井戸に沈む(三)

 夢現ゆめうつつに、誰かが話しているのを聞いている気がする。

 意識に直接語り掛けてくるような、不思議な感じがする。


「仔細は存じませぬが、あなた様も現世うつしよ水底みなそこに沈んだのでございましょう。死を目前にして、むしろほぼ死したも同然の状況でこちらに連れて来られたということかと」


 意識は起きている、でも身体は寝ている、そんな不思議な感じだ。

 あ、でも目が開きそうな気がする。

 がんばればいけそう。がんばって私。


「元の世界に戻る、それはすなわち死に戻る、ということでございます」


 ただ残念なことに、目を開いても閉じていた時と大して変わらなかった。

 明かりがない。まるで全て失くしてしまったかのように、目の前の全てが真っ黒だ。


「望まれたでありましょう、戻りたいと。ならばお戻り頂けるよう手をお貸しいたそうとした次第でございますれば。……この都にとって、わたくしにも、その方が都合が良い」


 たぶん、布団に寝かされているんだと思う。

 暗闇の中、声がする。


 仰向けに寝かされた視界の先は闇しかない。

 身体には力が入らず、起こすことはおろか、動かすこともなかなかに難しそうだ。


 今がいつなのか、時間の感覚もない。


「なるだけ恐ろしい目に合うことなく、苦しい思いをせず、穏やかに眠るようにと薬をお出ししていたのですが、まさか飲んでおられなかったとは。道理で何日過ごされようともお元気でおられるはずです」


 くすくすと笑う声が聞こえてきた。


 ゆっくりと時間をかければ、首がどうにか、僅かだけど動かすことができそうだ。

 でも、声がする方を見たつもりでも、結局は何も見えなかった。


 ただ、トキヒト様がじっと、こちらを見ている気がする。


 ここ数日で聞き慣れた、トキヒト様の穏やかな声が聞こえてくる。


「無論あなた様を責めているわけではございません。全て我が不徳のいたすところでございます。このような目に合わせてしまうとは、なんと不甲斐なきことか」


 何かが私の頬に触れた。

 貼り付いていた髪を払い除けられたとわかる。トキヒト様の纏う香がふんわりとかおる。

 暗闇にある視覚を補う様に、他の感覚が鋭敏になっている気がする。


「良き都であったと、そう思っていただきたかったのです。歓待はもちろん、本心からのものでございました。極楽の如き楽しきものであったと、浄土の如き夢を見たと、そう思っていただきたかった。それは偽らざる本心よりの思いに相違はございません」


 そのまま、トキヒト様の指先が私の髪を梳く。

 まるで愛しい我が子にするような。そんな錯覚を起こしそうになる。


「人による差異というものを、わたくしはどうやら失念していたようです。味覚も思いも、万別であることを。永く生きた分、どうも人としての感覚が薄れているようで。言い訳にも、なりませんが」


 ながく生きた、って一体幾つなんだ。同年代に見えてたんだけど。


 いや、そんなことよりもだ。

 この人に、一服盛られたんだと思うんだけど。なんだかいつも通りにトキヒト様は優しい。

 もしかして、誤解とか、気のせいとかだったろうか。


「このような仕打ち、決して望んでのことではないと、ご理解いただけますでしょうか。御所ごしょを血で穢すわけにも参りませんし、女子おなごのあなた様に無理やり薬を飲ませるも本意ではございません。どうか、ご自分でお飲みくださいますようお願いいたします」


 盛られてたわ。気のせいじゃなかった。


「お望みとあらば、胸でも腕でもお貸しいたしましょう。夫婦めおとの真似事ぐらいならいくらでも。口移しで、というならばそれもまた……と思っておりましたが、どうもそれはお望みではあられぬご様子ですね。これは残念」


 たぶん私の中で冬眠中だった表情筋が起きたんだと思われる。

 酷い顔をしたんだろう。私にしては上出来だ。

 この真っ暗な中でよく見えますね、とは思うけどもうそんなことどうでもいい。

 こんな状況で、少しぐらい不愉快をちゃんと伝えてやらねば気が治まらない。


 トキヒト様はたぶん少しも、堪えたりはしないんだろうけど。


「あなた様より以前に来られた方は、幾らか幼い方ではありましたが随分と……そう、率直な方でございました。率直にものを申され、お喋りがお好きだったようです。わたくしに想い人のように振舞って欲しい、共にいたいと。変わったことを仰られるものだと思いましたが、当世ではそのようなものが望まれているのかと。やはり、思い違いがあったようですね。どうか、お許しください。決してあなた様を侮るつもりも辱める意図もありはしません」


 たぶんだけど、結構喜ばれる気はしなくもない。

 トキヒト様のような雅なイケメンなら、嘘でもいいから優しくされたいとか、思うのかも。

 ホストクラブみたいな感覚で。ビジネス的な意味合いだったとしても、一時の夢でも良い気分になれるのかもしれない。

 恋人ごっこでも、お互いに何も思ってなくても。確かに、それは極楽浄土と錯覚できるものになるのかもしれない。


 もし、何も知らないままあの甘いお茶を飲んで倒れてたら、ゆっくりと体調を崩して、そのうち眠るように……死んだのだろうか。


 元の世界に戻れないことを哀しみ、自分の死を悼むトキヒト様に感謝して。


 その私より若い稀人まれびとと呼ばれた娘さんは、そうして、死んでいったのか。

 自分を死なせた、この人に縋って。甘い言葉に夢を見て。


 そして、今は。


「……あの、井戸」


 思ったそれが、声になってぽつりと暗闇に落ちた。


「井戸のような深さがあれば、冥府により近いのではないかと。せめてもの情け、と思っていただければ」


 何言ってんだこいつ。


「手前勝手なものではございますが、あなた様とお話をするのは楽しいと。久々に、そんな感情を思い出しました。それだけにこの状況はとても無念でなりません」


 衣擦れが聴こえてきて、目の前の暗闇に浮かび上がったものがある。


「ですがお約束いたしましょう」


 白い、茶碗だ。

 なぜか急に、それだけがぼんやりと、見えた。


 暗闇の中に現れた白い茶碗がひとつ、私の目の前でことり、と音を立てた。


「魂亡き後のその身も、必ずや冥府の傍までお送りいたします。墓は立てられませぬが、以降もわたくしが丁重に弔うことをお約束いたします。必ずや、この世が続く限り、永遠に」


 それでトキヒト様は言いたいことを言い終えたらしい。


「……トキヒト様」


「はい」


「トキヒト様は、私に……死んでほしいと、思ってますか?」


「はい」


 名前を呼んだ時とまったく同じ「はい」が返ってきた。

 少しの逡巡もなく、答えられるぐらい死んでほしいということか。


 そっか。

 そっか。結構、哀しいかもしれない。


 トキヒト様。私は、今なかなかに哀しいと思っています。


 それっきり、トキヒト様はどんな言葉も発しなかった。


 再び聴こえた衣擦れの音。


 かたり、ぱたん、とすとすとす……。


 遠ざかっていく足音までもが消えてなくなり、静寂が訪れた。

 見える範囲に窓はなく、明かりもない。何もない。


 暗闇の中で、床に置かれた白い茶碗だけが、浮かび上がって見えた。

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