それから少し未来の話

第38話

 その夜、菅山建一の携帯が鳴った。

 誰からかと思い携帯を手に取ってみれば、そこに表示された名前は、建一のよく知る人物だった。

「はい、もしもし菅山です」

 電話の相手から用件を聞き、それを了承して建一は電話を切ると、まっすぐに台所へと向かう。

 名前を呼ぶと、今日もパタパタと晩ご飯の後片付けをしていた小柄な背中が、くるりと建一の方へ振り返った。

「なあに、ケンちゃん」

 言いながらエプロンの裾で拭われている、その左手の薬指には、控えめな装飾の指輪が嵌められている。

 東京に行った際に二人で選んだ。建一の左手にも同じ物がある。

「今、真奈実さんから連絡があった。今度、こっち来るから顔出していいかって」

「真奈実さん、こっちに来るの?」

「ああ、そう言ってたぞ。お盆にお休み取れたからって」

「そっか……」

 春の顔に一瞬影が差したが、直ぐに持ち直し、努めてそうしているのだろう、あかるい声をあげる。

「楽しみ。でも、真奈実さんそういうことなら、私の方に連絡くれれば良かったのにぃ」

 春がふて腐れたようにそうこぼす。

 真奈実と仲がいいのはどちらかと言えば春の方で、それだけになぜ自分の方に連絡が来たのかと疑問ではあったが、その理由は先程の通話で、すでに割れている。

「掛けたけど、出なかったって言ってたぞ」

「え、うそ!」

 春が慌てて携帯を確認して「ほんとだ、あった」と呟く。水仕事の為に少し離れた場所に置いておいたのが災いしたらしい。

「でも、だったらケンちゃんも変わってくれたら良かったのに」

「だってお前、皿洗いしてるの分かってたし、邪魔すんのも悪いかと思ってよ」

「それでも、変わって欲しかったの!」

「悪かったよ、ゴメン」

 そう謝ったところで、ふとあることに気が付いて、思わず苦笑が漏れる。

「どうしたの?」

 尋ねてくる春に建一は首を左右に振った。

「いんや何でも。真奈実さんこっち来る日時は、また改めて連絡くれるって言ってたから、そん時はちゃんとお前にも伝える」

「約束だよ」

「おう、約束だ。そんじゃ、俺、風呂入ってくる」

 そう言って建一は一人台所を後にした。

 どうしてこのタイミングで思い出してしまったのか。

 二年前にも似たような事があったな、なんてそんなことを。


 真奈実が尋ねて来るのは、十三日の日中だった。

 建一は田んぼの方で、朝から水や稲の管理をしていたが、いつもより早めに切り上げ、真奈実と顔を合わせたのは午後の五時を回った頃だった。

「すみません。お仕事お忙しいのに」

「いえいえ、気にせんで下さい」

 言いながら建一は真奈実の前で屈むと彼女が抱きかかえている赤ん坊の頭を軽く撫で可能な限り声を柔らかくし、笑顔を浮かべながら話かける。

「やぁ、雪ちゃん。元気だったか」

 しかし、警戒しているのか雪と呼ばれたその子は、真奈実の胸元をひしと掴み頭を撫でられながらも油断ならない瞳を建一へと向けている。

 そんな可愛らしくも、勇ましい様子に思わず健一は困ったように笑う。

「うーん、相変わらず懐いてくれねぇなぁ」

「いえいえ、そんなことないですよ。ただちょっと慣れない場所だから、少し緊張してるんだよねぇ」

 真奈実がフォローを入れつつ、語りかけるが雪は変わらず鋭い視線を、建一へと向け続けている。

「あ、ケンちゃんお帰りなさい」

 台所へ行っていたらしい春が、小皿を片手にそう言った。

「ほーら、雪ちゃんおやつ持ってきましたよ」

 小皿に入っていたのは幼児用のタマゴボーロで、それをテーブルに置いた瞬間、雪は最近ようやく歩ける様になったばかりの、おぼつかない足取りでおやつの元に辿り着くと紅葉のような小さな手で嬉しそう貪る。

「コラ雪、おねぇちゃんにお礼言わないと」

 真奈実がそうたしなめると、雪はタマゴボーロを口に運ぶのは止めず、

「はーちゃん、あがと」

 と舌足らずな声でお礼を言われ、春が溶けたように相好を崩す。

 なんだ、この差は一体何だ! 面か! 面の問題なのかっ!

 扱いの差に内心で葛藤するが、それを表に出すのは流石に大人気ないのでグッと呑み込む。

「……それにしても、あいつもちゃっかり、とんでもない置き土産を置いていったもんだよな」

 建一がそう呟くと、真奈実も春も懐かしむような愛おしむような、そんな表情をした。

 雪と名付けたのは清吉だという。なんでも真奈実の方から名前を付けて上げてくれと頼んだらしい。

 その御陰もあってなのか、元気の無かった清吉も孫が出来てからは前よりも元気になったと評判だ。

『味を占めたのか知らないけど、最近はあたしの方にも、遠回しに結婚や子供はまだなのか聞いてきて鬱陶しいったらないわ』

 と、言ってることとは裏腹に、何処か安心したように愚痴をこぼしていたのは友恵で、彼女も最近は縒りを戻した恋人と結婚を前提に交際をしているらしく。

 どうやらおじいちゃんが二人目の孫を期待しちゃう程度には、二人の仲は上手くいっているようだった。

「そういや、どうでもいいことなんだが」

 建一がそう呟くと、真奈実と春が同時に建一の事を見る。

「今朝変な夢を見てな。ふと気が付くと目の前にあいつが立ってんだよ、んで何も言わずたこっちを見てる。こう、嬉しそうな腹立つ顔してな」

 本当にただそれだけの奇妙な夢だった。

 しかしその話をしたとたん春が驚いたような表情を浮かべ「……不思議」と呟いた。

「私も同じ夢見たかも」

 春のその話を聞いて、建一は驚いたまさか二人して同じ夢を見ていたとでもいうのだろうか?

 その時、横から二人の話を聞いていた真奈美が可笑しそうに笑った。

「もしかしたら、少しでも早く皆さんに会いたかったのかも。あの人、ああ見えてさみしがり屋だったから」

 そんな真奈実の談を聞いた瞬間、なぜだか笑いがこみ上げてきた。

 ひょっとして、友恵や清吉の夢にも出ていたのだろうか? そう考えるとなんだか余計に可笑しい。

 ただその何処かつかみ所のない行動は、あいつらしいと言えば、あいつらしいのかもしれない。

「まったくまだ迎え火もしてないってのに、気の早い野郎だなまったく」

 笑いながらなんだか鼻の奥がツンとして、さり気なく目頭を押さえる。

 大人達の話している事など気にせずタマゴボーロを食べ尽くした雪は、空になった小皿を振り回して「ぼーろ、ぼーろ」と舌足らずに、おやつのお代わりを要求している。

 その姿にまた小さく笑いが零れて、一緒に涙も少しだけ零れた。

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