第32話

 フランクール王国を震撼させた新型のウイルスは、スルエタ帝国やザイドリッツ王国をはじめとする、周辺諸国にも広がり猛威を振るったが、ミュリエルが製造したポーションがウイルスの増殖を止めることに成功し急速に収束した。


 最終的にザイドリッツ王国では25万人の死者を出し、スルエタ帝国は最も被害が大きく1000万人以上の人が亡くなったことで、この流行を通称スルエタ流感と呼ぶようになった。


 フランクール王国は当初、国内全体で40万人以上の人が亡くなるだろうと言われていたが、30万人に留めることができた。死亡者数を抑えることができたのは、ミュリエルが提唱した栄養失調の改善、劣悪な衛生環境の改善も大きな要因になった。


 献身的な貢献を賞賛してミュリエルへ国から国家名誉勲章が授与されることになった。この国始まって以来8人目の勲章受賞者で、初の女性受賞者となる。今日はその式典が行われる予定だ。


 せっかくならモーリスとジゼルにこの瞬間を見せてあげたかったが、式典には貴族しか参加できなかったので、ミュリエルは少し残念に思った。


 悩んだ結果ドレスではなく、白衣で出席することにした。シンプルな白衣は元侯爵令嬢ではなく薬師なのだと体現していた。悔しそうに口を歪めるロベールを想像してミュリエルは愉快な気分になった。


「薬師ミュリエル、前に進みでよ」


 従者の合図でミュリエルは国王の前に進み出てひざまずいた。


其方そなたの貢献に感謝する。君を手放してしまったことは王室にとって大きな損失であるが、国にとって大きな利益となった。今後も国の為に尽力してもらいたい。期待しているぞ」


「国王陛下、勿体なきお言葉。有り難く頂戴いたします。幾久しくこの国の平和と繁栄をお祈りいたします」


 オーギュスト・ルフェーブルからミュリエルへ赤いリボンに吊り下げられたメダルが授与されると、式典に参加している貴族たちから拍手が巻き起こった。


 王城の中で行われている授賞式の様子は分からなかったが、トランペットの高らかで華やかな音が王城に響き渡ると、外で見守っていた庶民たちから歓声が上がり、王都パトリーを包んだ。


 国民は亡くなった人への哀惜と救われたことへの随喜に涙を流した。


 夜に行われるセレブレーションパーティーへ招待されてしまったので、ドレスを1着買わなければならなくなり、財布と相談していたミュリエルに、アンドレがドレスを送ってきてパートナーを申し出てきたが丁重に断った。元婚約者が買ってくれたドレスを着て元婚約者にエスコートしてもらったら、よりを戻したと思われてしまう。そうなれば外堀を埋められ薬師でいられなくなってしまうかもしれないとミュリエルは恐れた。


 モーリスとフィンがお金を出し合い用意してくれた——イエローとピンクとホワイトの花が散りばめられたライラック色のドレスを着て、ジゼルとギャビーが作ってくれたヘッドドレスを髪に飾り、シャンタルとイザベルが作ってくれたドレスグローブを手にはめて、ザイドリッツのニーブール伯爵令息であるフィンにエスコートしてもらって参加することにした。


 ミュリエルとフィンは今日の主役であるミュリエルのために王室が用意した豪華な馬車に揺られ、パーティー会場へ向かった。


「フィンさんはニーブールご出身なのですね」


「うん、ニーブール伯爵グライナー家の5男で、フィリップが本名だ。ニーブールは音楽の聖地なんだ。街中に音楽が溢れてて、毎日がお祭り騒ぎだよ」


「楽しそうですね。それなのに家を出られたのですか?」


「俺は5男だから、爵位の継承権もないし21の誕生日を迎えたら軍に入隊するしかないだろう?貴族の俺は軍人になったところで、実戦で戦うわけじゃないし、貴族子息として剣の修練はそれなりにやらされたけど、武家の出ではないから士官になる後ろ盾がない。そうなると文官になるしかないけど、ザイドリッツ軍に文官なんて腐るほどいるんだ。毎日何もすることなく日がな一日ぼーっと過ごすだけになるのが目に見えてるだろう?そんな無意味な人生を送りたくなくて、外の世界で何か見つけられるかもしれないって漠然とした考えで家を出てきたんだ。だから、ミュリエルが薬師になるために平民になったって聞いて尊敬したよ」


「薬師になりたかったのは事実ですが、カルヴァン家を出たかったというのも事実です。父とは話をしたこともありませんし、継母の暴力から逃げるために息を潜めて暮らしてきました。だからモーリスさんとジゼルさんの娘になりたかったのです」ミュリエルは悲しそうに微笑んだ。


 フィンはミュリエルの手を取り優しく包んだ。「アタナーズ商会の人たちを見てて思うんだ。家族に血の繋がりは必要ないって、だってあの人たち大家族みたいだろう?父親がエドガーさんで母親がソーニャさん。そんなふうにミュリエルの家族を作ったらいいんだ」


「はい」包まれた手からフィンの温もりがミュリエルに伝わり、ミュリエルの瞳が濡れた。


 涙で瞳を輝かせているミュリエルを見てフィンはアンドレに殺意を覚えた。幼いミュリエルが苦しんでいたというのに、何も気がつかず放置していたなんて、俺なら絶対に気がついたはずだ。あいつは王子のくせしてとんだ役立たずだなとフィンは思った。


 馬車に揺られること20分、会場に到着した。


 完璧に均整のとれた左右対称の美しい庭園を望む豪華絢爛な宮殿の階段をミュリエルはフィンに手を引かれ登った。何度もアンドレに手を引かれ歩いた、慣れ親しんだ道のはずなのに、まるで初めて来た場所のようにミュリエルの胸が弾んだ。


「パーティーは苦手だったのですけど、なんだか楽しくなってきました」


「それはよかった。折角なんだから楽しもう」


「はい」


 重厚な堂々たる扉を会場のドアマンが開けると賑やかな声が漏れ出てきた。


「フィリップ・グライナー卿、薬師ミュリエル様ご来場」


 会場中に響き渡る声でミュリエルとフィンの名が伝えられると、水を打ったように静まり返った。


 それは薬師ミュリエルとしての英名によるものなのか、それとも捨てられたマリオネット侯爵令嬢としての汚名が人の興味を惹いているのかは分からなかった。


 ミュリエルは自分がマリオネット侯爵令嬢と呼ばれていることを知っていた。だからといって何か思うところがあったわけではない、実際自分はマリオネットのようだと思う。名付けた人は名付けのセンスがあるらしい。


 ミュリエルとフィンは宮殿の執事に案内され会場の奥まで進み出て、国王の御前にひざまずいた。


「フィリップ・グライナー及びミュリエルが、国王陛下並びに王妃陛下に御挨拶申し上げます。このたびはお招きにあずかり幸甚に存じます」フィンが代表で挨拶をした。


 フィンはミュリエル薬店の従業員ではあるが、男性であり、他国とはいえ貴族だ。一方でミュリエルは男性に従うべき女性であり、平民であるが故に公の場で貴族男性より前に出ることははばかられる。このセレブレーションパーティーの主役なのだから、ミュリエルが挨拶すればいいとフィンは言ったが、ミュリエルは儀礼的な形式を守る方を選んだ。


「薬師ミュリエル、君の活躍のおかげで国が傾かずにすんだ。栄誉をたたえよう」オーギュストが言った。


 それは大袈裟な話ではなかった。甚大な被害を受けたスルエタでは帝都から4割以上人口が減り物流に大きな打撃を受けていて、連日食べ物を巡っての乱闘騒ぎがあちこちで頻発しているらしい、それなのに治安警察の数も減ってしまったことで治安を維持することができずにいる。また、周辺諸国から攻め入られることを恐れて国防に躍起になっていると聞く。


「身に余る光栄に存じます」ミュリエルが答えた。


「病院を建設したいのだと聞きました。国の慈善事業の一環として、支援したいと考えています」王妃が言った。


「王妃陛下の恩情に深謝いたします」ミュリエルが答えた。


「フィリップ・グライナー卿、そしてミュリエル、パーティーを楽しんでくれ」


 国王から謁見の終わりを告げられ、ミュリエルとフィンは下がった。


 フィンは歓喜した。「国の支援があれば病院が建てられるじゃないか。やったなミュリエル」


「はい、念願が叶いそうです」ミュリエルは期待に胸を膨らませた。躍り上がってしまいそうなほどに。


 知っている人、知らない人、様々な人から挨拶をされ、ダンスの申し込みをされたがミュリエルは丁重に断った。しかし、王族であるアンドレからの申し込みを断るわけにはいかず、ミュリエルは何故か気乗りしないまま踊ることになってしまった。


 フィンの険しい顔とは裏腹に、美しいミュリエルとアンドレのダンスに人々はうっとりと見惚れた。


「ダンスは断られなくてよかった」アンドレがミュリエルの耳元で囁いた。


「エスコートをお断りして申し訳ありません。私には過分なお心遣いだと思い、遠慮させて頂きました」


「女性初の勲章受賞者なんだから過分じゃないさ」


「だとしても、今は平民です」


「カルヴァンは何か言ってきたか?」アンドレは不安そうなミュリエルの顔をまじまじと見た。ミュリエルの感情をフィンほど的確に読み取れないことをアンドレは力不足だと感じ、悔しくてたまらなかった。


「いいえ、継母には睨まれましたが、父は関心が無いのか、それとも私を娘だと気づいていないのかもしれません。私の顔を知らないでしょうから」


「流石に気づいてはいるだろう」


「どうでしょう?私も父を遠目にしか見たことがありませんから、似たような背格好の人がいたら見分けがつきませんよ。何にしろ近づいても来なかったので、安心いたしました」


「良いのか悪いのかよく分からないが、ミュリエルが安心したのならよかった。王妃が言っていた病院建設事業、私も協力するよ」


「王子殿下に感謝申し上げます。そういえばマドゥレーヌ嬢をお見かけしませんでした。ご来場されておられないのですか?」


「——パトリーの封鎖が解除されてすぐにマルセル領に帰ったよ。マドゥレーヌとの関係は清算したんだ。王族と繋がりを持ちたくて画策する者はいるし、ショックではあったが、ミュリエルが言ったように、小さな嘘くらいで目くじらを立てなくてもいい。そう思っていたのだが、エクトルから訴えがあって調べてみたら、自分より立場の弱い者たちに暴言を吐いたり、暴力を振るっていてな。終わりにすることにした」


「そうでしたか、とても残念です」


「私も今年成人だし、周りから催促されている。早めに婚約者を決めなきゃならないのだが——しばらくは考えたくないんだ」


 マドゥレーヌの本性を見抜けなかった自分は、今世紀最大の大馬鹿野郎だなと思い、アンドレは眉を下げて情けなく笑った。


「アンドレ王子殿下の伴侶になりたいご令嬢は多いでしょうから、何かと騒がしくなりそうですね」


 同情するように言ったつもりだったが伝わっただろうかとミュリエルはアンドレの顔色を伺った。塞いでいる様子のアンドレが微笑んでくれたので、どうやら伝わったようだと知ったミュリエルは胸を撫で下ろした。


 曲が終わり、ミュリエルとアンドレは互いにお辞儀をした。


「君とまた踊れてよかった。ありがとう」アンドレはミュリエルの手を取り口づけた。


「こちらこそありがとうございました」


 今ここで、ミュリエルにプロポーズできたらどんなにいいだろうかとアンドレは思った。でも、今はまだ時期尚早だ。私はまだフィンのようにミュリエルと仲良くなれていない、悔しいがそれが事実だ。週に1度しか会えない自分より毎日側で支えているフィンの方が有利なのは明らか、だけど、立場は私の方が有利だ。


 王子という身分を存分に使ってミュリエルを振り向かせよう。私を好きになってくれさえすれば、平民であることはどうとでもなる。どこかの貴族に養子にしてもらえばいいだけだ、元侯爵令嬢で勲章受賞者だから、引くて数多に違いない。それに、第3王子と救国の乙女が結婚することを反対するものなどいるはずがない。


 これからも病院建設の打ち合わせで毎週会いに行ける。そこで私の価値を示すんだ。


 ミュリエルの願いをどんなことでも叶えてあげられれば、私を頼ってくれるはずだとアンドレは考えた。


 フィンは不愉快そうに歪んだ顔を、役者さながらの笑顔で繕い、ミュリエルとアンドレ

に近づいて行った。「2曲目は俺の番だよ」


 野戦病院にしょっちゅう顔を出してくるアンドレをフィンが牽制し、ミュリエルの側をぴたりとくっついて離れないフィンにアンドレが皮肉を言う、この4ヶ月の間ミュリエルをめぐる2人の攻防は野戦病院で働く人たちの名物となった。


 何故この2人は仲が悪いのだろうかとミュリエルは首を傾げた。


「まさかフィンさんとダンスを踊ることになるとは思いもしませんでした」


「ダンスは好き?」フィンはミュリエルの手を引いて、会場の中心へと連れて行った。


「はい、それなりに。楽しいです」


「俺もだ、それじゃあ時々踊ろうよ」


「ええ、いいですね」


 ミュリエルは踊ることをこんなにも楽しいと思ったのは初めてだった。


 僅かに口角が上がったミュリエルがフィンの目を見つめ、楽しそうに踊っている姿にアンドレは奥歯を噛み締めた。


 この日のダンスは社交界を賑わせた。美しいマリオネット元侯爵令嬢と眉目秀麗なアンドレ第3王子のダンスは人々をうっとりとさせ魅了した。しかし、そのダンスが終わりザイドリッツの伯爵令息で美男子のフィリップ・グライナーがマリオネット元侯爵令嬢の手を引いた瞬間、花が綻ぶようにマリオネットの呪いが解けたのだと——

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