長かった婚約の終わりに

「結婚を取りやめて、婚約も破棄したい」


 告げられた言葉に、頭の中がからっぽになる。やがてたくさんの思いが頭の中に溢れ出てきたけれど、どれから取り組めば良いか分からず途方にくれた。


「異論は無いという事でいいのかな」

「どうして。ジリアム、どうして?」


 その日は朝起こしに行くとジリアムは既に着替えて、窓際の椅子に座っていた。こんな事は初めてだった。


「俺がそうしたいからだ」


 彼は私の方を見ない。窓の外に視線を投げて優しい微笑みを浮かべている。


「そうしたい理由は教えてもらえないの?」

「リリイナ、君はどうしたい?」


 ジリアムと結婚したい。いえ、違う。


「ここに置いて頂けませんか?」


 ジリアムが私に顔を向けた。厳しい顔をして私を睨みつける。


「俺と結婚したいではなく、ここに置いて欲しいか。そうか、そうだよな。分かってはいても堪えるな」


(堪える?)


「いいだろう。君は国に認められたゴドブゥールの森の番人だ、ここにいればいい。丁重に扱うよ」


 ジリアムは立ち上がると私の前に立った。両腕を掴んで私の顔を覗き込む。


「婚約を破棄したからって、どこかに行けると思うな。君はここでずっと、森の番人を続けるんだ。俺の手の届くところでずっと」


 ジリアムの瞳に見た事が無いような熱い感情が見える。それは愛ではなく憎しみに見える。義姉の瞳に見たような暗い熱さ。


 彼は私の腕を離すと、背を向けた。


「行けよ。明日からは俺を起こさなくていい。君の部屋は今まで通り使えばいいから」


 動揺したまま部屋に戻り、着替えて食堂に向かおうとして使用人にそっと止められる。食事は部屋に用意する、と言われる。


(婚約者じゃないから、領主の家族と同じ食卓は囲まないのか)


 思いつきで出た言葉ではなく本気だと言う事だ。私は力なく椅子に座り、使用人が部屋に食事を用意するのを眺めた。



 春の植物の採取が終わった。後は書き物が残るだけだと言う。


「想定していたよりも、かなり精度が高い調査が出来た。君の協力無しでは成し得なかった事だ。本当にありがとう」


 オズロの言葉に嬉しさと寂しさを感じる。細々とした手伝いは出来るけれど、もう私じゃないと出来ない事は無い。もう森に行く必要もない。


「そう言ってもらえると嬉しい。小屋の持ち主が残した書き付けも、あなたに活用してもらえて本当に良かった。この調査で一番働いたのは名前も分からないお爺さんね」

「どんな人だったんだろうな」


 勝手に老人扱いしているけれど、本当は若かったのかもしれない。書き付けからは、書いた人の情報は見つかっていない。中に『魔術院』という記載があった気がする。魔力が強い赤子が連れて行かれるという言い伝えがある魔術院。書き付けの老人は、そこの人なのだろうか。


「魔術院は本当にあるの?」


 んー、とオズロが宙に視線をさまよわせる。言いたく無い事があるような、気まずいような顔をしている。


「ごめんなさい、話しちゃいけない事なのね」

「すまない」


 最後に王子らしい所を見てしまった気がする。


(最後に、か)


「いつ王都に戻るの?」


 寂しいと思っている事を感じさせないよう、話す調子に気を付ける。それでもにじみ出てしまいそうだ。オズロの目元も少し硬い。


「10日後の予定だ」

「そっか」


 さすがにこの話題は盛り上がらない。私は書き付けの整理に意識を戻した。オズロも書き付けを手に取り、また置く。


「君の結婚式は、その先だったか?」


(結婚式。本当は20日後だった)


 オズロには結婚が白紙に戻り婚約を解消した事は伝えていない。取り立てて誰かが彼の耳に入れるとも思えない。このまま伝えないつもりだ。


「そう、あなたが帰った10日後になるわね」

「そうか」


 オズロは書き付けを手に持ち、また整理を始めた。



 次の日、部屋で朝食を済ませた私は、オズロの所に向かおうとしてジリアムに止められた。ジリアムは私の部屋の前で待っていた。


「ゴドブゥールの森の調査は終わったと報告を受けてるよ。後の手伝いは使用人に任せたから、君はもうオズロに会う必要は無い。分かったね?」


 もうジリアムは私の婚約者ではなく、私の雇い主だ。


「承知致しました」


 私が使用人らしく礼をすると、面白そうに笑われる。


「違うだろう。別に君は使用人じゃない。伯爵家のご令嬢だって事を忘れたのか? 君はグーデルト家の客人だよ」


 いっそのこと使用人の方が気が楽だろう。伯爵家のご令嬢、そんな事を言われても実家にはもう戻れないのに。


「森に収穫に行ってもよろしいでしょうか」


 森への出入りまで禁止されたら、この部屋にずっと閉じこもらなければならない。そう思うと胃が引き絞られる。しかしその心配は無かった。


「番人は森に行かせなきゃならないだろう。収穫は必要ない。森の番人として役目を果たしてくれればいい。⋯⋯ああ、鐘を鳴らす事と、塔の灯りだけは今まで通りお願いしたい」

「分かりました」


 私はそれでも使用人らしくジリアムに礼をした。彼は今度は何も言わなかった。



 日が経つのを、毎日指折り数えた。


「あと2日」


 毎日塔の灯りを点ける度に、消す度に、オズロの家を見下ろす。明かりや煙突の煙、窓が開いている様子から彼の存在を感じ取る。


 近くにいるのに会う事が出来ない。それはとても辛い事だった。


(会いたい)


 私は毎日ほとんどの時間を森の小屋で過ごしていた。今日も塔の灯りを消す時間まで小屋にいるつもりだ。


 今年は調査の植物を集めていたから、春の花を摘んでいなかった。部屋の花の香りは1年ほどで儚く消えていってしまう。私はまだ間に合いそうな花を集めるために小屋の外に出た。


 花を摘んでかごに入れる。収穫作業をしなくなったので、オズロの真似をして紐を付けたかごの出番は減っていた。かごが一杯になったところで小屋に戻る。


(魔力の気配)


 小屋に強めの魔力の気配を感じる。小屋の中に魔獣が入り込んでしまったのだろうか。こんなことは初めてだ。


 慎重に小屋に近づく。


(違う、この魔力は!)


 私は邪魔になるかごを投げ捨ててて駆け出し、思い切り小屋の扉を開けた。


「オズロ!」


 椅子に座ってお茶を飲む姿を見て、思わず涙が出てきてしまう。


(会いたかった)


 口に出そうな言葉を飲み込む。


「どうしてここに! 一人で来るなんて危ないじゃない!」


 私が一緒にいないと魔獣に襲われるかもしれない。心配する私をよそにオズロは目元を緩めた。


「君にもらったお守りを信じた」

「お守りで本当に大丈夫か分からないんだから、こんな危険な事しないで」


 ぽろぽろと涙がこぼれる。オズロはハンカチを出して涙を拭いてくれた。でも拭くよりも早く涙があふれて来てしまう。


「明日の朝、王都に出発する事になった」

「明日? 1日早いの?」

「馬車の都合とか、色々あったんだ。正確な出発日を君に伝える方法が無かった、もう会えないかと思った。ここに来てくれて良かった」


(明日の朝。たぶん会えるのはこれが最後)


 私の涙はますます止まらなくなる。止めたいのに、ひっくひっくと子供のように体が震えてしまう。


 オズロはそっと私の肩に手を添えた。


「俺と一緒に、王都に行こう?」


 私はしゃくりあげながら首を横に振る。


「後の事はどうにかするから。何も心配する事はないから」


 私はそれでも首を横に振る。


「どうしても、ここに残るというのか?」


 私は首を縦に振る。涙も嗚咽も止まらない。オズロは深くため息をついた。


「分かった。1つだけお願いがある」


 オズロを見上げると、今まで見た中で一番悲しそうな顔をしていた。


「俺の森の相棒を、抱きしめさせて欲しい」


 私が首を縦に振ると、ふわっと抱きしめられた。優しい、優しい抱擁。私は我慢できず、声をあげて泣きじゃくった。


 オズロは私が泣き止むまで、背中を優しく撫でてくれた。このまましがみついていたい気持ちを振り払って呼吸を整える。


「たくさん泣いて、ごめんなさい。今までの事、全部ありがとうございました」


 少しだけ声が震えるけれど、もうちゃんと話せる。最後は笑顔でお別れしたい。


「もしも、気が変わったら、王都に訪ねて来てくれ。いや、一人で来るには遠すぎる。ここを出て一番近い街から便りを出してくれればいい。必ずどうにかするから。何年経ってもいいから」

「ありがとう。大丈夫だから。この1年の楽しい思い出があれば寂しくないの」


 私は棚の前に行き、引き出しを開けて紙を取り出す。


「見て、ミューロもちゃんとあるし。寂しくなったら、似てないな、私の方が上手だな、って思い出すから」


 2枚のミューロの絵を見せた。本当はギード猫にゃんの絵が欲しかったけど、あれは私の物語と一緒に彼に持っていて欲しい。


 ミューロを見て、オズロも目元を緩めた。


「ふっ」


(笑ってくれた。これでもう寂しくない)


私はその顔をしっかり心に焼き付け、森の出口までオズロを送った。そのまま、彼の姿が家の方に消えていくまで、ずっと見送った。


(さようなら、私の森の相棒)


 ◇


 目が覚めた時に思ったのは、まだ辺りが暗いということだった。


 城の部屋に戻ってからも、オズロとの別れを思い出すと涙が止まらなかった。そのまま泣き疲れて眠ってしまったのだろう。ちゃんと眠らなかったから、中途半端な時間に目が覚めてしまったのだ。


 時間を確認しようと、体を起こそうとして違和感を覚える。


(私の部屋ではない?)


 寝具の手触りが違う。慌てて起き上がった。


「目が覚めた?」


 暗い部屋の奥に人影が見える。椅子に腰かけているようだ。


「おはよう、リリイナ」


 ジリアムの声だった。

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