メガストラクチャー

ツル・ヒゲ雄

第1部 都市エフ

第1章 冷たい家に帰ると

第1節 かまいたち①

 冷たい家に青年が帰ると、リビングルームのソファに横たわる弟の身体から、鮮血が溢れていた。


 弟の胸部にできた複数の刺し傷から漏れた血は、着古したラムウールのニットを汚し、擦り切れたグレーのソファに濃い染みをつくっている。


 それでもなおありあまる血は、無造作に投げ出された脚をつたい、コンクリートの床で真紅のまりになっていた。


「ケー……」青年――ジェイは両目を見開き、乾いた唇で弟の名を呼ぶ。「どうして、おまえが」


 ジェイはケーの手を取り、それから頬にあてた。まだ、温もりが感じられる。


 わらにもすがる思いで、ジェイはケーを抱きかかえた。羽織っている分厚いメルトンのダッフルコートに血がかかったが、気にもめない。手に触れた血は、新鮮で温かかった。


 ジェイはそのまま家の戸口を出て、車の助手席にそっとケーを乗せた。


 地面を削るような足取りで運転席に乗りこみ、イグニッションキーを回す。空回りした悲鳴のような、乾いた音が鳴った。転がるように通りに出ると、ジェイは西に車を走らせた。


 都市――エフの荒涼こうりょうとした風景がジェイの眼前に飛びこんでくる。街は荒廃してから、ずいぶん長い時間が経過していた。


 傾いた巨大なビルに鈴なりにぶら下がる氷柱、雪に覆われて弱々しく光る街灯、角が崩れかっているコンクリート造の四角い建物。


 分厚い鈍色にびいろの雲が空を覆い、街路樹はそのほとんどが枯れ果て、凍てついている。クリスマス・イヴにもかかわらず、道ゆく人は一人もいない。往来する車も見当たらない。


 つい先ほどまでの肌を刺すような吹雪は、幸いにも穏やかになっていた。うなりをあげるエンジン音と、タイヤがアスファルトを滑る音だけがこだまする。ジェイは気が遠くなるのを感じた。


 目を細め、ステアリングを握る手に力をこめる。できるだけなにも考えないようにして、ジェイはただひたすらに車を飛ばした。


    ※  ※  ※


 診療所の引き戸を開けると同時に、ジェイはこわばった声で言った。「ヴォド、すぐにケーを診てくれ」


 奥の部屋から、ヴォドと呼ばれた熊のような大男がゆるりと出てきた。「なんの騒ぎだ、いったい」


「血だらけで倒れてたんだ、家に帰ったら」


 ジェイに抱きかかえられたケーを見て、ヴォドは諦観ていかんにじませた。「診るだけ診よう」


    ※  ※  ※


 手遅れだった。


 ヴォドが手を施そうとしている最中に、ケーは事切れた。ヴォドがケーにしてあげられることは、なに一つとしてなかった。


「どうしようもなかったんだ」ヴォドは口髭を撫でながら言った。「ほんとうに」


「わかってる」


「最後にケー君の診療をしたのはいつのことだろう。まだケー君の身体の線が細かった頃のことだ。たしか、君がここに連れてきてくれた」ヴォドは遠くを見つめた。「殺されたのか?」


「おそらく」


「かまいたちか?」


「たぶん、そうだろう」


 エフでは定期的に――おおよそ年に一人のペースで、不可解に人が死ぬ。胸や首を、刃物で刺されて殺される。年齢や性別、殺される場所や、その時間帯に法則性はなく、とにかく人が殺される。


 あるときは、五歳になったばかりの快活な男の子が、うらびれたスーパーマーケットの薄暗いトイレで殺された。


 またあるときは、年老い、身の回りのことがほとんどがわからなくなった老婆が、林檎園で殺された。


 エフで暮らす人々は、この現象を『かまいたち』と呼んだ。


「やりきれんな」


 ヴォドはステンレススチールの丸椅子を回転させながら、毛むくじゃらの両手で顔を覆った。うめき声のような、軋んだ音を椅子が鳴らした。


 二人に沈黙が降りた。


「いったい、誰が、なんのために?」一語一語はっきりと、喉に刺さった魚の骨を意識するように、ヴォドは言った。「あんまりだ」


 ジェイは唇を噛み、忍耐強い猫のように頷く。金色の柔らかな髪が揺れ、まつ毛が瞬く。青い瞳は雨風にさらされる地蔵のように、かたくなに動かない。


「今日、ケー君は何をしてたんだ?」


「わからない」ジェイは首を振った。「仕事に行ってたはずだが」


「うんざりだ。なすすべもなく、こうして人が死ぬのを見届けるのは」ヴォドは分厚い両の手のひらを握りしめた。


 ジェイは顔を上げ、ヴォドの茶色がかった瞳を見た。まぶたが小刻みに震えていた。


「なあ、こんなことを今ジェイ君に言うのも、はばかられるが……」ヴォドは長く伸びた眉毛を指でとかした。「なんでケー君がこんなことになっちまったのか、かまいたちとはなんなのか、突き止めてはくれまいか?」


「そのつもりだ」ジェイは立ちあがった。「僕だって、納得したい。それくらい望んだって、いいはずだ」


 ストレッチャーの上に横たわるケーにむかって、ジェイはゆっくりと歩いた。ワークブーツのソールがモルタルの床を踏む、柔らかな音がした。


 ケーの顔をジェイは見た。信じがたいものを見たように開いたままの目、半開きになった口。頬も唇も、冷ややかな色をしている。


 ケーの頬に、ジェイは静かに手のひらをあてた。頬は冷たく、硬くなりつつあった。開かれた瞼を手ででてみたが、その瞳を完全に閉じることはできなかった。


 ケーが死んだことを、ジェイは実感した。

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