第8話



 虎太郎がホウライ軒に足を運ぶのはもう両手では数えきれないほどだった。兄は度々このお店のことをメールで話していた。虎太郎も土日や休みの日は必ず訪れた。お店の壁には若葉高校の野球部やサッカー部、ラグビー部などが様々な大会で優勝した時の写真がいくつも貼られていた。もちろんバスケ部の写真もあった。その中に仲間と嬉しそうに肩を組んで写っている笑顔の伊吹。写真の中の伊吹が今にも自分に話しかけてきてくれそうな感じがした。すぐ近くに居そうな気がした。今日はどうしてもこの笑顔の兄を見たくて学校帰りに寄ってみたのだった。いつもは客が多くてゆっくり眺められなかったが、今日は平日の夕方ということもあってかまだ客は誰もいなかった。

「もしかして、虎太郎くん?」

「えっ」

 名前を呼ばれて振り向くと厨房にいる若い店長が虎太郎を見ていた。

「はい」

「やっぱりな。ずっとそうじゃないかなって思ってたんだよ。こうやって見ると伊吹くんに似てるな」

 店長は厨房から出て来て虎太郎の隣に立った。

「ごめんな、いつもバタバタしてて声かけてあげれなくて」

「いえ、そんな、ありがとうございます」

「伊吹くんはしょっちゅう虎太郎くんの話をしてたよ。小学生の弟が俺のこと大好きでずっと俺の後ろにくっついてて可愛いんだってね」

「はは、その通りでした」

「まあ、俺から見れば弟が大好きで離れたくないのは伊吹くんの方だと思ってたけどね」

「……」

 虎太郎の目から突然涙が溢れ出していた。兄の写真を見て、兄のことを知っている人と話して、兄がいた場所に立っているからだろうか。それに加えてこの店長の柔らかい雰囲気が虎太郎の涙腺を崩壊させていた。

「おっと、ティッシュティッシュ。ほら」

 店長は慌ててティッシュの箱を虎太郎に渡した。

「すみません」

「いいよいいよ。辛いよな。本当に仲良さそうだったもんな」

「……はい」

「毎日メールしてたんだって? 将来は二人でプロになるって張り切ってたな伊吹くん。弟が若葉高校に入ったら俺がコーチしてやるんだって嬉しそうにしながら言ってた。とにかく虎太郎くんがこっちに来るのを楽しみにしてたよ。一人でよく来たね、虎太郎くん」

「……ヒッ……はい」

 虎太郎はティッシュを何枚も掴んだ。次から次へとあふれ出る涙をぬぐうのに必死だった。

「僕……バスケ……やめちゃった」

「そうか。じゃあ、受験してこっちに?」

「……はい」

「頑張ったんだな。えらいえらい」

 店長は虎太郎の頭を優しく撫でていた。そして虎太郎の背中を押してカウンターの席に座らせた。少しして落ち着きを取り戻した虎太郎は「すみませんでした」と言って頭を下げた。

「えっと、味噌ラーメンお願いします」

「はいよ。はは、やっぱ兄弟だな。伊吹くんもいつも味噌ラーメンだった」

「はい。味噌ラーメン、美味しいです」

「あは、ありがとう」

 虎太郎が味噌ラーメンを食べ終わる頃にはホウライ軒のカウンターはほぼ埋まっていた。店長がバタバタと忙しく動いているいつもの光景が虎太郎を現実の世界に呼び戻していた。

 会計を済ませアパートに帰りながら虎太郎はさっき長谷川に言われたことを考えていた。まだ自分は何もしていない。せっかく長谷川という、刑事の息子という心強い味方ができたのだ。自分が伊吹の弟だということを学校中に知ってもらうこと。そうすることで何かしら誰かしらから接触があるかもしれないと長谷川が言っていた。もし何もなかったにしろ、その方がいろいろな人に話が聞きやすくなるだろうと。そしてもうひとつ、長谷川の言葉が頭の中に残っていた。それが恐怖にも似た何かとなって虎太郎の頭をぐるぐると悩ませていた。

「いいか。お前のお兄さん、伊吹さんが亡くなったのが本当の本当に自殺だったとする。その時本当の理由を知ってお前はそれを受け止めることが出来るのか? 伊吹さんが本当に誰にも知られたくない悩みを抱えていたとして、それを深掘りすることは伊吹さんのためになるのか? ただ生きてる人間の、虎太郎の自己満足のためだとは思わないか? もしかしたら伊吹さんは本当は何も知られたくないから自ら死を選んだのかもしれない。そしてもしも自殺じゃなかった時も同じだ。どんな目にあってもお前は真実を知りたいか? 知る覚悟は出来てるのか? どんな結果になろうと耐えられるのか? もう一度よく考えてみろ」

 そう言われた時はショックだった。自分がやろうとしていることは間違っているのか。何も知らない方が兄のためなのだろうか。そんな恐怖が襲ってきた。どうすればいいのかわからなくなっていた。こんな時に兄がいてくれたら。そう思った虎太郎はふらふらとホウライ軒の写真の中の兄に会いに行ったのだった。

 若竹コーポの二〇一号室に帰ってきた虎太郎はすぐにカバンを投げ捨てベッドへダイブした。そして枕元に置いてあるバスケットボールを抱きかかえた。仰向けになったままボールを両手で宙に放り投げては取る。毎晩寝る前にそうやっているうちに兄が書いてくれたサインはだんだんと薄くなってかすれていた。虎太郎にとって憧れであり尊敬する兄。何でも出来て明るくて人気者の兄。家族思いで弟思いで誰よりも優しかった兄。虎太郎はボールを掴んで薄くなったサインを見つめた。兄はプロを目指していた。いつか弟と、自分と一緒にバスケをする日を夢見ていた。毎日メールもしていた。嘘や隠し事なんてなかったはずだ。兄のことを考えて虎太郎は飛び起きた。

「兄ちゃんごめん。やっぱり僕、どうしても真実が知りたいよ。どんな理由があったにしろ、兄ちゃんに対する気持ちは変わらないから。ずっとずっと大好きだから。だからいいよね?」

 虎太郎は伊吹のサインボールにおでこをくっつけながらそう呟いていた。






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