第26話 少し、距離を置く?

 昼休みの屋上で、相変わらず秀は猫のように丸くなってアスファルトに転がっていた。

 知らない人が見たら驚くだろう。身動きひとつしない。

 僕はそれにすっかり慣れているので、秀のすぐ隣に⋯⋯いつも通り、すとん、座った。くしゅん、小さなクシャミが出た。


 秀が物憂げに僕を見上げ、両手を差し出した。僕はその手を引っ張って立たせようとして、見事に引っ張られ、気が付いたら秀と同じ姿勢、ふたり、向き合って転がっていた。


「ごめんね、今日、弁当ないんだ。代わりになるものはコンビニで買ってきたんだけど」

 昨日の夜はそれどころではなかったし、今朝もそれどころじゃなかった。とても弁当を作る余裕はなかった。

「いいよ、気にしなくて。元々ないものを純ちゃんが用意してくれてたわけだし。ボクはあんまり食べなくても今まで問題なかったし。

 それより当面の問題は、この寒さだね。風邪、引かせちゃうよ」


 いつも通り、やさしい秀に僕は何も言えない。僕がくるまっていたストールを、秀の手が襟元を寄せる。

 ⋯⋯暖かい。気温の問題じゃない。秀は暖かい。


「考えたんだよ、これでも。

 やっぱり屋内じゃないとってなるとさ、ベタに倉庫も空き教室も、掃除してなくて純が埃っぽくなったらかわいそうだし。それにそういう場所はもう、誰かに占有されてそうだしね

 どこかいいとこ、ないかなァ。ボクみたいなのがいても許されるところ」


「なんか卑屈」

「⋯⋯なんか今日、いつもより女の子っぽくない?」

「え? どこが?」

 心臓が鼓動を速める。

 唇に秀の親指。

 どこまで逃げ切れる? どこまで知られずに済む?

 ⋯⋯どうして、秀じゃダメなんだ? どうして秀には言えないんだろう?

「いつもの、男の子っぽく振る舞うかわいい女の子の純もギャップ萌えだけど、女の子っぽいかわいい女の子に文句はないよ。かわいい」


 ドキドキが高まる。

 ヤバい。あんなことがあった後でも、やっぱり秀は魅力的で、女の子だったら誰でもこんなこと言われたら鼻血ものだろう。


「風邪引くよ」

 ふたり起き上がって、背中から抱きすくめられる。秀の心臓の鼓動を、背中越しに感じる。

 ドクン、ドクン、⋯⋯その音はわりと力強く、乱れることなく脈打っていた。

 ドキドキしていつまでも慣れないのは僕だけだったみたいだ。


「純、振り向かないで」

 僕は頭を動かそうとすると、ダメ、とやさしく叱られた。なのでそのまま俯きがちになる。

「髪、また少し伸びた」

 うなじの匂いを吸う。⋯⋯変態か、と今までなら怒っていたところだけどされるがままになる。

 僕ら、もうダメになるのかなと、自分のせいなのに頭の中で考えがまとまらない。

 好きだと思った気持ちは嘘じゃないし、身体だって。このまま続けば僕はそのうち秀のものになるんだと思っていた。疑問も抱かずに。


「おとなしいね、女の子の匂いがする。乱暴にするのはあんまり趣味じゃないんだけどさ、純って男の子っぽくしてるところが虚勢を張ってるみたいで、逆に加虐性を刺激される。

 めちゃくちゃに虐めてみたい気分になる時もある。わかる?」


 言ってることがいつもとは真逆で、どんな風に受け取っていいのかわからない。

 僕は素直に「わからない」と言った。

 それはわからないけど、さゆりんと打ち合わせた例の台詞を、今、言わなくちゃいけない。

 いいタイミングを見計らって、一息に。

 でもタイミングってさ、何? 意味ある?


「いいよ、言って?」

 僕はまた後ろを向こうとした。秀はそれを許さないように僕を強く抱きしめた。

「え? なんで?」

「いいよ、言うことあるんでしょ?」

 すん、否定はできない。

 俯く頭が重い。

「あのさ⋯⋯僕たち、少し」


「ごめん! やっぱりちょっと待って! 男らしくないって思われてもいい。でもさ、ボクの中で純ちゃんがすごく大切になっちゃってて、それは想定外で、とにかくもう少し、もう少しだけ、ボクを見てよ。ダメ? ⋯⋯ボクだけじゃなくてもいいからさ」

「秀――?」


 秀は僕を離してくれそうになかった。僕はそれを仕方ないこととして受け入れた。

 始業の鐘がなるかもしれない。貴史は驚くかもしれない。事情を知るさゆりんだって。

 でもこれもまたきっと、どこかで決まってた約束事のようなもののひとつなんだろう。

 神様の気持ちはわからないからなァ。


「こっち向いて」

「授業は?」

「いいからさ」

 僕は言われた通り、秀の方を向き、覚悟を決めてこの前みたいに彼に跨るようにしゃがんだ。

 やさしい指が僕の頬を両手で包んで、僕たちは甘い、これ以上ない程甘いキスをした。


 唇が重なり、離れ、重なり、⋯⋯数えても意味はない。僕にそれを教えてくれた、その唇。存分に自分を差し出して、味わってもらう。

 こんな僕でいいなら。

 二股、できなくもない。今までとあんまり変わらないだけで。

 秀を、独りにしたくない。出会った時から思ってたじゃん。


「急に上手くなったんじゃん? なんてね。ボクは意地悪だ。ねぇ、どこならまだ触られてないの?」

「秀、待って!」

「少しずつ進もうって、ボクは自分にブレーキかけてた。純との関係は他の子との関係とは違うんだって思って。

 僕の見た目とか評判とかそういうので寄ってくる女の子たちは皆、すぐ先に進みたがって、僕を縛りたがるくせに、自分は縛らせない。

 純は僕から見つけた。まるでどこからか急に現れたみたいにさ、視線に飛び込んできたんだ。こんなかわいい子、知らなかったなって。⋯⋯僕のものでいなよ」


 男の子の涙。

 自分だってそうだからよくわかる。

 いっぱい我慢して、我慢できなくなった時に決壊しちゃう。恥ずかしいのに。


「今なら知らなかったことにするからさ、僕のところにいるって言って」


 涙に濡れた瞳は真剣そのもので、心を揺るがすのに十分だった。

 僕はかわいいピョン太がそばにいない秀を、ずっとかわいそうだと思っていた。お母さんに置いていかれたことを素直に話せない、不器用な秀の気持ちを抱いてあげたいと、そう⋯⋯女の子のように思ってたんだ。

 思い上がりも甚だしくないか? そんな、同情なんて。癒してあげようとか、慰めてあげようとか。


「純⋯⋯友だちでもいいよ」

 僕は深呼吸するみたいに、思いっきり呼吸した。

「秀はさ、例えば⋯⋯例えば僕が本当に男だったとしたらその時」

「その時こそ友だちでいられる。友だちなら、別れる、別れないもないし、いい距離感でいられると思うよ。⋯⋯その、純が男になるっていうのはちょっと抵抗あるけど、でも、そうだなァ、どうかな?」


 秀の好きな青空はそこにはなかった。

 どんよりと淀んだ雲が空を覆って、僕はいっそ、雪が降ればいいのに、と訳もなくそう思った。

 そうだ、それで暖かい部屋でふたり、もっとよく余裕を持って話し合えたら――。


「想像力が不足してる。純が男になるっていうのは想像ができないよ。ボクの知ってる純はさ、男っぽくいくら振舞っても、かわいいマショマロみたいな甘い女の子だし。女の子の部分なら、よく知ってるけど。

 それじゃあダメなの?」

「よくわかんないんだけど⋯⋯正直僕もよくわかんないんだよ。ただ、なんかさ、笑えるんだけど女じゃなくなっても構わないって変態が」

「ああ、そこ。そこが大事なポイントなの?」

「かもしれない······。でも、秀のことは好きだし」

「決めたの?」


「⋯⋯少し、距離を置く?」

 ここに来て僕はさゆりんに教えてもらったその、少し狡い呪文を使った。

 秀は少し傷ついた顔をした。

 僕の方から主導権を持つような台詞が出たことに驚いたのか、秀の提案に頷かない僕に失望したのか。

 秀は「わかったよ」と言った。




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