。

「小田も首吊り?」

「そうです。うつになっちゃいまして」私は返事をする。疑問を抱くことなく。

「首吊りは―良いよ。うまくやれば一瞬だ」彼は頭を撫でながら言う。

「本当に?」私は疑っている。なんとなく仕事が出来ない私は自殺もうまくやれそうな気がしないのだ。

「ストンって落ちて、首の骨を折るんだ」

「日本の絞首刑みたいな感じですかね?」

「そうそう」

「うまくやれるかなあ」私はヘマをやらせたら一級品。ヘマの達人である。

「お前もやれるよ、俺がやったんだからさ」

「…頑張りますかあ」私はやる気になってしまう。


 だが。私はロープを眼の前にすると、手が震えていることに気付く。

「なんだあ。まだ死にたくないんじゃんか」知人は言う。

「何でですかね。もう生きてても意味はないと思うんですけど」

「でも死ねない…躊躇ちゅうちょが小田にはあるんだね」

「かも知れん」私は言う。しっかし。こうやってこの知人と会話するのは変な気持ちだ。彼と私は死ぬほど仲が悪く。和解したのは彼が自殺する寸前の話なのだ。

「なら。さっさと帰りなよ。まだこっちに来る資格がないんだ。小田には」

「おっと。爪弾きですか?」私はよく彼に無視されたものだ。

「そうだね。ここは無視しとこうかな。小田の為にはならないもん」

「私の為ねえ…ねえ。私は生きてても良いのかな?」死人に何を聞いてんだが。

「良いんじゃない?人が生きるのに許可がいるかよ?」彼は言う。

「いらねえかもね。いや言うじゃん」死んだ癖に。

「ま。死んでから悟ることもあるって事さ」

「あっそ。じゃ、家に帰るかな…」私はロープを放ったらかしにし、睡眠薬が効いてきてフラフラする足で家に帰った。

  

                   ◆



 …私は妄想の中でも自殺に失敗した。

 ああ。そうか。まだ私は生きていたいのか。

 酔いは覚めかけている。ふわふわとした感覚だけが私を覆う。


 部屋の窓から白んだ光が。ああ。酒を呑んでトリップしている内に朝になっちまった。

 カーテンを開けて見れば。太陽が上りかけていて。

 太陽が私の目を打つ。その光は私の卑小な精神を白日の元に晒す。

 私は、逃げに逃げてこのうつの人生を歩んでいる。

 そうなのだ。逃げているのだ。

 人生という道から。病気を理由に。

 でも。気分が沈むのはいかんともし難い…


 とりあえず。こういう時は。

 私は睡眠薬を手に取る。もちろん分量は守る。

 そしてベットに寝転がって。天井を眺める。

 白いスクリーンのようなそれには何も映らない。

 それは私の人生のメタファーで。

 そこに絶望を感じるのが今の病気だが。そこは発想を逆転させれば良い。

 私はこの人生というスクリーンに如何様にでも人生を描けるのだ。行動さえすれば。

 さあ。俺よ。明日から生きろ。もう少しマシな人生を。

 

                   ◆


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『うつスケッチ』 小田舵木 @odakajiki

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