井戸に沈む(四)
暗い。音もない。誰もいない。
恐怖でパニックを起こしたところで身体は動かない。
ただ、視線の先にある、暗闇に浮かぶ白い茶碗を眺めることしかできない。
茶碗の中にはたぶん、あの甘いお茶が入ってるんだと思う。
もしかしたら、気を失っていたのかもしれない。
時間の経過がわからないから定かではないけど、気が付けば、身体が動くようになっていた。
目は、少しも慣れないけど。
少し落ち着いてきた気がする。少なくとも、パニック状態ではない。
心か思考のどこかが麻痺してしまった感じがする。
あんな風に、死を願われたのはもちろん始めてだ。
トキヒト様のあれは、悪意とか敵意とか、そんなものではなかったように思う。
なんだろう。強いて言えば、義務感、だろうか。
心苦しいがそうしなければならない。そうする必要がある。だから助命は適わないけど、他にできることがあれば何でもする。そんな感じだった。
もしかしたら私の願望にすぎないのかもしれないけど。
最初に会った時。都を治める帝は、
都がいつからあって、いつから稀人を保護しているのかは分からない。
トキヒト様がどれだけの期間、帝として在位しているのか。
一体何人が、あの井戸の底に沈んでいるのか。
どうして、死ななければいけないんだろう。
……いや、どうして、はなんとなく分かる気もする。
ここがどこであれ、私のような異分子は入り込むべきじゃないんだと思う。
平安時代のような文化。器械もない、ITもない、江戸も明治もそれ以降のどんな時代も訪れていない過去の日本のような姿を残すこの都。
それを穏やかで満ち足りた今のまま維持しようとするなら、違う世界を知る私はウイルスのようなものだろう。
入り込ませてはいけない。接触させてはいけない。
なるだけ早く、撃退しなくちゃならない。
きっと、そういうことだ。
だからトキヒト様本人が望んでいるというより、義務的にそうせざるを得ない、という態度だったんだろう。
でも、あんまりじゃないかと思う。
いつか殺すから、どうせすぐに死んでもらうから、だから、
最初からそのつもりだったんだろうか。殺すつもりでいて、それなのにあんな風にいられたんだろうか。
トキヒト様の声は、ただの一度も揺らぐことなく静かで落ち着いていた。穏やかで優しげだった。きっと暗闇の中でも、あの端正な顔は変わらずに微笑んでいたのだろう。
天気の話をしたり、私の家族の話を聞いたり、そんな時と些かも変わることのない様子で、あんな風に死んで欲しいと言えるものなのか。
死にたく、ないなあ。
そんなことを考えながら、身体を起こす。
死にたくない。
手探りで探ってみたが、ここは狭い部屋のようだ。扉らしきものは見付けられず、指先に触れる感触から察するに、板を繋ぎ合わせた壁に囲まれている。
繋ぎ目のどこかが扉になっているのだろうけど、真っ暗なこの中で見付けることは難しいだろうし、見付けたとしても開くことはないだろう。
広さはたぶん三畳程度。布団と白い茶碗以外には何もない。
ほんとうに、何もない。
何もない空間で、暗闇に浮かぶ白い茶碗には、私が死ぬためのものが入っている。
死にたくない。死にたくない、けど。
もし、飲まなかったら、どうなるんだろう。
このままここに閉じ込められて過ごすんだろうか。
水も、食べ物もなく、光も音もないこの場所で。ひとりでひっそりと、息絶えるまで。
それは、どれくらいの時間がかかるものなんだろう。
怖い。
気のせいだろうか。周囲の暗闇が、濃度を増した気がする。
無音のはずなのに、これは耳鳴りだろうか。
もしここが元の世界だったら、きっと誰かが助けに来ると思えたかもしれない。
でもこの世界に、そんな人はいない。
飢えて、渇いて、力尽きて、ひとりきりで、この場所で死ぬ。
どうせ死ぬなら、遅いか早いかの違いしかないなら、飢えたり渇いたりしない方がいいかもしれない。
楽に死ねるなら、その方がいい。その方法が、すぐ目の前に在る。
今この瞬間も、私は死へと向かっている。どうせ死ぬ。助かる見込みはない。
それならせめて、苦しまない方がいい。楽な方がいい。早い方がいい。苦しい時間を、無暗に引き延ばしたりしない方がいい。
床の上に、白い茶碗がある。
もう、これ以上の思考は必要ない。
「――茶は飲むなと、言ったであろう?」
茶碗に向かって伸ばした手を、誰かに掴まれた。座り込んだ私の身体を、後ろから抱き締める誰かがいる。
ひとりきりだったはずの何もない空間で、背中に触れるものがある。
恐怖と寂しさと悲しさで錯乱したのかもしれない。願望が幻覚となって現れたのかも。
そう思った私の目元を、誰かのひんやりした手が塞いだ。
暗い中でぼんやりと見えていた、白い茶碗が見えなくなった。
「もう、見るな」
怖さなんて、感じなかった。どうやって入って来たのかとか、いつ入って来たのかとか、そんな常識どうだっていい。
ただこの暗いだけの世界で、私の死を願わないかもしれない人がいる。すぐ傍に。
身体を反転させて手を伸ばす。
指先に触れるのは、間違いなく実在する自分以外の誰か。質量を持っている。幻覚じゃない。
「随分とまあ、熱烈よのう」
クク、と笑うその首元に腕を巻き付け抱き着いた。手を離したその一瞬で、消えてしまう気がして怖かった。
「ゆめじ……っ」
涙が溢れた。子どもみたいな嗚咽が漏れて、唸り声みたいな声が出た。泣きじゃくる私の背を、夢二の手が撫でる。
「うん。そうか。怖い思いをしたのう」
その優しい手に、声に、涙が止まらなくなった。
「こわかった……!」
「ああ、かわいそうに」
私を子どものようにあやし宥める夢二からは、海のような匂いがした。
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