第5話
老女の言葉をこれ以上待っても無益だろうと菊田は見切りをつけた。そもそもロカイダルとはなんであるのか、菊田にわからないのと同様、老女も知らないのが当然と思われた。ならば彼女と話しつづける意味は菊田にはなかった。にもかかわらず、老女はいっこうに菊田を離そうとしないのだった。
「母さん」
とうしろから声が聞こえてきたとき、菊田は思い切って改札をくぐるか、それとも難癖をつける男の方へ戻るかまだ決めかねていた。彼の利を思えば明らかにすぐ会社へ向かうべきではあったのだが、ロカイダルがなにを指すのか、なぜそれを自分が殺したとされるのか、すべてを未解決のまま振り捨てるのには、なにか消化しきらないものを腹に残すようで気持ちがわるかったのだ。
「母がなにかご迷惑をおかけしましたか?」とまた声がした。
振りかえるとそこにいたのは、四十がらみの長身の男だった。菊田と目が合うと頭を下げたが、それは挨拶なのか詫びを入れるのか判断に迷う程度に、首から上だけひょいと下げたのだった。
「母はすこし頭がよわってましてね。なにかいったかもしれませんが、どうぞお気になさらず忘れてください」
どうやら彼は、老女の息子であるらしかった。老女が彼になにかいおうとするのには取りあわず、まっすぐ菊田に向かっていった。
「それからもし失礼なことをいっていたとしても、老人のいうことですからどうぞ大目に見てやってください、なにしろ頭がよわっているものですから」
「いやたいしたことではありませんよ。もちろん失礼などということもありません」と菊田は答えた。
それはむろん社交辞令であったが、いまさらこの老女につかまって会社に行きそびれているなどと文句をいっても詮ないことだし、それならばさっさと切り上げ改札をくぐる方がよほど有益だと思われた。
「なんでもないのです」と菊田はいった。「お母さまのご健康をお祈りしますよ、いつまでもお元気であられることを。足はどうやらぴんぴんしておられるようだから、だいじょうぶでしょうね、いや本当に、お元気であらせられますよう」
菊田の言葉に安心したのか息子の表情はやわらかくなった。彼は腰のあたりまでしかない老女との身長差を埋めるためひざを曲げてかがんだ。
「さあ母さん、帰ろうか」
そうやって手をとろうとしたのだが老女はゆっくり首を振った。
「それがねえ、一郎。あたし、ロク……」とそこでいいよどんで、二秒ほど静止したあと、「ロクイドリを殺しちゃったらしいの」とつづけた。
「母さんが?」
「どうもそうらしいのよ」
「なん……」息子の唇はこまかくふるえて、うまく言葉がつながらなかった。「なんてことだ、だから、勝手に外に出てはいけないってあれほど……いやまったく、なんてことだ」
息子はほとんど理性をうしなってしまったかのように激しく身悶えして唸った。老女はまた謝った。
「ごめんなさいねえ。あたしもちゃんとおぼえちゃいないんだけどそのロクイドリってのを殺しちゃったなんてねえ」
人を待たせることをなんとも思わない者に特有の、きわめてのんびりした口ぶりで老女はいうのだった。彼女の両肩をつかんで揺らさんばかりの息子はおそらく早くつづきをと促しているのだろうが、その意図が老女には伝わったようには見えなかった。
「でもこのひとがいうんだもの、やっぱりあたしが殺しちゃったんだろうと思うわ」
と老女が指さした先では、菊田が会話にはほとんど耳を傾けずに、ただ改札機が人をさばく様子ばかりを気にしていた。その菊田の注意をこちらに向けさせるのが申し訳ないというかのようにタイミングを見計らって、息子が横から声をかけた。
「すいませんその、母がたいへんなことをしてしまったようで……あなたのロクイドリを――」
「いや、ロカイダルです」
「はあ……そのロカイダルを母が」
そこで息子は言葉を途切らせ、目をそらせた。小刻みに足を揺するのだが、その動きにつられて足もとに群がるアリたちが右往左往した。
「あたしが勝手に外に出たのがいけなかったの。ごめんなさいねえ、ほんとうに」
言葉とともに、彼女のたるんだ頬がふるえた。それがいましがたの息子の唇のふるえていたのとおなじ調子で、妙なところでやはり母子なのだと菊田は感心した。
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