第42話

 夜中。

 唯志が寝入っているのを確かめて、俺はそっと部屋を出た。

 唯志を一人に……いや、あの人と2人にしておくのが心配で、泊めてもらったのだ。

 だが、目的はもう一つ。

 俺はテーブルの上の鍵を持ち、あの部屋へと向かった。

 あの人は、まだ起きていた。


「公一か?」


 部屋に入るなり、こう聞かれる。


「いえ……土屋純平です」

「ああ、純平くんか」

「お邪魔でしょうか?」

「いや。ご覧の通り、一人きりなものでね。話し相手には不自由しているのだよ、いつも」


 男性が近付いてくる。

 あの、穏やかな表情を浮かべて。


「しかし、こんな夜中に、どうしたんだね?」

「ちょっとお伺いしたいことがあって」

「何だね?」


 言うべきか。言わざるべきか。

 俺はしばし迷う。

 しかし、今を逃したらもう決して聞けない気がした。


「あの……土屋君子のことを聞かせてください」


 男性の驚いた表情。

 しかし俺はかまわず続けた。


「俺は、土屋君子の息子です」


 長いこと、男性は俺を見つめていた。

 そして、しばらくの後、あの穏やかな笑顔に戻って、


「そうか、それで……」

「何ですか?」

「いや、私は純平くんに君子を感じていたんだよ、初めて会った時からずっと。君は、お母さんにそっくりだ」


 その言葉に、驚く。


「君のお母さんは、自分に厳しい人だった。最後まで自分を責め続けて……ここで亡くなったのだよ」


 男性は、愛おしむような目で部屋を眺めた。

 俺は、もっと側で聞きたくて、格子の中へ入り、男性の隣に腰をおろした。


「君のお母さんと私はね、許嫁だったのだよ。しかし彼女は私ではなく、私の後輩を愛し、駆け落ちしてしまった。恨んだよ、君子を。しかしそれでも私は、彼女を愛していた。彼が亡くなり、彼女が実家に戻っていると聞くと、もういても立ってもいられず、彼女のお父さんに結婚を申し出た。そして、彼女と結婚したのだ。しかし、彼女は一度私を裏切った事でひどく自分を責めてね。決して私に心を開こうとはしなかった、最後まで。彼女が唯一心を許したのは、子供達だけだった。私は彼女を助けたくて……いや、違う、彼女の心をもう一度取り戻したくて、精神科の友人にも色々相談に乗ってもらっていたのだが、ついに私に心を開く事なく、この部屋で命を絶ってしまった。今ここにこうしていると、時々君子に責められているような気がすることがある。しかし、同時に慰められているような気もするのだ……」


 男性は、優しく俺に笑いかけた。


「純平くんがここへ来たのは、もしかしたら君子が呼んでいたからかもしれんなぁ。君子、ほら、君の息子が来たぞ。こんなに大きくなって」


 男性は、空に向かって呼びかける。

 俺もその視線を追いかけ、見えるはずのない母の姿を探した。

 遠い記憶の中の、優しい母の笑顔。


 ……純平……


 そう、母が呼んでいるような気がした。


「そういえば、君には一人弟がいたはずだが……憶えているかね?」


 何気ない一言に、心臓がハネ上がる。


 そうだ。この人は知らないのだ、唯志が母さんの息子であることなど。

 言ってしまおうか?

 そうすれば、もしかしたら。


「俺の、弟は……」

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