第10話 ピンクは好きじゃない

「LINE交換しとかないと!」

 昼休みがあと少し、というところになって、秀はスマホを取り出した。

「スマホ、出して?」

 僕は、僕の趣味なんだろう、真っ白なスマホを秀に渡した。ホーム画面いっぱいにピンクの花。まったく女子の僕はどんな風に育ったんだか。

「うれしいなァ。あ、純ちゃんのアイコン、ピンクのクマだ」

「あ、それは!」

「いいじゃん、いいじゃん! ペットの写真よりずっといいって」

 ⋯⋯変えようと思ってて、忘れてた。


「秀はどんなの?」

「あれ、もう呼び捨てか。順応早いなァ」

「⋯⋯空の写真?」

「そう! 真夏の。空が好きなんだ。これはたくさん撮った中で一番青いヤツ」

 そう言って、空を遠い目で見つめた。そうだ、空は遠い、遠いところだ。


「一番青いから、たくさんあるアイコンからボクをすぐに見つけて」

 こくん、頷く。

 どうして秀にそんなに従順なのか、自分でもわからないけど、何となく放っておけない。独りにしたらこの人は、空の青に溶けて消えるかもしれない。

 本人がそれを望むのならいいけど――。

「ピンクと青、それもまたいい感じじゃない?」

 にこっと秀は微笑んだ。


 ◇


「ただいま」

 帰宅するとあの適当天使の姉ちゃんがいなかった。

 静かだ。

「姉ちゃんは?」

「綾はなんだか合コンとか言ってたわよ。年頃よねぇ。純はいつまで経ってもお姉ちゃん子よねぇ」

 母さんは台所でなにかをしながら、うふふと笑った。

 僕はわざと足音を大きく立てながら、階段を上った。姉ちゃんなんて、そもそも偽物のくせに!

 つーか、天使が合コン行くか? ないだろう、ない!


 ピンポーン、とドアチャイムが鳴って、はーいと小走りに母さんが応対する声が聞こえた。

 宅急便かな、と部屋に入って荷物を下ろした。

 リュックを背負っていた背中が汗で気持ち悪い。汗をかくのは同じはずなのに、いつでも爽やかな顔をして笑ってる秀はなんでなんだ?

 モテる男ってのは、よくわからん。


 ◇


「純! 貴史くんよ」

 ピョンと飛び上がりそうになる! 何の心の準備もないのに。そもそも着替え途中だし、ブラまで汗で湿ってるっつーのに!

「⋯⋯着替えてるから待ってて」

 中で待ってなさいよ、とほぼ強引に貴史はリビングに通されたらしい。

 ど、どうしよう? とりあえずシャワーを浴びる暇はなさそうだし。

 リュックの中をごそごそ探る。

「あげる♡」と姉ちゃんがくれた汗ふきシート、なるほど、こういう時に使えるのか!! さすが天使、ナイス!


 Tシャツにハーフパンツで階下に向かう。

 僕が丁度、下りきった時、リビングのドアが開いた。

「貴史くん、ご飯食べてくでしょう? 純の部屋で話でもして待ってて」

 おいおい、年頃の娘の部屋に男を入れるのか? 恐ろしい母親だ。

 貴史は「ありがとうございます」と言って、僕の方に向かってくる。

 僕は階段を早足で上がって、部屋のドアを開けた。


「久しぶりだな」

「そうかもねぇ」


 何だか落ち着かなくて、くまを抱きしめて床に座った。床には大きなクッションがある。身を埋めるようにしてそこに陣取ると、貴史は僕のベッドに腰掛けた。

 ⋯⋯。

 話は弾まない。

 一体、何のために来たのかもわからない。


「学校だと話せないから」

「ああ」

 そういうこと。確かにふたりで話すのは難しい。

 周囲の目がある。貴史は落ち着かない様子で、天井を見上げたかと思うと、俯いた。

 言葉を探してるんだな、と黙って待つ。貴史の言葉を待つのは得意だ。

 いつものことだ。


「櫻井はいいヤツ?」

「多分? いまのところは」

「そっか」

 まだ顔は上がらない。目と目が合わないので、気持ちがわからない。

「それならいいんだけど、あんまり評判良くないし、心配した。杞憂ってやつだな」

 はは、と軽く笑ったけど、全然、納得したようには思えなかった。


 くまの頭に顎を乗っける。

 僕の方を、不意に貴史は見上げる。なんだよ、とドキッとする。


「懐かしいな、そのくま。いくつの時だっけ? 誕プレ。まぁ、俺があげたって言うより、親が買ったんだけど」

「選んでくれた?」

「⋯⋯選んだよ? 純は男っぽく小さい時から振舞ってたけど、ピンクは大好きだろう?」

 複雑な気持ちになる。

 そうかもしれないけど、それは貴史の知る純で、僕は世界線の違う純だ。

 ベッドサイドにくまを置いてた、もうひとりの純の気持ちを考える。


 誰もが見ることになるアイコンにまで使うなんて、どんな気持ちだったんだ?

 少なくとも、貴史といる毎日が楽しかったに違いない。

 でも僕たちは付き合ったことはないし、ただの友だちのまま、ここまで来てしまった。

 僕は⋯⋯だって、僕は今まで男で、貴史のことをそういう目で見たことはなかったし。


 気まずい。


 そんなの理由にならないじゃんって、もうひとりの僕が言ってる。

 秀と付き合い始めたのは僕だ。元男だった方の。

 向こうからほぼ無理やりとは言え、そこで選択したのは僕に違いない。


「あのさ!」

「ん?」

「あのさ。確かに櫻井と付き合い始めたけど、でもまだお試しだし、別にそんなに僕が本気とかそんなんじゃないし、きっと僕のことなんかすぐに飽きると思う。

 だって貴史が一番知ってるじゃん? 僕は男っぽくてガサツで、理想の女の子みたいのとは全然かけ離れてるってこと」


 貴史の目は何も語らなかった。

 僕の話をとりあえず、耳に入れた、そう思えた。

 ますます気まずい。


「中学の時みたいにまたすぐ振られちゃうよ。僕、なんにも気が利かないから、貴史みたいには」

「そんなことない。純にはいいところがたくさんある。卑下しなくていいよ。

 ――隠そうとしても、隠しきれてないんだよ。純は誰から見てもさ、かわいい女の子だ。俺が言うのもなんだけど」


 ポップコーン! 心の中でポップコーンが跳ねるように、何かが弾けた。

 そして胸の中はぷしゅーとしぼんだ。


「貴史は、僕のこと、女の子だと思ってるってこと?」

「当たり前だろう?」

「それってなんか狡くない?」

「どこが? 真実じゃないか」

「だって、だってさ⋯⋯」


 くまの頭上に涙がこぼれ落ちそうになる。

 苦しい。

 胸がギュッとなる。

 自分が男だって思ってもらえないからか?

 それともただ、友だちとして上手くいかないからなのか?

 ⋯⋯生き返るより前に、戻りたいからなのか?


 あのアホな姉は帰ってこない。

 僕がどこで何をしてるのか、全部知ってるみたいなこと言ってたのに。

 こんな時に帰ってこないから、査定が下がるんだ。


 貴史はぎしっとその身体の重みを感じさせる音を立てて、ベッドから立ち上がると、僕の前にしゃがんだ。それから僕の頭を一撫でして「こういうの、やめなきゃと思ってたんだけど」と注釈を付けた。

 目の前にある広い胸はよく知ったもので、そのまま飛び込んでしまいたくなったけど、やっぱり一線は越えられなかった。


 くまが、苦しそう。

 貴史はどこか通じたのか、僕の手から、くまを取り上げると僕の隣に座らせた。


「僕は全然、女の子じゃないし、本当はピンクは好きじゃないし、それに」

「俺たちは変わらず友だちだ」


 言おうとしたことを先に言われただけなのに、ポーンと言葉のキャッチボールしてたボールを、届かないところに放り投げられた気がした。

 届かない。

 僕が本当に思ってること。

 僕自身の手が届かない。


「純は、俺にとってどんな時でも一番大切な人だ。純のいない世界なんて考えられない。例え隣にいなくても、だ。

 櫻井がいても、それが他の男だとしても、俺にとってお前が特別なんだ。だから――安心して、何かあったら呼んでくれればいい。いつでも助けられるように待ってるから」


「それってさ、なんか、告白みたいに聞こえるんだけど」

「かもなァ。でも、『好き』っていう気持ちと『大切』って気持ちは多分、違うんだ。『好き』なんて簡単な言葉じゃ⋯⋯」


「ストーップ!!」

 ドアがすごい勢いで開けられて、僕も貴史も飛び退いた。姉ちゃんだ。天使、遅ッ!

「ご飯だってよ! ほら、早く早く! あー、お腹空いたしィ」

「姉ちゃん、合コンは!?」

 ジト目でこっちを見てくる。なんなんだ?

「バカ者が!!」


 僕のせいなのか?

 納得がいかないんだけど⋯⋯テーブルに着くと、姉ちゃんは「んー、美味しい♡」とハンバーグを口に運んでいた。

 母さんは「アンタもたまには手伝いなさいよ」と言って「えー、純がいるじゃん。不公平」だと口答えした。

「嫁の行き手ないわよ!」

「そーゆーのってさ、流行んないよ、マジで。母さん、古くさ~」

「古い人間だから、アンタの食べてるぬか漬けがそこにあんのよ!」


 母さんと姉ちゃんのお陰で、食卓で無理に喋る必要はなくなった。貴史には不幸かもしれないけど、僕は姉に感謝した。

 重い空気はもうたくさんだ。

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