少女は祈る

一齣 其日

少女は祈る

 少女は今日も祈りに来ていた。

 鳥居に律儀にお辞儀をして、とてとてと靴を鳴らす。

 わずかながら、でも彼女にとっては精一杯のお賽銭を投げて、二礼二拍手一礼。

 丁寧なお辞儀だった。

 おかっぱ頭を深く下げ、手を合わせて熱心に祈る。

 口元がかすかに動いていた。


 早く戦争が終わって、おとうちゃんやお兄ちゃんが無事に帰ってきて、また家族みんなで暮らせますように


 だなんて、言っているんだろうなと、社の隅っこでイタチの姿をしたそれは思う。

 もう耳にタコができるほど彼女の願い事を聞いてきたのだ、今となっては口の動きだけでもわかってしまう。

 少女は祈りおわると、またパッと顔を上げて笑顔でおじき。

 そして、またトテトテとした足取りで帰っていくのだ。

 イタチ姿のそれは、ひょっこりと顔を出して少女の背中を見送る。

 健気だなあと、思わず笑みがこぼれてしまった。

 昭和十九年、季節は夏。

 世界中で戦争が起こり、もう随分な年月が経とうとしていた。

 ここ、日本も様々な国と戦争を始めており、数多くの男が兵隊として海を渡っていったという。

 少女の父親も例外ではない。

 また、少し歳の離れていた学生の兄も、去年になって兵士になったらしい。

 少女は、毎日兵隊となって敵と戦っているであろう父や兄を思って、いつも手を合わせていた。

 優しい少女だった。

 祈るのは、ただひたすら無事で帰ってきますように。

 兄が出兵する時は、お手製のお守りを境内で縫っていたこともあった。

 針を指に刺してしまったこともあったけれど、純朴な目で頑張って糸を縫い続けていた。

 

「悔しいのは、おいらがあの子の願いを叶えられるほど格のある神様じゃあねえ、ってことかねえ」


 イタチの姿をした神様は、やれやれとため息をつく。

 かの者は、神と言ってもこの土地を見守る程度の土地神でしかなかった。願いや祈りを聞くことはできるが、せいぜいその程度である。届けることはできなかった。

 それでいいと今まで呑気をしていたものであるが、今は少女一人の健気な願いすら叶えられない己の非力さが少し歯痒かった。

「おいらとあろうヤツが、あの娘っ子の姿に絆されちまうとはなあ……」

 イタチ神は小突くように己の額を叩く。

 あんなに健気に毎日お祈りされちゃ、なんとか叶えてやりたいと思うのが情である。

 ときおり、境内の掃除なんかもしたり、なけなしのお小遣いで買ったのだろうお供物を持ってきたりする姿を見ると、なおさらに情が強くなる。

 だが、どう足掻いても海を越えて少女の父親や兄を助けることもできない。

 奇跡の力、なんて都合がいいものだって持ち合わせちゃいなかった。

「だーぁあ、情けねえ。情けねえぜ。これで神様ってんだからこの世もままならねえなあ……」

 イタチ神は空を見上げる。

 徐に、短い手を合わせていた。


「……あの娘っ子願いが叶いますように……なんてな」


 神様が願いを祈る、なんてどんな話だろう。

 それでも、願わずにはいられなかった。

 あの健気な少女の願いが叶わないなんて、そんな世の中であってほしくない。

 もしもこの世界にも情があるっていうのなら、小さな彼女の願いくらい聞き届けてやってくれ。

 イタチの神は祈る、祈る。

 願いを聞き届けてやれないちっぽけな神なりに、叶えてやりたい少女の祈りが届くように、願いを込めて祈る。

 

 ──どうか、娘っ子のおとうちゃんとお兄ちゃんが帰ってきて、幸せに暮らせますように


 

 …………


 

 世界というのは、思いの外理不尽にできていたらしい。

 戦争は続いた。

 若い衆はどんどん汽車に乗って戦場に行くし、気づけば空からプロペラの音が降ってくるようになってきた。

 ただ、その日がやってきたのは、あまりにも唐突だった。

 そろそろ春風が吹こうとしていた頃だった。

 空から爆弾が降ってきて、数多の街は火の海に包まれた。

 イタチ神の社がある街も、例外ではなかった。

 炎の波に呑まれ焼け出される人々の悲鳴、慟哭が渦巻いて止まらなかった。

 社にも火の粉が舞い、その内火柱が上がった。

 少女がお辞儀をした鳥居は焼け落ち、祈りを捧げていた社にも火の手が回った。

 イタチ神には手が負えなかった。

 ほうほうの体で逃げ出すしかできなかった。

 夜が明けて、やっと火が鎮まったと思った時には、残っていたのは煤まみれの境内だけだった。

 街は、もっと酷かった。

 見渡す限り焼け野原、家も建物も悉くがなくなってしまっていた。

 土地神のくせに、己が守るべき土地すら守れなかった。

 炎に巻かれ、逃げ惑う無様さしかなかった己に、腹立たしささえ覚えた。

 だが、すぐ後にそれ以上に、とイタチ神の脳裏によぎる影。


 あの娘っ子はどうなった

 あの娘っ子は、無事なのか


 毎日欠かさず、お祈りに来てくれていたあの少女。

 時には掃除やお供物もしてくれた、あの健気な少女。

 街が焼け野原になる前にも、少女は社に来てくれていた。

 少女への心配で、イタチ神は胸がいっぱいになった。


 その日、少女の姿はついぞ現れることはなかった。


 翌日も、翌々日もイタチ神は少女が来るのを待っていた。

 せめて、無事な姿を見たかった。

 焼け朽ちた社跡にちょこんと座り、少女のトテトテとしたあの足音が近づいてくるのを、ずうっと待っていた。

 ひと月が経ち、またひと月が経ち、さらにひと月が経った。

 初夏が訪れ、ひとしきりの雨が降り、蝉が鳴き出してもまだ、少女の足音は聞こえなかった。

 あの炎に呑み込まれたか。

 日に日にイタチ神の中で大きくなる、絶望の色。

 少女が祈る姿が、もう思い出という記憶になろうとしていた。

 夏が終わる。

 ひぐらしが鳴き、日が沈むのが早くなった夕暮れ時のことだった。


 トテトテと、聞き慣れた足音がした。


 イタチ神が顔を上げる。

 夕陽の向こうに、見慣れた影が見えてきた。

 少女だ。

 あの少女が、そこにいた。

 背が伸びて、でも少しやつれたような顔をしていた。

 お辞儀は、忘れなかった。

 もう鳥居は影も形もなくなっているというのに、鳥居があった場所の前に立つと、丁寧に頭を下げて入ってくる。

 相変わらず、律儀な少女だった。

 社跡にまでとてとてと近づくと、かろうじて残っていた賽銭箱に、二礼二拍手一礼。

 イタチ神は、それを隠れたところから見守っていた。


 涙が一雫落ちていったのを、イタチ神は見逃さなかった。

 よく見ると、彼女の手にはボロボロになった、兄に渡したはずのお守りが握られていた。


 それで、全て察した。

 イタチ神は、歯噛みする。

 

 世界に、情なんてありゃあしないのか

 ここまで理不尽にならなくたっていいんじゃあねえのかよ


 ちくしょう。

 ちくしょうと、空の上に向かって叫び散らしてしまいたかった。

 いたいけのない少女の願い一つ、どうして叶えてやれねえんだ。

 どうして、己は少女の願い一つ叶えてやれるだけの力もねえんだ。

 自分の頬を、その小さな手で叩く。

 べちり、べちりと、叩く。

 無念さと絶望に、体から心まで染まっていきそうになってきた。


「ねえちゃん!」


 声がした。

 少女を呼ぶ、声がした。

 見ると、夕陽の向こうから小さな影がまたひとつ、少女よりも頼りない足取りでやってきていた。

 男の子だった。

 弟、にしてはあまり少女とは似てないように思えた。

「たろちゃん! どうしたの、なんでここがわかったの?」

 少女は男の子の声に振り返ると、慌てた様子で男の子に駆け寄っていく

「おばちゃんがここにいるだろうからって言ってたよ。じゃなくてさ、ねえちゃん、おばちゃんがもう夕ご飯だよ、って呼んでたよ。おれ、お腹すいちゃったよ」

「そうだったんだね。わかったわかった。それじゃあもう帰ろうか、たろちゃん」

 そう言うと、少女はたろちゃんと呼んだ男の子の頭を撫でる。

 ちょっと嬉しそうな、でも照れくさそうな男の子の顔が見えた。


「そいや姉ちゃん、どうしてここにきたんだい?」

「ん? それはね、ごあいさつに来たんだ」

「あいさつ?」

「そ。やっと帰ってこれたから、またよろしくお願いします。あと……」


 かあ、と鳴く声がした。

 親子連れだろう、何羽かのカラスが空に飛び立つ姿を、少女は見上げる。

 ちょっと息を溜めてから、男の子の方へ視線を戻した。

 やつれた顔は変わっていなかったが、目は決して哀しみばかりではなかった。


「あたし、頑張りますって。おとうちゃんやおにいちゃんの分まで、おかあちゃんとたろちゃんと一緒に生きていきますって」

 

 少女は、にっこりと笑っていた。

 男の子も、つられたように笑って、うんと頷いた。

 

 ──なんて娘っ子だろう

 

 イタチ神は、放心した様子で少女と男の子の姿を見ていた

 自分が非力さに打ちのめされ、黒いものに身を委ねようとしていたのに対し、なんと少女の心の強いことか。

 父も失い、兄も失い、あの様子だと満足に生活もできていないに違いない。

 なのに、一生懸命に生きている。

 年端も行かない男の子と一緒に、少女は一生懸命に生きているじゃあないか。

 めげいていたに違いない。

 涙もたんと流していたに違いない。

 でも、弟のような存在を前にした時、少女は一人の姉のような顔をしていた。

 強がりもあるかもしれないけれど、それも少女がただ祈りをしていた頃と比べたら、成長したということかもしれなかった。


 ふと、少女は振り向く。

 瞳は、決意に溢れた色をしていた。


「あたし、頑張ります。頑張りますから、見ていてください」


 もう、少女は祈るだけじゃない。

 祈りを胸に、この理不尽で情のない世界を自分の足で生きていこうとしていた。


「ああ、見ている……見ているとも。──そのためにも、おいらだって俯いてちゃいられねえよな、うん」


 巣に帰ろうとするカラスと一緒に、二つの影は家路をトテトテと歩いていく。

 その背中姿を、イタチ神は暖かな眼差しで見送るのだった。

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