信奉者

Slick

第1話

 キンと冷え切った大気に、荘厳な鐘の音が響いた。

 曇天を衝かんと空高く聳え立つ『正教会』の聖堂の尖塔、全てを共振させるその聖なるしるべが、見下ろした街を震わせる。

 時は祭日。街はきらびやかに活気づき、表通りのバザールでは熱に浮かされたような人混みが、小魚の群れように集合しては千切れてゆく。その賑やかな喧騒が一刹那だけ、鐘の波動と美しく溶け合ったように思われた。

 だがその調和は、たった一人の男の存在によって崩されることとなる。


「――まぁ。ご覧、『邪教』の信徒だわ」


 一人の婦人の呟きを機に、群衆の内に困惑がさざ波のように広がった。


「――あぁ、何と忌まわしい。汚れた生まれの彼奴らは、きっと悪魔の落し子に違いない」

「――よりによって『正教会』の祭日に姿を見せるとは、嫌なものを見てしまったことだ」

「――しっ! 声が高くてよ」


 嫌悪と蔑みの視線に漉き込まれた、鋭い侮蔑の言葉。さり気なく覆われた口元からの囁きは全て、ある一人の男に集中していた。

 高身長にして寡黙。体格の良い身体には、朱の紋章が編み込まれた黒装束を纏っている。その顔は鳥獣を模した恐ろしげな仮面で覆われており、表情を伺い知ることは出来なかった。

 男が一歩踏み出すのに呼応して、周囲の囁きは静かに高まっていく。それはあたかも、オーケストラの指揮者が登壇するかの如く ――。

 だがそこで、男はふと装束の裾を翻すと、歩みを裏路地へと折った。

 ザワザワという喧騒が、一気に安堵という名の羽布団に落ちる。

 暫くの間は大通りにも、男の残した黒い余波が漂っていた。しかし程なく男の存在は忘れ去られ、街には再び清らかな鐘の音が染み込んだ。


 ■ ■ ■ ■


 男にとっては、全てが予期されたことであった。

 暗い裏路地を数歩だけ進んだ先、彼は装束のフードを折り上げると、さり気なく背後に視線を遣る。

 尾行はない。

 祭日ゆえか、この日は憲兵も出払っていた。男にとっては好都合。

 彼は複雑怪奇に、まるで邪悪な意思が捻じ曲げたかの如く入り組んだ路地を歩んでいく。一度この迷宮に入り込めば、『正教会』の尖塔はすでに遥か彼方、曇天の合間にさえ垣間見ることはできない。神の慈悲も、このアンダー・ワールドには届かない。

 まともに舗装もされていない砂利道は、先日の雨で半分固まっていた。そして薄汚れた路地の先に、地にうずくまる甲虫を思わせる、陰気な平屋のカンティーナがあった。

 ビーズを垂らした石造りの入り口を潜ると、最低限の明かりしかない店内で、彼はまさしく魔導書の予言を告げに来た悪魔のように思われた。


「......来たか」


鳥の巣のような無性髭を生やしたカンティーナのマスターが、そう呟いた。


「今日は『正教会』のライフ・デイだから、最初の一杯は店の奢りだ」

「何とも皮肉が効いているな」


 返事と共に醸造酒を一杯頼むと、最も奥の暗がりに身を寄せるようにして、男はカウンター・スツールに腰掛けた。おもむろに鳥獣の仮面を外したが、暗がりではいずれにせよ男の顔は判別できない。


「――おにーさん、どうぞ?」


 ふと幼さの滲んだ声に振り返ると、一人の少年がトレー片手にその場に立っていた。

 見たところ、歳は6つか7つほど。幼さと理知的な顔立ちが混ざりあい、身なりは薄汚れているものの利口そうな少年であった。


「......どうした、坊や? このカンティーナは坊やみたいな子供の来る場所じゃない」


 盃をトレーから受け取りながら、男は分かりきった問いを尋ねた。


「僕? 僕はこの店で働いてるんだよ、親がいなくてね。それに『坊や』じゃない、僕はネヴィっていうんだ」


 男は少年の言葉を、密やかな苦みをもたらす醸造酒とともに聞き流した。

 だが。


「よっこいしょ」


 少年は、自分の背丈と同じくらいの高さのスツールによじ登ると、彼の隣に腰かけたのである。


「......いったい何の用だ、坊や? それに店の仕事は?」

「ネヴィ、だってば。今日はライフ・デイだから、行きつけの人もみんな塞ぎ込んで、店にも来てくれないんだよ。だから暇なんだ。ね、マスター?」


 少年が、カウンターで黙々とグラスを拭いているマスターに尋ねる。


「......というより儂は、今日は客など来ないと思っていた」


 確かに、今いる客は男だけだった。


「それで? おにーさんは、どこの国から来たの?」


 無邪気な好奇心を瞳に湛えて、ネヴィ少年が男に尋ねる。

 ”私は、この街の生まれだ”

 だが男は、そう真実を告げることが出来なかった。


「......遠い北の果てにある、それは恐ろしい禁忌の国さ」


 男は代わりに、そう嘘を吐いた。


「呪われた悪魔の故郷だよ」

「それは『じゃきょう』だから?」

「かもな」


 再び盃に口を付けつつ、男はふと思いを馳せる。

 ――生まれた時から『邪教徒』と呼ばれてきた。彼はそれ以外に、自分の信じる宗教の呼び名を知らない。

『正教会』の教えが広く信仰されるこの国において、彼らは常に迫害と偏見の対象だった。


「私のことを『悪魔』だと思うか? 呪われた異教徒、古の悪魔の落し子だと?」

「ううん」


 しかし、ネヴィ少年はそう臆さずに答えた。


「よく分からないけれど......おにーさんは『正しい』人だって思うよ」

「『正しさ』など虚しい」


 そう言ったものの、男の口元には微笑が浮かんでいた。暗がり故に、それが少年の目に入ることはなかったが。


「じゃおにーさんって、今はどこに住んでるの?」


 なんと賢い、と男は再び感嘆する。偽りの出身地を教えたばかりなのに、今度はこの街での住居に考えが及ぶとは。


「......私に家はない。ぼろきれで組んだテントだけが住処だ」

「じゃあ、僕よりずっとマシだね」


 少年は無邪気にそう言うと、ふいと顔を上げて尋ねた。


「ねぇ? もし良ければ、今晩おにーさんの家に泊まっても良い?」


 ■ ■ ■ ■


「大したものは何も無い」


 そう何度も説明したものの、ネヴィ少年は付いて来ると言って聞かなかった。男はついに観念すると、今日は早めに帰れるんだ、と言う少年を連れて『我が家』に戻った。


「夜食は無しだ。そんな余裕はないし、出せるものなど何も無い」

「良いよ、そんなもの目当てで来たんじゃないし」


 雑草に半ば埋まった空き地の隅に、男のテントはあった。男はひとまず小さな火を起こすと、少年と二人で並んで焚き火に手をかざす。

 揺らめく二つの影が、背後にある穴だらけの廃屋の壁に踊った。

 焚き火で燃やしているのは、主にゴミ箱から漁ってきた紙くずである。


「まるで、僕たちみたいだね」


 炎の中で爆ぜた紙片を見つめながら、ネヴィがポツリと呟いた。


「......そうだな」

「ねぇ、おにーさん? その仮面は取らないの?」

「『邪教』の教義では、人前で仮面を外すことは許されない」

「でも店では取ってたよね? おにーさんの手元のカウンターに、外した仮面が置いてあったよ」


 やはりよく見ているな、と男は再び思った。


「要は、顔さえ見られなければ良いんだ」

「そういうものなの?」

「一つの教義の解釈は色々ある」


 遥か彼方の記憶を手繰り寄せるかのように、首を傾けながら男は言った。


「それは畢竟、『正教会』と『邪教』も同じことだ」

「?」


 少年の浮かべた怪訝な表情を、男はふと気の毒に感じた。


「悪い、少し込み入った話だったな。次は別の話をしよう。『邪教』の教義に興味はあるか?」

「うん」

「そうか。なら例えば......」


 そう告げると、男は夜空を指さした。


「例えば、この冬空を見上げてみるといい。『邪教』の教えの一つ、全ては目に見えぬ糸で繋がっている」


 男はそう告げると、ネヴィ少年に星々を目で追うよう言った。


「この世は鎖、そして同時に絹の糸。星々が繋ぎ合わさって星座を編み上げ、星座が組み合わさって神話を作り、そして神話は人々の情念の中で育まれる」


 そっと手を伸ばすと、男は少年の胸に指を当てた。


「つまり『ここ』にも星の声は宿っている。どれだけ遠く離れていても、ほら、君の中では星々が生きている」

「......分かるような、分かんないような?」

「いつの時代もそれが第一歩だ」


「ねぇ? 『正教会』の修道士さんとは仲が悪いの?」

「あいつらは偽善者だ。奴らの称する唯一神と聖書の教えを笠に着て、自分たちの名利を貪っている」


 再び暗い話題になってしまったことに気付き、男は適当に言葉を繋げると、話を締めた。


「......まぁ、すぐ分かるさ」


 そろそろ子供は寝る時間だ、男はそう言うと、パッと焚き火に砂を掛けた。微かな炎はフッと夜闇に掻き消え、漆黒のベールが周囲を覆いこんだ。

 テントは狭かったが、6才の少年を迎えるのに問題はない。中に入って入口の幕を下ろすと、二人は並んで地面に寝そべった。


「......おにーさんは、昔から一人ぼっちだったの?」


 そろそろ寝たか、と男が思った時、ネヴィがふと呟いた。

 冬風が切り裂くような音を立てて、テントを包み込む。


「......私に、親の記憶は無い。だが遠い昔、私には妹がいた」

「その人も『じゃきょう』だったの?」


 暗闇に一瞬、沈黙が落ちる。


「あぁ。でも彼女は教義に背いて、私の元を去った」


 男は今でも思い出す。彼女が去り際に放った言葉を。


『一つの夢の解釈は、色々あるの』


「今でもふと彼女を思い出す、そして後悔に苛まれる」


 突如として眠気に襲われ、男は何とか最後の言葉を紡いだ。


「どうしてあの時、彼女を止めなかったのだろうと......」


 ■ ■ ■ ■


 翌朝、男は奇妙な感覚と共に眠りから覚めた。

 肩が不規則に繰り返し揺すられるような、まるで船に乗っているかの様に妙な浮遊感を覚える。頬に当たる、その柔らかな吐息が――


「憲兵かッ!」


 バッと跳ね起きた男の目の前には......小さな少年が座っていて。


「あ......」


 少年はそう、どういう訳か目を瞑ったまま、小さく声を漏らした。


「おにーさん、おはよう!」

「......どうして目をつぶっている?」

「だっておにーさん、まだ仮面を着けてないでしょ?」

「!」


 慌てて枕元の鳥獣仮面に手を伸ばすと、男はそれをしっかりと顔に嵌め込んだ。


「......もう大丈夫だぞ」


 そう告げると、ネヴィ少年はゆっくりと目を開ける。


「あ、おにーさん安心して? 顔は見てないよ」

「すまない、私も油断していた。寝起きで人と顔を合わせることは久しくてな」


 簡易テントを出ると、朝霜の白い冷気が精霊の影のように路地裏を漂っていた。男は小さな焚火を起こすと、半分錆びかけたスキレットで干し肉のジャーキー片を焼き始める。

 クンクンと鼻を鳴らしながら、ネヴィ少年がその隣に座り込んだ。


「ほわぁ......朝ごはん?」

「あぁ。大したものじゃないけどな」

「僕にとっては十分ご馳走だよ。まともな食事を摂れるなんて、久しぶりだ」


 香ばしい香りが鉄板から立ち昇る頃には、裏路地にも眩しい朝日が差し込んでいた。

 少年がパクパクとジャーキーを食べていると、不意に『正教会』の鐘の残響が届く。


「......奴らは朝の礼拝の時間か」

「ねぇ? 『じゃきょう』にもお祈りはないの?」

「我々に、信仰する神は無い。信じないものならあるがな」


 手早く朝食を終えると、男はネヴィ少年の身なりを整えてやり、その背中に片手を添えた。


「さぁ、もうお別れだな。私たちが出会えたのも運命だ。願わくば、再び会う日まで」

「僕はいつでも店で待ってるよ?」

「気休めはよせ。このアンダー・ワールドでは、同じ場所に留まり続けるのは愚か者だけだ」

「間違ってはないね」


 少年はそう、感情を殺した目で答えると――はっとその顔を上げた。


「あ! ってことは、おにーさんもそろそろ引っ越しの頃合いじゃないの?」


 不意に目を輝かせて叫んだ少年に、男は嘆息する。やはり聡明な子だ。この子なら大きくなっても、影の世界で上手く立ち回っていけるだろう。


「それで?」

「手伝ってあげるよ、おにーさんの引っ越し」

「移動は一人で十分だ」

「分かってないね、この世界で生き抜くための、もう一つのコツ!」


 ネヴィはそう、悪戯げに微笑んだ。


「出来るだけ多くの相手に貸しを作っておくこと!」


 ■ ■ ■ ■


 丸めたテント布を担いだ少年を連れて、男は新しい住処を求めつつ裏路地を彷徨った。

 より暗がりへ、より人目につかない方へと進むうちに、周囲の風景も微妙に変化してくる。

 街の最奥部、最も文明の影が深まる場所。とはいえ、どこも似たようなものだったが。

 出来るだけ『先客』のいない場所を探し、吐瀉物の臭いが充満する路地を奥へ奥へと進んで行った。あちこちの暗がりに倒れている物言わぬ身体は、もはや生きているのかさえ定かではない。


「......こんな僕らでも、まだ恵まれてる方なんだね」


 目を覆うばかりの惨状と立ち込める臭気に、思わず口元を抑えながら少年が呟いた。


「あぁ、秩序は深い影を生む。いつの時代でもな。それは常に一つの形を持つ訳ではないが」


 最貧困地区を抜けると、二人は無難な、先客のいない空き地にテントを設置した。大昔は家が建っていたのだろうが、今では崩れ去った壁と基底部の名残しかない。


「さて、昼飯にでもするか」

「僕はいいよ、いつも食べてないし......」


 俯いた後に、少年は一言。


「今はそんな気分じゃない」


 男は内心、少しばかり自省した。ネヴィ少年にはあえてあの地区を見せたのだが、やはり衝撃が強すぎたか。だがそれも必要なことだ。いくら利口であっても、それだけでは世界を知ったとは言えない。


「何か食べ物を手に入れてくる。そこで待っていなさい」


 男はそう、謝罪の意も込めて短く告げると、くるりと踵を返そうとして――。

 ふと、遠くに複数人の足音を聞きつけた。

 ここは、表通りからは程遠い。そうでなくてもこの辺りでは、あれほど規律だった足音を聞く機会は滅多に無かった......。

 見つかった。

 奴らが、来るのだ。


「――坊や、今すぐここを離れろ」

「ぇ?」


 言外に緊張を孕んだ声に、少年はぽかんとした顔でこちらを見返す。だが男はネヴィを急かして立ち上がらせると、少年の背丈に視線を合わせた。


「良いか。絶対に振り返らずに、さっきの貧民地区まで全力で走るんだ。あの迷宮に逃げ込みさえすれば、そう易々とは見つからない」

「ねぇ、どういう事? 僕、何か悪いことでもした?」


 狼狽える少年の小さな身体を、男は有無を言わさずぎゅっと抱きしめた。

「会えて嬉しかったよ、ネヴィ」


 そう言うと、少年の胸にそっと手を当てる。


「離れていても繋がっている、だったよな?」

「......うん」


 ネヴィはまだ混乱している様子だったものの、聞き分けよく頷いた。やはり利口な子だ、と男は何度目か分からないままに思う。


「おにーさん? 最後に一つだけ、質問してもいい?」

「何だ」

「おにーさんの名前、何ていうの?」

「私か? 私の名は......」


 ふと、遠くの記憶が頭に去来する。


「――スコール、だ。ふと熱く打ち付けては、素早く引いてゆく者の意さ。どうやら私はこの名にふさわしくないようだ」

「?」

「さあ。そうと分かったら、早く行きなさい」


 男に背を押される形で、少年は走り出した。立ち上がった男は、その小さな背が路地の先に消えるまで見送っていた。

 ……いつの間にか、あの子に情が移ってしまったようだ。自分の名を教えたことは、今まで誰にもなかったのに。

 男はくるりと振り返ると、再び緊張感を締め直した。

 私も逃げなければ。

 手近な崩れかけの塀に手を掛けると、男は驚くべき身体力で跳び上がった。装束をひらりと翻し、雑草の生い茂る反対側の地面に軽々と着地する。さらにより暗い場所を目指して、泥だらけの横道へと足を飛ばした。

 そう遠くない背後から、複数の声が聞こえてきた。それと共に、金属が立てる冷たい音。

 息が荒れるのも構わず、男は裏路地を駆け抜ける。仮面を被ったその姿は、あたかも封印を解かれた古の悪魔が、伝説から抜け出て来たかのように思われた。

 迷宮のような路地をひたすらに走り、走り続けて、角を曲がった先――


「止まれ!」


 正面から響いた怒号に、男は急停止した。

 視線の先には、白銀の甲冑を纏った二人の騎士が立っていた。手にした紐付きのサーベルは、すでに男に向けて抜かれている。

 足を切り返そうとしたが、次の瞬間、背後の路地からも別の騎士たちが姿を現した。

 あっという間に周囲を囲まれた男に、両手を挙げる以外の選択肢は無かった。


 ■ ■ ■ ■


 騎士たちに連行され、男は空き地まで連れ戻された。甲冑を鳴らす騎士に囲まれた黒装束が、白銀の人だかりの中で一際目を引く。その様は一見、荘厳な修道士の教祖の凱旋にも見えた。

 戻った先の空き地には、複数の騎士が立っていた。テントを検分している集団の中から、一人の女性騎士が歩み出る。一歩踏み出すごとに響く金属の音は、『正教会』の聖歌隊のハンド・ベルを連想させた。


「我々が、誰だか分かるか?」


 甲冑越しの声は、冬風に冷え切った金属よりも冷たい響きを帯びていて。


「......貴様らは『正教会』直属の憲兵隊だな。お前は隊長か?」


 モールを肩から垂らし、紅い裏取りのケープを纏った相手に、男は尋ねる。だが女性騎士はその問いを無視すると、話を続けた。


「我々の仕事は?」

「『邪教』狩り」

「事情は分かっているようだな」


 憲兵隊長はぞんざいに頷くと、さっと手を振った。配下の一人がそれに応えて、傍の裏路地へと姿を消す。


「密告があったのだ」


 そう告げると、まるで腐った果実でも検分するような態度で、彼女は男の周りをくるりと回った。


「昨日のライフ・デイで街に姿を見せたそうだな。我ら憲兵隊が出払っていたから油断したのか......あるいは『正教会』への挑戦か。畢竟どちらでも構わんが」


 パチン、と鳴らされた指の音と共に、消えた騎士が別の人物を伴って戻ってきた。


「――すまんな」


 それは、あのカンティーナのマスターであった。


「今朝早くに、憲兵隊が店に取り調べに来たんだ。隠し通すことも出来なくて」

「......良いんです。責めはしません」


 そうだ。これこそまさに、この世界での生き方。誰かを踏み台にしてでも生き延びなければ、次は自分が喰い尽くされるだけ。

 傍らの騎士がマスターに、ずっしりとした小さな布袋を差し出した。


「さぁ、店に帰るが良い。もうお前に用はない」


 マスターは特に感情を表に出すことも無く、静かに小袋を受け取ると、その場を去った。


「――では、我々も帰投するか」


 隊長の号令一下、入れ替わるように捕縛縄を持った一人の騎士が男に迫る。


「汚らわしい異端者め」


 軽蔑を込めた声が、甲冑の奥から響いた。


「『正教会』の栄光と神の御名において、貴様を逮捕する」


 男はついに観念すると、為されるがまま騎士の手に身を委ねようとした――

 と、その時。


「待って!」


 不意に、凛とした声が路地に響いた。あたかも悪に満ちた世に響く、清らかな救済の音のように。


「何者だ!」


 騎士たちが奇襲を警戒して、一斉に武器を掲げた。極限まで張り詰める緊張の中......裏路地から一つの影が、小さな子供の影が姿を現す。


「おにーさんは悪くない、そうでしょ?」

「ネヴィ......どうして」


 見つめ合う二人の視線が、閉じた世界を作る。そうだ、この子はまだ幼い。いくら利口ではあっても、所詮まだ子供なのだ。


「ねぇみんな、おにーさんは悪くないんだよ?」


 突然現れた無垢な少年に、騎士たちの間にも困惑が広がる。だが先程の憲兵隊長が、真紅のケープを翻して前に歩み出ると、腰に手を当てて少年を睨めつけた。


「邪魔だ、少年。そこをどけ」

「いやだ」


 短く拒絶の意を示すと、少年は男の方に歩み寄った。

 隊長が、鋭く舌打ちをする。


「無辜の子供を誑かしていたとは、何とも『邪教』らしいやり口だな。ならば仕方がない......この少年を保護するためにも、『邪教徒』はこの場で殺すのが得策だ。構え!」


 放たれた命令と共に、憲兵隊が一斉に銃剣を構えた。

 空気が張り詰め、少年の目が恐怖に見開かれる。


「狙え!」


 引き金に指をかける音が、不気味なまでに大きく響いた。


「おい――」


 ここで遂に、男が動きに出た。

 背後から素早く少年の身体に腕を回した彼は――しっかり抑え込んだネヴィの喉元に、鋭利なナイフを押し付けた。


「全員下がれ! これ以上近づくな!」


 男の声が響く。


「さもなくば......この少年を殺す!」


 仮面の下から覗く目は、ギラギラと狂気じみて光っていた。それはまさしく、狩人に追い詰められた鳥獣と変わらぬ目であった。


「っ!」


 憲兵隊に一気に緊張が走る。だが騎士たちは銃剣を下ろしはせずに、ゆっくりと間合いを測り始めた。

「貴様ッ!」


 隊長がそう吐き捨てると、自分のサーベルの柄に手を掛ける。


「生きて帰れると思うなよ......!」


 ――だが、その声は男に届いていなかった。

 その時の男は、まさに『スコール』だったからだ。


「ネヴィ......」


 しゃがんだ体勢のまま、彼は少年の耳朶に囁く。その首に押し当てたナイフはまさに今朝、男が少年のためにジャーキーを刻んだのと同じナイフだった。


「すまない、本当に......これまでの全て......」

「おにーさん? いや、僕は『邪教徒』を......信じてた」


 だが、答えた少年の声に、感情は籠もっていなかった。


「おにーさんは、普通の人とは違うって思ってたんだ。僕を逃してくれたし、自分のために人を巻き込むような人じゃないって。僕、馬鹿みたいに信じてた」

「ネ......ネヴィ?」

「もう、終わりだよ。おにーさん自身も、僕との関係も。何もかも、もう終わりにしよう。だっておにーさんは......」


 震えるナイフに小さな手を添えると、少年は一言。


「ちっぽけで卑怯な、嘘つきだったんだから」


 キン、と音を立てて、ナイフが地面に落ちた。

 少年は男の腕を逃れると、ゆっくりと、決して焦るまでもなく騎士たちの方へ戻っていく。彼が十分離れると同時に、騎士たちが素早く男を取り押さえた。だが男は抵抗もせずに、縛り上げられるがままとなっていた。

 男は心の臓を刃で抉られたかのように感じていた。声が出せず、息が出来ない。空気が遠い。苦しい、苦しい、苦しい......。


「正直、ここまで手を掛けさせられるとは思っていなかった」


 憲兵隊長がそう言うと、しかし満足げに歩み出る。男は呆然と相手を見上げ、そして遂に悟った。

 私はもはや奴らと同族だ。自分の利のため罪無き者を傷つけ、今まさに一人の少年の心を壊した。


 私は、自分が憎んだものに成り果てたのだ。


「本来ならば、厳正な裁判を経た上で神の裁きを下すのだが......」


 そう言った憲兵隊長は、さり気なく周囲を見回した。


 騒ぎを聞きつけたのか、あちこちの路地の曲がり角、廃屋の壁に空いた穴、目立たない隅の暗がりから、大勢の貧しい者たちが、震えながら事の成り行きを見守っている。


「――やはり、この場で始末したほうが良さそうだな」


 隊長のサーベルが抜かれると、周囲から小さな悲鳴が上がった。

 彼女は男の前に跪くと、その喉元にサーベルの刀身を押し当てる。


「これが最後の質問だ。最も効果的に、下賤な者どもを支配する方法が分かるか?」


 男は顔を上げたが、その首は縦にも横にも振られなかった。


「それはな、一人を殺して百人を震え上がらせることだ」


 刀身の圧力が高まる。ゆっくりと喉に血が滲む。息が、出来なくなる。


「――だが思い返せば、まだやるべきことが残っていたな」


 しかしその刹那、隊長はふとサーベルに込めた力を弱めると、男の仮面に視線を落とした。


「確か『邪教』の教義では、人前に顔を晒すことは禁じられていたな?」

「!」


 男の身体がビクンと跳ねた。死に際に際してさえも、教義は彼の全てだったのだ。


「ならば死ぬ前に、悪魔の顔を青天の元に晒してみせろ!」


 男が抵抗する暇もなく――いともあっさりと、仮面は引き剥がされた。


「!」


 突然の衝撃に、男は瞠目する。

 だが、衝撃を受けたのは男だけではなかった。

 何ということだ。

 畢竟、全ては教義の示す通りなのである。この世の遍く事物は、どれだけ離れていても強く繋がれている。

 撥ね飛ばされた仮面が、地面に転がってカタンと乾いた音を立てた。だが二人とも、身動ぎもしなかった。

 そうとも。男は思う。そうだろうとも、一つの教義の解釈は色々ある。そして同時に、一つの夢の解釈も色々あるのだ。

 サーベルは震えていた。甲冑越しの騎士隊長の目は、驚きと混乱に揺れている。その澄んだ瞳――この国では珍しい青の瞳は、今まさに曝け出された男のそれと瓜二つだった。


「兄さん......」


 甲冑の奥から、かすれた声が絞り出された。

 そこにいたのは、かつて男と袂を分かった少女の未来だった。

 ガチャンと音を立てて、サーベルが地に堕ちた。その残響だけが、いつまでも路地裏を満たしていた。


             

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