第17話 僕とボクの境目

 唇を割って入ってきたそれは、僕を強引に引っ張り出そうと執拗に追いかけてくる。

 いやいや、そんなに追いかけられたらすぐに捕まっちゃう。何しろ僕は、ひ弱な女の子なんだ。

 ⋯⋯その心の声が聞こえたのか、秀は一度、出て行った。

 心臓は激しく運動して、呼吸が辛い。

 額に汗を感じる。蒸し暑いのかもしれない。


 僕と同じように苦しそうな秀は、目が合うと、おもむろに口を開いた。信じられない、その一言は驚きのあまり、口から出なかった。

「ボクの方を向いたまま、ボクの膝の上に座って」

 ないよ、ない! そう思っても頭の中がまだごちゃごちゃで、さっきまでの余韻を消すのは難しくて、口を開けたまま、ぽかんとアホ面を晒してしまう。


 そんな僕を見て、秀は笑いながら僕の両手を引いた。

 僕は導かれるまま、秀の膝の上に跨るように座り込んだ。男の太ももは、やっぱり堅い。ひょろく見えるけど、そこにはしっかり筋肉がついてる。


 僕はこれから起きることを想像して、いや、これはただの嫌がらせ、つまりお仕置の一環だろうと踏んだ。

 きっとすぐに離してくれるはず――。


 ◇


 秀は僕の目をじっと、強く見つめると、目を瞑ってさっきより早く唇を捉えた。

 うわっと思ったけど、防ぎようがなかった。

 コイツ、衝動だけで生きてるんじゃないの、と思うくらい今度は強引で、僕の頭は段々、思考能力が低下していく。蕩けるって、こんな風? 脳内がバター状の物質で満たされる。

 これ以上、こんなことを続けてたら、ヤバいって――!


「!?」


 僕には、こんな時に困ってしまうはずのがなかった。

 え、なんで?

 こんな風になっちゃったら、困るだろう? その、気持ちの行き場所はそこなんだから。

 あるはずの物が、ない。どこへ行ったんだろう?

 代わりにお腹の下の方がムズムズして、何とも言えない。

 え、どこ? なんで?

 性的欲求の進む先が見つからない。


 なかったはずの胸の膨らみに、気が付いたらもう少しで秀の手が届こうとしていた。

 違う、それはオプションで付いてきたようなものであって、秀の思うような⋯⋯。

 僕は消失したそれを求めて、慌てて見つけた。

 秀は僕の腰の辺りに片手を回したまま、少し顔を離して奇妙な顔をした。


「純ちゃん、もしかして初めてじゃない? いや、初めてじゃなくてもそういうことはあるかもしれないけど。でもさ、そんな風に触られるとさ」

 僕は僕にあったはずの物を、そこに見つけた。その膨らみは、触れると熱かった。

「あ、ごめん! なんか、なんとなくっていうか、手が自然にっていうか、あ、初めて、だよ。勝手に触ったごめん」

 そうそう、そこが多分、重要。


 秀は少し口を開かなかった。

 何かを考えてる。

 そうしてるうちに、『待ってる』という気持ちが高まってきて、自分でも「え!?」と混乱する。

 ――してくれるのを、待ってる。

 いやいや、勇気を出して手を差し出すのは僕の方じゃないのか? 続きは続き。突き放される心配は少ない。思い切って、自分から。


「ダメだよ」

 んん、と強引に頭を引き寄せられ、キスは深みを増す。また気持ちが昂る。

 ああ、ほら、身体は覚えてる。どの身体なのかはもう関係なくて、そっと秀のそれに触れると、何だか満ち足りたような、もっと欲しいような、不思議な気持ちになる。

 おかしなことにこんなに多分いやらしいのに『悪いこと』をしてるという意識はあまりなくて、手の中の感触が温かく、自分を触ってるようだ。


 秀が僕の胸を下から支えるように持ち上げ、ちょっと遠慮なく掴んだ。

 僕はそれに反応して秀のそれをギュッとした。

 秀は僕の掌に反応して、身体がビクッと軽く痙攣する。

 どこまでが僕で、どこからが秀なのか。

 僕の意識は混濁して、我慢ができない。手を離せない。その輪郭をなぞると、秀は「ん!」と言って息を切らせながら僕の両肩を掴んで、僕の身体を離した。


 秀は、息が整うまで肩を上下させて、僕から視線を逸らした。

 僕は初めての恍惚とした感情に支配され、それに溺れてしまいそうだった。

 こんな気持ちになるなんて、なんだこれは? これがってことか?


「純ちゃん、男兄弟がいるっけ?」

「うるさい姉ちゃんがいる」

「⋯⋯いやらしいな。本当に初めて?」

「びっくりしてる」

「ボクの方がびっくりだよ! ちょっと意地悪してやろうと思ったのに⋯⋯」


 今度はやさしく抱きしめられた。

 さっきまでの激しさはない。

 秀の気持ちは収まったのか、それとも今、収まるのを待っているのか、どっちにしても大変に違いない。

 触って、もっとその先まで行ってみたい気もするけど、よくよく考えたらそれは僕の物ではなかった。⋯⋯遠慮しておくことにした。


 ◇


「ねぇ、こんなに早く進んで大丈夫なの?」

 やさしく耳元で囁かれて、ふわっとした気持ちになる。天井に手が届きそう。

「早い?」

「想像の斜め上。だって絶対、拒否られてどつかれると思ってたから」

「⋯⋯そうかな? そんな感じじゃなかったじゃん。その、始めから本気っぽくて」

 僕は今更、恥ずかしくなって下を向いた。

 ぎゃー、赤くなるな。どんどん熱が顔に上がる。


 不意に頭が理性を取り戻して、今の出来事を巻き戻す。

 ⋯⋯やっちゃった! 普通の女の子はしないこと。


 ずーん、地下深くまで強力な重力で沈みたい。

 女の子として、僕は秀のしたことにきちんと反応したんだろうか?

 あやふやだ。

 誤魔化しきれない快感の渦に巻き込まれて、勝手に身体が求めるように動いたのはわかった。

 でもこんなの、女の子じゃない。多分、違う。

 僕に女の子を求めた秀は、がっかりしてるんじゃないか? 僕は両手で顔を覆った。


「純ちゃん⋯⋯続きはまだまだあるから、じっくり一緒に味わおうよ。焦らなくてもボクはいつでも隣にいるし。あのー、なんだ? 触りたいなら触っても構わないって言うのもなんだけど、もうボクひとりの物じゃないって理解した。

 今まで女の子のための道具だと思ってたけど、それは違うね。ボクと君との共有物だ」


「⋯⋯触ってもいいの?」

 変態か、僕は。でもそうしたい衝動が僕の背中を押す。

「うん、まぁ、いいよ。でもお手柔らかに。わからないかもしれないけど、あんまり我慢できることじゃないから」

 うん、と頷く。確かに我慢は難しい。

 それでも「いいよ」って言ってくれる秀はやさしい。


 そっと、秀が僕に触れる時みたいにそっと、できるだけやさしく手を伸ばす。

「そっちの方が余計いやらしいって。焦らされてる気分」

 あ、そうかも、と思い、自分のことのように触れる。あ、ダメかも。すごく脳の奥が痺れる。

「⋯⋯はぁッ」

 僕は小さくため息をついた。

 秀は僕の肩を強く握っていた。

「ああ、ごめん、ダメみたい。ごめん、ホント、こんなことして」

 手を離すと、秀は「はぁーッ」と、長く息を吐いた。


 しばらく待つ。

 肩を掴む手の力が緩むくらい。

 僕の心臓もシンクロしてバクバクしてる。同じ気持ちを共有している。

 今にも、昇りつめそうだったから。


「純⋯⋯」

 ぎゅうっと、巻き付くように抱きしめられて、秀の気持ちを理解する。辛そうだ。そして、そうしたのは紛れもない僕だ。

「ごめんなさい。もうしない」

「謝らないで。ボクはできるだけ、君との関係を長く続けたいと思ってる。だからあんまり煽らないで。挫けそうになる。

 ボクだって、君がうっとりしてるのを見ると、力づくでもって気持ちになっちゃうからさ」

「ごめんね⋯⋯」

「『ごめん』はいらない。ボクのものでいてくれれば」


 それはロマンティックで、エキサイティングで、ファンタスティックな出来事だった。


 鏡の中の僕に触れるような奇妙な経験は、身体の中にいつまでも仄かに燻り続けた。

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