第4話


 もう改札のすぐ手前まで来ていた。駅員の刺すような視線も菊田の歩みを止める力はもたなかったが、かわりにその歩みを止めたのは、切符を改札に通すことができないで立ち往生している老女だった。

 ここまでずいぶん時間を浪費してしまったうえに、改札の前でもふたたび手間取ることに菊田は苛立ち、その思いは舌打ちとなって外にあらわれた。その音がとどいたのか老女は振り向き、菊田を見た。じろじろ見つめるのはきっと知人ではないかと記憶を手繰っているのだろうが、むろん菊田は彼女を知らないし彼女も菊田を知ろうはずがなかった。見れば彼女の右のおや指と人さし指のあいだで切符はくしゃくしゃになっており、これでは改札を容易に通らないのも道理だと思われた。

「ごめんなさいねえ、この機械が」と老女はゆっくり言って、うしろの機械をゆび指した。「言うこときかないものだから。あたしが年寄りだからいけないのかもしれませんねえ、機械ってのはどうも年寄りには不親切みたいで。人間だったら逆で、年寄りにはたいてい親切にしてくれるから、いつも感謝してるんですけど、機械はねえ。駅員さんだったらよかったのに、どこ行っちゃったんでしょうねえ」

 彼女の求める駅員は事務所の奥からこちらを見ているのだが、出てきて老女を助けようというようすは一向になかった。してみると人間にしてもたいして親切とは言えないようだと菊田は思った。

「ところであなた、」と老女は菊田のうしろへ目をやり、「あのひとが御用があるみたいですよ、ほら、なにか言っているのはあなたを呼んでいるのでしょう?」と言ってほほ笑んだ。

 菊田はまた舌打ちした。言いがかりをつけてきた男は菊田を追いかけてはこなかったがかわりに、ずっと菊田へ向けなにやら言いつづけていて、いまはほとんど叫ぶほどの大声になっていた。その言葉に意味があるとは思えず、無視すると心に決めた菊田はいつしか男の声を蝉の声と同様頭から排除することに成功していた。このままあと一歩で改札を通れば正常な日常に戻れるはずだったのだ。

 それが老女のもたつきと余計なひとことで、ふたたび男の言いがかりに自分が捕捉されてしまったと、いまや認めざるを得なかった。この期に及んで老女を押しのけ改札をくぐり立ち去るのは、越えがたい難事であると思われた。男の言いがかりはまったく身に覚えのないものであるのだと言明し、自身の正当性を大声で主張するのはこのときを措いてはなかったのかもしれなかったが、釈明を試みること自体がさらなる時間の浪費を伴うものであって、けっきょくこの不愉快な蜘蛛の巣のなかでの足掻きなのだった。

「お話ぐらいは聞いてさしあげたらいかがかしら」と老女はいった。

 前後の事情を知らない者が半端な理解で口を挿むのは、菊田の最も憎むところだった。とはいえ尋常であればそんな感情を表に出すはずないのが、このときは苛立ちのままに口をひらいてしまっていた。

「お話ですって? これ以上にお話を聞けとおっしゃる? わたしがさっき、どれだけ我慢してあの男の与太話を長々聞いてやったか、あなたご存知なんですか? わたしは忙しいんです、あなたや、あの男とはちがうんです、世のため人のため毎日たたかっているんです、もはや一刻の猶予もなく事務所に出てすぐ敵を叩きのめさなければならない、まったくあなたがたとはちがうんです、ほら、そんな目で見ないでいただきたい」

 一気にまくしたてたところで菊田は我に返った。老女が目をおおきく見ひらいているのが見えたが、その表情はむしろほうけているとでもいうべきもので、彼女の胸中は窺えなかった。

「それにしてもやっぱり」しばらくおいて老女が言った。「お話ぐらいは聞いて差しあげたらいいのにねえ……と思うんですよ」

 また呶鳴りたくなるのを菊田はかろうじて自制した。菊田のほんとうの敵はこの老女ではないのだし、おそらく彼女にはなにをいっても通じないだろう。

「ロカイダルを殺したのはあなたなんですか?」

 菊田がこう聞いたのに深い意味はきっとなく、ただ会話につかれたためだった。老女は首をかしげた。彼女の首の肉はすっかり削げ落ちまるで鶏の肢のようで、皮の下に浮き上がった筋が、首をかしげるのに合わせて動くようすは自転車のブレーキを制御する鋼のワイヤを思わせた。

「ロカ……?」

 自信なさげに老女はつぶやいたが、いつまで待ってもつづく言葉は出てこなかった。言葉のかわりに老女は扇子を布のバッグからとりだし、両手でつまんで左右にひらいた。筋ばった首元へ向け扇ぐとぱたぱたと心もとない音がした。朝から気温は上がる一方でしかも湿気が空気を重くし、彼女が着込んだ青い長袖の内側にはずいぶん熱がこもっているだろうと想像された。服装に関しては菊田も暑気に適応したものとはいい難く、さすがに上着とネクタイは外しているものの、ワイシャツの下はじっとり汗で蒸されていまにも湯気が立ちそうだった。


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