第54話「いなくなった君を想う⑤」
さて、4月から同棲するとして、それまでの間をどうするかだ。
親とは縁を切られているし、元々住んでいた場所も既に新しい住人が住んでいるため使えない。
そもそも母さんが詩乃の居候と、それからの同棲を許してくれるかどうか。
ガチャリ、とドアが開く音と共に、「ただいま」という母さんの声が玄関から聞こえてきた。
「誰か来てるの……って、あなた、どうしたのその子」
「ああ、1年の時のクラスメイト。訳あって住む場所を追い出されちゃったみたいで」
片桐です、と詩乃は律義に頭を下げた。
母さんもペコリと頭を下げる。
昔の母さんならすぐにヒステリックになって詩乃を追い出しただろうに、随分と態度が軟化している。
いろいろ変わったんだな。
詩乃は僕に話してくれたことを簡潔に話した。
さすがに居候からの同棲は許してくれないだろうか、と思ったのだが、意外にも母さんは二つ返事で許可を出してくれた。
「いいんですか?」
「だって、太一のお友達ですもの。悪い人じゃないって信頼してるから。それに、この子にはいろいろ迷惑をかけてしまったから……太一がこうした言って思っていることには全力で応援したいの」
優しい微笑を母さんは僕に向けた。
その笑顔に僕は見覚えがある。
まだ父さんが生きていた頃、母さんはそんな風に笑っていた。
最近はあんまりに見なくなったけど……そうか、母さんも前に進んでいるんだ。
過去に取り残されていたのは、僕だけ。
だけど、これからは──。
「ありがとう、母さん」
「いいわよ。あなたにはこれから幸せに生きてほしいから。もちろん片桐さんもね」
「はい」
修羅場にならなくてよかった。
ホッと胸を撫でおろす。
トントン拍子で話が進んだのはよかったのだが、一つ重要な問題を思い出した。
「ところで、部屋どうしようか」
僕の部屋は詩乃の部屋よりも狭い。
この家にあるのはほかに母さんの寝室があるくらいで、1カ月とは言え彼女が暮らせるようなスペースはない。
しかし、詩乃は問題ないと言わんばかりの表情を浮かべる。
「私、太一くんと一緒の部屋でも構いませんよ?」
一瞬だけ心臓が止まったような気がする。
なんてこと言うんだ、と怒りたくなった。
もっと自分を大切にしろ。
さもないと──。
「いや、狭いし物理的に無理だよ」
「いけますよきっと。私狭いところ平気ですし」
「ならリビングで僕が寝るから」
「それは私が許さないわよ。ちゃんとしたところで寝ないと風邪ひくわ。まだ寒いんだもの」
今度は母さんまで乱入してきた。
これ以上はらちが明かない。
仕方がない、ここは彼女の要求を呑むしかないようだ。
「わかった。そうしよう」
はあ、と溜息をつき、詩乃は嬉しそうにはしゃいでいた。
それでいいのか、と僕は母さんに目線を送る。
母さんは知らんぷりしていた。
僕の知っている母さんじゃない気がした。
早速詩乃は僕の部屋へと向かった。
「荷物は?」
「ありません」
「服も?」
「恥ずかしながら……」
「所持金は?」
「全部父に奪われました」
「本当に追い出されたんだ」
「はい。酷い話でしょう?」
わざとらしく、欧米人がするかのように、詩乃は両手を掲げた。
どこまでも他人事だった。
でもそのくらい、彼女にとって「親に勘当された」ということはどうでもいいことだったのかもしれない。
家に詩乃がいるということは新鮮だった。
過去に何度か彼女がこの家に訪れたことがあったけれど、あれはもう数年前のことだから、やっぱり緊張してしまう。
「なんだか、懐かしいね」
「そうですね。昔、あなたに勉強を教えたのを思い出します」
「そのおかげで僕は無事大学生になれそうだ。ありがとう」
「私、中卒なんですけど」
「それは君が悪いんじゃないか」
そう言うと詩乃はむすっとした表情を浮かべる。
だけど実際そうじゃないか、と言いたくなった。
あんなことをしなければ、退学せずに済んだものを。
まあ、ああするしか術を知らなかったのだから、あの時の詩乃は若かった、ということで片付けるしかない。
「ねえ、もう一度ハグしてくれませんか?」
「いいけど、どうして?」
「どうしてもです」
ん、と詩乃は両手を出してくるので、僕は彼女に応じた。
改めて彼女を抱きしめると、健康的だった彼女の身体は少し痩せこけているようにも感じる。
最後に抱擁したのが何年も前の話だから僕の記憶違いかもしれないけれど。
「大きくなりましたね」
「君が小さくなったんだよ」
「そうかもしれません。でも、あなたから伝わってくるぬくもりは変わってなくてよかったです」
「僕もだよ。詩乃の温かさ、何も変わってなくて安心した」
抱きしめて、額を合わせた。
より想いが伝わってくるような気がする。
「あのさ、詩乃」
「はい、何でしょう」
「ずっと言いたかったことがあるんだ……」
ふう、と呼吸を置いて、心の中で消化されなかった気持ちを言葉にしていく。
まだまだ言いたいことはある。
だけど、ようやくしたらたった一言で収まるのだ。
脳内でシミュレーションしていたわけではないけれど、案外スッと言えた。
緊張していたのに、難なく言葉にした自分を褒めてやりたい。
「好きだよ、詩乃」
「はい、私もです」
やっと言えた。
長い道のりだった。
だからこそ、その言葉が重たかった。
また僕たちはぎゅっと抱きしめ合い、軽く口づけを交わした。
これが僕にとって初めてのキスだ。
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