長かった婚約の終わりに
「結婚を取りやめて、婚約も破棄したい」
告げられた言葉に、頭の中がからっぽになる。やがてたくさんの思いが頭の中に溢れ出てきたけれど、どれから取り組めば良いか分からず途方にくれた。
「異論は無いという事でいいのかな」
「どうして。ジリアム、どうして?」
その日は朝起こしに行くとジリアムは既に着替えて、窓際の椅子に座っていた。こんな事は初めてだった。
「俺がそうしたいからだ」
彼は私の方を見ない。窓の外に視線を投げて優しい微笑みを浮かべている。
「そうしたい理由は教えてもらえないの?」
「リリイナ、君はどうしたい?」
ジリアムと結婚したい。いえ、違う。
「ここに置いて頂けませんか?」
ジリアムが私に顔を向けた。厳しい顔をして私を睨みつける。
「俺と結婚したいではなく、ここに置いて欲しいか。そうか、そうだよな。分かってはいても堪えるな」
(堪える?)
「いいだろう。君は国に認められたゴドブゥールの森の番人だ、ここにいればいい。丁重に扱うよ」
ジリアムは立ち上がると私の前に立った。両腕を掴んで私の顔を覗き込む。
「婚約を破棄したからって、どこかに行けると思うな。君はここでずっと、森の番人を続けるんだ。俺の手の届くところでずっと」
ジリアムの瞳に見た事が無いような熱い感情が見える。それは愛ではなく憎しみに見える。義姉の瞳に見たような暗い熱さ。
彼は私の腕を離すと、背を向けた。
「行けよ。明日からは俺を起こさなくていい。君の部屋は今まで通り使えばいいから」
動揺したまま部屋に戻り、着替えて食堂に向かおうとして使用人にそっと止められる。食事は部屋に用意する、と言われる。
(婚約者じゃないから、領主の家族と同じ食卓は囲まないのか)
思いつきで出た言葉ではなく本気だと言う事だ。私は力なく椅子に座り、使用人が部屋に食事を用意するのを眺めた。
◇
春の植物の採取が終わった。後は書き物が残るだけだと言う。
「想定していたよりも、かなり精度が高い調査が出来た。君の協力無しでは成し得なかった事だ。本当にありがとう」
オズロの言葉に嬉しさと寂しさを感じる。細々とした手伝いは出来るけれど、もう私じゃないと出来ない事は無い。もう森に行く必要もない。
「そう言ってもらえると嬉しい。小屋の持ち主が残した書き付けも、あなたに活用してもらえて本当に良かった。この調査で一番働いたのは名前も分からないお爺さんね」
「どんな人だったんだろうな」
勝手に老人扱いしているけれど、本当は若かったのかもしれない。書き付けからは、書いた人の情報は見つかっていない。中に『魔術院』という記載があった気がする。魔力が強い赤子が連れて行かれるという言い伝えがある魔術院。書き付けの老人は、そこの人なのだろうか。
「魔術院は本当にあるの?」
んー、とオズロが宙に視線をさまよわせる。言いたく無い事があるような、気まずいような顔をしている。
「ごめんなさい、話しちゃいけない事なのね」
「すまない」
最後に王子らしい所を見てしまった気がする。
(最後に、か)
「いつ王都に戻るの?」
寂しいと思っている事を感じさせないよう、話す調子に気を付ける。それでもにじみ出てしまいそうだ。オズロの目元も少し硬い。
「10日後の予定だ」
「そっか」
さすがにこの話題は盛り上がらない。私は書き付けの整理に意識を戻した。オズロも書き付けを手に取り、また置く。
「君の結婚式は、その先だったか?」
(結婚式。本当は20日後だった)
オズロには結婚が白紙に戻り婚約を解消した事は伝えていない。取り立てて誰かが彼の耳に入れるとも思えない。このまま伝えないつもりだ。
「そう、あなたが帰った10日後になるわね」
「そうか」
オズロは書き付けを手に持ち、また整理を始めた。
◇
次の日、部屋で朝食を済ませた私は、オズロの所に向かおうとしてジリアムに止められた。ジリアムは私の部屋の前で待っていた。
「ゴドブゥールの森の調査は終わったと報告を受けてるよ。後の手伝いは使用人に任せたから、君はもうオズロに会う必要は無い。分かったね?」
もうジリアムは私の婚約者ではなく、私の雇い主だ。
「承知致しました」
私が使用人らしく礼をすると、面白そうに笑われる。
「違うだろう。別に君は使用人じゃない。伯爵家のご令嬢だって事を忘れたのか? 君はグーデルト家の客人だよ」
いっそのこと使用人の方が気が楽だろう。伯爵家のご令嬢、そんな事を言われても実家にはもう戻れないのに。
「森に収穫に行ってもよろしいでしょうか」
森への出入りまで禁止されたら、この部屋にずっと閉じこもらなければならない。そう思うと胃が引き絞られる。しかしその心配は無かった。
「番人は森に行かせなきゃならないだろう。収穫は必要ない。森の番人として役目を果たしてくれればいい。⋯⋯ああ、鐘を鳴らす事と、塔の灯りだけは今まで通りお願いしたい」
「分かりました」
私はそれでも使用人らしくジリアムに礼をした。彼は今度は何も言わなかった。
◇
日が経つのを、毎日指折り数えた。
「あと2日」
毎日塔の灯りを点ける度に、消す度に、オズロの家を見下ろす。明かりや煙突の煙、窓が開いている様子から彼の存在を感じ取る。
近くにいるのに会う事が出来ない。それはとても辛い事だった。
(会いたい)
私は毎日ほとんどの時間を森の小屋で過ごしていた。今日も塔の灯りを消す時間まで小屋にいるつもりだ。
今年は調査の植物を集めていたから、春の花を摘んでいなかった。部屋の花の香りは1年ほどで儚く消えていってしまう。私はまだ間に合いそうな花を集めるために小屋の外に出た。
花を摘んでかごに入れる。収穫作業をしなくなったので、オズロの真似をして紐を付けたかごの出番は減っていた。かごが一杯になったところで小屋に戻る。
(魔力の気配)
小屋に強めの魔力の気配を感じる。小屋の中に魔獣が入り込んでしまったのだろうか。こんなことは初めてだ。
慎重に小屋に近づく。
(違う、この魔力は!)
私は邪魔になるかごを投げ捨ててて駆け出し、思い切り小屋の扉を開けた。
「オズロ!」
椅子に座ってお茶を飲む姿を見て、思わず涙が出てきてしまう。
(会いたかった)
口に出そうな言葉を飲み込む。
「どうしてここに! 一人で来るなんて危ないじゃない!」
私が一緒にいないと魔獣に襲われるかもしれない。心配する私をよそにオズロは目元を緩めた。
「君にもらったお守りを信じた」
「お守りで本当に大丈夫か分からないんだから、こんな危険な事しないで」
ぽろぽろと涙がこぼれる。オズロはハンカチを出して涙を拭いてくれた。でも拭くよりも早く涙があふれて来てしまう。
「明日の朝、王都に出発する事になった」
「明日? 1日早いの?」
「馬車の都合とか、色々あったんだ。正確な出発日を君に伝える方法が無かった、もう会えないかと思った。ここに来てくれて良かった」
(明日の朝。たぶん会えるのはこれが最後)
私の涙はますます止まらなくなる。止めたいのに、ひっくひっくと子供のように体が震えてしまう。
オズロはそっと私の肩に手を添えた。
「俺と一緒に、王都に行こう?」
私はしゃくりあげながら首を横に振る。
「後の事はどうにかするから。何も心配する事はないから」
私はそれでも首を横に振る。
「どうしても、ここに残るというのか?」
私は首を縦に振る。涙も嗚咽も止まらない。オズロは深くため息をついた。
「分かった。1つだけお願いがある」
オズロを見上げると、今まで見た中で一番悲しそうな顔をしていた。
「俺の森の相棒を、抱きしめさせて欲しい」
私が首を縦に振ると、ふわっと抱きしめられた。優しい、優しい抱擁。私は我慢できず、声をあげて泣きじゃくった。
オズロは私が泣き止むまで、背中を優しく撫でてくれた。このまましがみついていたい気持ちを振り払って呼吸を整える。
「たくさん泣いて、ごめんなさい。今までの事、全部ありがとうございました」
少しだけ声が震えるけれど、もうちゃんと話せる。最後は笑顔でお別れしたい。
「もしも、気が変わったら、王都に訪ねて来てくれ。いや、一人で来るには遠すぎる。ここを出て一番近い街から便りを出してくれればいい。必ずどうにかするから。何年経ってもいいから」
「ありがとう。大丈夫だから。この1年の楽しい思い出があれば寂しくないの」
私は棚の前に行き、引き出しを開けて紙を取り出す。
「見て、ミューロもちゃんとあるし。寂しくなったら、似てないな、私の方が上手だな、って思い出すから」
2枚のミューロの絵を見せた。本当はギード猫にゃんの絵が欲しかったけど、あれは私の物語と一緒に彼に持っていて欲しい。
ミューロを見て、オズロも目元を緩めた。
「ふっ」
(笑ってくれた。これでもう寂しくない)
私はその顔をしっかり心に焼き付け、森の出口までオズロを送った。そのまま、彼の姿が家の方に消えていくまで、ずっと見送った。
(さようなら、私の森の相棒)
◇
目が覚めた時に思ったのは、まだ辺りが暗いということだった。
城の部屋に戻ってからも、オズロとの別れを思い出すと涙が止まらなかった。そのまま泣き疲れて眠ってしまったのだろう。ちゃんと眠らなかったから、中途半端な時間に目が覚めてしまったのだ。
時間を確認しようと、体を起こそうとして違和感を覚える。
(私の部屋ではない?)
寝具の手触りが違う。慌てて起き上がった。
「目が覚めた?」
暗い部屋の奥に人影が見える。椅子に腰かけているようだ。
「おはよう、リリイナ」
ジリアムの声だった。
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