第23話

 ミュリエルたちが乗った馬車が教会の前に着くとアレクサンドルや若い侍者たちが出迎えた。


 フィンとモーリスが担架を担いでセルジュを運び、若い侍者たちに頼んで、持ってきた鞄を運んでもらった。


 エドガーの妻ソーニャはアニーに駆け寄った。控えめではあるが決して臆病ではない、しっかりとした女性が、若々しい顔に疲労の色を浮かべ震える体を自らの腕でぎゅっと抱きしめているのを見て、堪らず優しく抱きしめた。


「ああ、アニー可哀想に」


「ソーニャさん……」アニーはソーニャの肩に顔を埋めて泣いた。


 司祭館のエドガーが寝かされている隣のベッドにセルジュが運び込まれるのをソーニャは疲れ果てた顔で見つめた。


 セルジュがアタナーズ商会を訪ねてきたのはもう8年も前のことだ、彼はまだ14歳の少年だった。その頃からずっと母親のいないセルジュを子供のように可愛がってきたソーニャにとっては胸が締めつけられる光景だった。


 ソーニャが限界にきているようだと悟ったミュリエルはソーニャにポーションを渡した。「元気になれるポーションです。本当は少し眠ったほうが良いのですが、休めと言われたところで、眠ることはできないでしょう。だから、もう少し頑張れるようポーションを飲んでください」


 渡されたポーションをソーニャはぐっと一息に飲み干した。ポーションは何とも言えない嫌な味がするものだと決まっているのに、そのポーションは柑橘系の味がして、まるでオレンジジュースを飲んでいるかのようで、目を丸くした。


「ミュリエル薬師、夫が目を覚ましてくれないんです——セルジュも同じ病気だと伺いました。2人は治るのでしょうか、このままなんてことありませんよね」アニーの体にしっかりと両腕を回したソーニャの頬を涙が伝った。


「ポーションはどのくらい投与しましたか?」ミュリエルが訊いた。


「正午に一本、先ほど一本投与しました」看病を手伝っていたクラリスが答えた。


 ミュリエルはマジックワンドを取り出して、エドガーの体をスキャンした。


 通常ポーションを飲めば体内のウイルスの増加が止まり、回復に向かう。しかし、エドガーの体内はウイルスが今朝よりも増殖している。


「一回目のポーションを投与してから既に10時間以上が経っているにも関わらず、ウイルスの増殖が止まらず改善が見られません。ポーションが効いていないと判断します」


「流感ではないということですか?」ソーニャが訊いた。


「流感で間違いありませんが、既存のポーションが効かない新型のウイルスに感染している可能性があります。エドガーさんもセルジュさんもスルエタから帰ってきたばかりだということから、外国で感染してきた可能性が高いです。スルエタに同行していた従業員とフランクールに帰ってきてから接触した人、全員を診察する必要があります。思いつく限りの人をここへ呼んでもらえますか?」


「俺が行こう。アタナーズ商会のことなら詳しいから、誰が同行していたのか把握してる」マルタンが名乗り出た。


「お願いします。モーリスさんは保健所に連絡を、フィンさんはポーションを作る手伝いをお願いします」ミュリエルはそれぞれに指示した。


 モーリスはミュリエルの頭に口をつけ、ギュッと抱きしめた。「保健所は既に閉まっているだろうし、夜間常駐の職員は当てにならん。知り合いの職員の家まで行ってくる。フィン、それまでミュリエルを頼んだぞ」そう言いマルタンと一緒に部屋を出ていった。


 必ず治してみせるから、もう少し頑張ってほしいと心の中でミュリエルは願った。


「ソーニャさん、アニーさん、手を貸して下さっているシスターの皆さんは感染してしまう可能性が高いです。頭痛、発熱、倦怠感、少しでもいつもと違うことがあったらすぐに知らせてください。アレクサンドル神父、ポーションを作りたいのでキッチンをお貸し頂けますか?」


「もちろんです。シスターフェリシテ、案内して差し上げてください」アレクサンドルが言った。


「はい、司祭様。ミュリエル薬師どうぞこちらです」


 ミュリエルとフィンは鞄を持ちフェリシテについて行った。


 司祭館は司祭の住居で、キッチンはこじんまりしているだろうとミュリエルは思っていたが、厨房はミュリエル薬店の工房より広く、調理道具は整然と並べられ、清潔に保たれているようで、爽やかなリモネンの香りがした。


「ここをご自由にお使いください。何か必要なものがあれば何なりとお申し付けください。侍者の手が必要なら連れて参りますが、いかがいたしましょうか」


「いいえ、それよりも患者さんが今後増えることを想定していただきたいのです。患者さんを収容できる場所、看病できる人員が必要です」


「信徒に声をかけてみますが、期待はできないでしょう。私もあの2人を見ていたら怖くなってきました。助からないかもしれないと思うと、感染してしまうことを恐れて恥ずかしながら逃げ出したい気分です。生涯を神に捧げ、人々に奉仕すると誓ったのにです」


「シスタークラリスは強いですね」同じものを見て同じことを聞いたはずなのに、エドガーを看病していたクラリスの顔はかげることなく目の前の患者をただ真っ直ぐに見つめていた。


「ええ、そそっかしく、がさつなところがありますが、それは育ってきた環境がそうさせているのでしょう。私では到底勝てないほどの強さを彼女は秘めています」


「そんな強い人を御せるあなたも十分に強いと思います」


 フェリシテは愉快そうに微笑み台所を出ていった。


「俺からしたら、女性はみんな強いですけどね」


「身体的強さが無い分、精神的な強さを身につけて生まれてくるのかもしれませんね」でも、とミュリエルは思った。自分は耐えきれず逃げ出した——


 無関心な父親から、自分を嫌う継母や、婚約者から逃げ出し、自分を愛してくれる人たちのところへ逃げ込んだ。ミュリエルは羞恥に心が沈んだ。


 フィンはミュリエルの瞳を覗き込んだ。「ミュリエルさん、あなたも殻を破り飛び出したんでしょう?同じく俺も家を飛び出したけど、その日暮らしで何の目標もない俺とは違って、薬師という仕事がある。しかも最高の薬師だ。ミュリエルさんは強い女性の代表ですね」


 どうやらまた、心を読まれたらしい。恥ずかしさに頬がピンク色に染まったが、励まされたことが嬉しくてミュリエルは微笑んだ。


「お2人とも39度を超える高熱が出ています。なので、既存の解熱薬よりももう少し強い解熱薬を作ります。体がウイルスと戦っている証拠なので、熱を下げすぎるのもよくありませんが、このまま高熱が続けば、患者さんの体力が失われてしまいますし、抵抗力が弱まれば合併症を起こし死亡する危険が高くなります」


「了解です。俺は何をすればいいですか」


「ミミズを細かく砕いてください」


 フィンは手渡された棒状の物を見下ろして顔をしかめた。「うっ!またミミズですか、ここに来るまで俺、ミミズなんて触ったこともありませんでした」


 ミュリエルは虫を採取して洗ったり乾燥させたり平気でしているが、虫だけはどうにも慣れないなとフィンは抵抗を感じていた。


「貴族の子息は土遊びなんてしませんものね、私もしたことはありませんけど、平民の子供は土を掘り返して遊ぶそうです」


「ミュリエルさんが土遊びなんて想像できませんね」


 ミュリエルは細かく砕いたミミズを鍋に入れ火にかけた。


「ポーションは通常飲みやすいようにシロップで薄めますが、今回はミミズに加えてエルダーフラワー、シナモン、ジンジャー、を40分ほど火にかけ、濃く煎じたものだけを処方します」


「とてつもなく飲みにくいということですか?」


「まだ少し薄いですが、ちょっと舐めてみますか?」ミュリエルはスプーンに少しだけすくいフィンに差し出した。


 口の中に一滴ほどの液体を入れた瞬間、舌が痺れるような苦味に襲われ、フィンは眩暈がしそうになる体をテーブルに手をついて支えた。


 面白がっているミュリエルから口直しにと差し出された蜂蜜を舐めたが、苦い記憶が舌の上から消えてくれなかった。


「こんな不味い物、絶対飲めませんね」


「意識を取り戻して欲しいですが、お2人とも昏睡しているのが幸いかもしれません」


 これで熱を下げられればあとは本人の体力次第ということになる。


「ウイルスを死滅させることはできないんですか?」


 ミュリエルの魔力と魔法でウイルスを死滅させることは簡単だ、だがそれには回避できない重大なリスクが伴う。


「できます。ですが、ウイルスが死滅するとともに人間も死にます。人間よりもウイルスの方がより強いということです。なので、流感のポーションはウイルスの増殖を止めることしかできないのです。新型に対応したポーションを急ぎ作らなければなりません」


「じゃあエドガーさんやセルジュさんは熱を下げるしか方法はないということですか?」


「流感のポーションが効かない今は発汗を促し、解熱するしかありません。そもそも流感は抵抗力の弱い乳幼児や高齢者、基礎疾患のある人は重症化しやすいですが、健康な人であれば1週間ほどで治ります。それでも毎年大勢の死者を出してしまいます。それは栄養のある食べ物を食べることができなかったり、雨風をしのげる家がなかったり、平民の過酷な暮らしが要因の1つだと思います。だからこそ病院を作りたいのです」


「実現すれば周辺諸国も大きな影響を受けるでしょうね。成功事例をモデル化すれば、ザイドリッツでも再現できる。国の協力は不可欠ですが、実現できれば治療を受けられず苦しんでいる人たちを助けられるかもしれません」


 ミュリエルは頷いた。「ポーションが完成しました。急ぎ投与しましょう」

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