7話 苦くて甘い、苦しくも楽しくも

 トニーは車のドアを開ける前に、ソニに念を押した。

「部屋に帰ったら、明日の出勤にそなえて。今日このまま退所するわけじゃないんだから」

「律儀なんですね」

「アパートに送るぐらいはしてあげる。乗る?」

「いきます」

 食い気味に即答された。

「そんなに信用ない? ここで別れて、そのまま施設に放置とかしないのに」

 疑われている視線を感じながら運転席に乗り込んだ。

「アントニアさんはこれからどうするんですか?」

「日帰りで帰るつもりだったけど、こっちで一泊する」

 たいして動いていないのに、とても疲れた。そして脚が痛かった。

「ホテルを探す前に薬局にいきたい。この近くならどこにあるかな」

 医薬品でも薬はきらいだ。しかし、鎮痛薬なしでは眠れそうになかった。

「どこも閉まってます。夜の八時を過ぎてますから」

「まだ八時で……ああ、そっか」

 郊外だということを忘れていた。トニーはステアリングに突っ伏した。そのまま恐る恐る訊いてみる。

「ビジネスホテルもないとか?」

「四駅分ぐらい戻ればあります。近くでしたら観光ホテルが二軒ありますけど、一泊の料金がアントニアさんの食費七日分以上だったはずです」

「…………」

 金がないわけではない。そんなバカバカしい使い方をしたくないだけだ。が……

「この際、しょうがないか」

「ほかにも解決策はあります」

「あんたのアパートに行くのはナシ」

「なぜ? 部屋を散らかしたりしてませんし、アントニアさんの生活感覚なら、狭さは気にならないはずです。ホテルを探す手間が省けます」

「駐車場探す手間はあるでしょ」

「無人駐車場が近くにあります。なんでしたら路上駐車も可能です。なにより部屋には、縫合用の処置セットを常備してますし、鎮痛剤もあります」

「いく」

 痛みで考えるのが面倒になってきた。

「じゃ、世話になる。道をおしえて」

 トニーは車のエンジンをかけようとして、はたと思い返す。訊いておきたいことがあった。

 助手席にすわっているソニにむかって、うなじの下を指した。

「ナイフを隠し持ってるフリをしてたけど、あたしが本当に撃っても、どうにかできる自信があった?」

「確率からいうと、ブラフとは言い切れません」

「確信してのことだったと?」

「アントニアさんは撃ちませんから」

「断言する根拠は?」

「遮蔽物がないから発砲音が筒抜けになります。人家が離れていても、窓を閉め切っていても、静かな郊外なら聞きつける人もいる。強引にことをすすめる必要がある事態でもなければ、まずは撃ちません。得物を使うのなら、音を出さないナイフです」

「ソニに言い聞かせようと意地になってた。感情的になったあたしが、周囲の状況を無視して撃つ可能性もあったのに?」

「トリガーに指をかけられたとしても、わたしのほうが速い自信がありました。こちらに来てトレイルランニングをやるようになりましたから、足場の悪さは大きな問題になりません」

「トレイル……ああ、山道みたいなとこ走るやつか」

「瞬間的に動くことに限ってなら、わたしのほうが有利でしたし、間合いも何とかなる距離でした。あと一メートルでも遠かったら、リーチの短いわたしでは無理でしたけど。

 最初の発砲にさえ対処できれば、脚が完治していないアントニアさんに、やられっぱなしにはなりません」

 ソニに、自信としたたかさが加わっている。元教育係の余裕の笑顔で応えるつもりが、頬がこむら返りをおこしそうになった。

「あの……」

 打って変わって、ソニが緊張の面持ちになる。

「先に渡しておきたいものがあります。ルブリさんから預かってきました」

 ワークシャツのポケットから濃紺のハンカチを出した。

 包みが広げられる。濃い布の色をバックにして、やわらかな真鍮の色が、薄い光を受けて反射した。

 呼吸を忘れる。歪んだボディーの形ですぐにわかった。

 フロラに贈ったブックマーカーだ。

 窮地を脱するためとはいえ、ルジェタに突き立てたことを後悔していた。フロラがまたどこかにいってしまったような喪失感に襲われた。

 戻ってきたことは、とても嬉しい。

 しかし、ソニはそれでいいのか……。

「これがあると、またフロラのことを思い出す。思い返すことでフロラの記憶が補強されて、さらに揺るぎない存在になるかもしれない。それをわかってて渡すの?」

「ブックマーカーをフロラさんから頼まれたとき、最期のときまでも思われているのは、どんな人なのか、とても興味がわきました。それほどまで思う人がないまま、思われることを知らないまま、生きてきましたから」

 ブックマーカーをトニーの手に渡した。

「アントニアさんが、いまのままでいてくれたら……天にも昇れそう? です。血の繋がり関係なく、妹だからフロラさんのことを大事にしているアントニアさんに、ますます憧れたのです。シスコンとか言って、ごめんなさい」

「『天にも昇る心地』だね。ソニは天に昇らないで。言いたいことはわかったよ」

 手にとったブックマーカーに指をすべらせた。ルジェタから逃れるために、本来ではない使い方をした。そのせいで、ブックマーカーとは思えない形になってしまった。

 だからこそ大切にしたかった。

「これおかげで銃弾を食わずにすんだ。フロラに助けてもらったと思ってる」

 ソニの目を見た。

「あたしのところまでフロラを繋いでくれたのは、ソニだよ。フロラが最後に……最期に会ったのがソニでよかった」

 トニーはハンカチに包み直すと、丁寧に内ポケットの奥へと入れた。

「わたしを……許してもらえますか?」

「運命とか人生って、不合理と不確定のうえに不都合もいっぱいじゃない? 神サマが決めたのか偶然にすぎないのか知らないけど、ちょっとしたことで深傷を負わされることもあれば、たすかることもある。本人にはどうしようもないことをあたしが許すも許さないもない——。

 こんなふうに答えられるまで時間がかかっちゃったけど」

 ソニがフロントガラス越しの、薄い墨色の風景に語りかけた。

「はじめは許されないままでもいいと思ってました。それだけのことをしました。けれど一緒にいられるなら、許されたいと思うようになりました。アントニアさんがどう感じているのか、気になるんです。

 それに……アントニアさんが許すと思えるほど、落ち着いてくれたらいいなというか」

「あたしはやっと、フロラが死んだんだって受けとめられるようになってきたとこなの。墓参りとかは、まだできてないぐらい。だから、もう少し時間がほしい。ちゃんと答えたいから」

「……はい」

 トニーは、大きな闇のなかに蛍の光のように浮かび上がる、住宅のを見る。

「<テオス・サービス>の仕事だけで、やってけないかって思うことがある」

「え……」

 ソニが驚いて振りむいた。表情に、おいていかれるのでないかといった不安がのぞく。

「でも、思うだけでいつも終わる。フロラを亡くして、殺される側のことを改めて意識した。それでも<ジュエムゥレェン《掘墓人》>から抜けられない。

 相手がどれほどの極悪人だったとしても、あたしは許されない一線を越えてるのに、居場所と思えるのは、ここだけ。なんの因果だろね。前世でも何か悪行やってたせいかも」

「わたしは救われました」

 助手席から身を乗り出してソニがアピールしてくる。

「そのおかげで……と言ってはいけないんでしょう。けれど、アントニアさんが〝こちら側〟にいてくれたから、わたしは——」

 トニーは腕をのばす。ソニの肩をぎこちなく抱き寄せた。

 言葉でどう返していいかわからなかった。

 正しいかは別として、精一杯の判断を肯定された安堵。そして、無様を見せても慕ってくれることに胸が苦しくなる。フロラには好評だったハグで、言葉の代わりにした。

 身体を近づけて気づく。ソニの肩が震えているのは……

「あ、ごめん。マヌケだった」

 ハグをとき、慌ててエンジンキーをまわした。エアコンを入れる。

「悪い。あれこれ考えてて暖房に気が回らなくて」

「いえ、いいです……」

 ソニが気落ちしているように見える。トニーは自分のジャケットを脱ぎ、ソニに手渡した。

「じゃあ、部屋までのナビゲートよろしく」

「最短距離で案内します」

 オーバーサイズのジャケットを羽織ったソニの表情が、わずかばかりご機嫌になり安心する。やはり寒いせいで、ソニの気持ちもネガティブになっていたのだとトニーは思う。

「ついでに簡単な食事を買っていこう。どっかない?」

「無理しないでください。缶詰なら買い置きがあります。一晩ぐらいいいでしょう」

「大丈夫、話してるうちに痛みが……げッ、缶詰しかないの?」

「ウソです」

 話したのは一度きりのはずの「缶詰だけはきらい」をソニは記憶していた。

「あたし、ソニに恨まれること……したな」

「<フェロウ・インダストリーズ>から持ち帰った外観不良のパンが、冷凍庫にぎっしりあるんです。捨てたくないので食べるの手伝ってください」

「わ、わかった……」

 アグレッシブになったソニに頷くだけにしておく。

 トニーは、マニュアル車がきらわれる面倒——クラッチを繋ぐ手間をはさんで、ギアをニュートラルからローにいれた。

 ふたりが乗った車が、ゆっくりスタートする。

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