第37話

 式を終えて二日が経った。

 十二月三十一日。

 ついに、その日がやって来た。

 朝、目を覚ましておはようと言って、洗面台で身なりを整えて、朝食を食べて。

 それは拍子抜けするほど、いつもと変わらない朝だった。

 俊介が出勤する時間になり、真奈実がそれを見送る。

 式の翌日は二人とも休みだったので、結婚式を上げてから初めてのお見送りだった。

 いつも通りの朝。でもその先は少しだけいつも通りじゃ無かった。

「真奈実」

 不意に俊介が名前を呼ばれたかと思うと、なんの前置きも無く突然、口元に軽くキスをされた。

 不意打ちに思わず頬が熱くなる。

「行ってきますのキス。一度やってみたかったんだ」

 いいながら俊介はへへっと子供っぽく笑った。

 俊介は玄関の扉に手を掛けるがなかなか扉を開けようとはしなかった。

 どれくらいそうしていたのだろう、俊介は扉に手を掛けたまま動きを止めて、真奈実は何も言わずその場に立ち尽くしていた。

 随分長い間そうしていたような気もするし、案外それほどでもなかったような気もする。

 そうして俊介はゆっくりと振り返って。

「じゃあ……行ってきます」

「うん、行ってらっしゃい」

 いつもの挨拶を交わして俊介は扉を開けて部屋の外へ出ると、いつもよりも少しだけゆっくりとその扉を閉めた。

 いつもなら見送った後は、直ぐに自分の支度を始めるのだけど、真奈実はその時はどうしてかそんな気分になれなくて。

 俊介が出て行った扉を、どうしてかぼんやりといつまでも眺めていた。

 しばらくしてようやくハッと我に返る。

「いけない。私も準備しないと」

 わざわざ言う必用も無いことを口にしながら、リビングに戻るとある物を見つけた。

 それは一冊の手帳だった。

 見て直ぐに俊介の物だと分かった。ここ最近、それに何かを書き込んでいた姿を何度か見たことがある。

 手帳は、さっきまで一緒に朝食を食べていたテーブルの真ん中に、見つけてくれと言わんばかりに置かれていた。

 手帳を手に取り開く。


 やりたいことリスト。


 手帳の一番最初には、そう書かれていた。

 いつから書き始めていたのか、手帳には俊介のやりたいことが、幾つも書かれていて、その中には幾つか身に覚えある物があった。


 彼女と結婚式を挙げる☑

 彼女の両親に挨拶をする☑

 彼女と一緒に田舎に帰る☑

 親友と酒を飲む☑

 家族に会いに行く☑

 父さんと仲直りする☑

 母さんの墓参りに行く☑

 真奈美が行きたい場所へ連れて行く☑

 真奈美にプロポーズをちゃんとする☑


 なによ、前は縁起が悪いとか言ってたくせに。

 そう心の中で文句を言いながら、その手は震えること無くページをめくっていく。

 リストには他にも、社食で一番高いメニューを食べるだとか、競馬で大穴に掛けてみる、いつものる電車の終点まで行ってみる。なんてことも書いてあった。

 そういえば最近、帰りが遅くなったり、ふらっと一人で出かける事が偶にあったなと思い出す。

 きっとこのやりたいことリストに書かれたことをするために、普段は行かないような所へ行ったりしていたのかもしれない。

 やりたいことリストの多くには、達成したという意味なのか☑が書かれていた。

 でも書かれたもの全部がそうじゃなかった。

 自分の子供に名前を付ける□ 

 子供と遊んであげる□ 

 もう少し広い家に引っ越す□ 

 車の免許を取る□ 

 家族でどこかに旅行へ行く□ 

 上から取り消し線を引かれた文字たちが何を意味してるのか、そのことを想うと胸の奥が切なく締まる。

ページを捲り、リストに書かれた事を一つ一つ確認して、そうしていよいよ最後の一つ。


 最後に彼女へさよならのキスをする□


 それだけは、☑が入っていなかった。

 さっき俊介を見送った時の事を思い出す。

 玄関で俊介は普段はしない、キスをしてこう言っていた「やってみたかったから」と。

 あれはきっとこれの事だ。

 だとしたら最後に書かれているこれは、ちゃんと達成されている。

 手近にあったボールペンを手に取る。

 空白になっている□に、達成の証である☑を入れた瞬間、

 そこで初めて手が震えた。

 立っていることも出来なくて、その場にへたり込んで、滲んで輪郭を無くした視界を覆うように目元を覆う。

 本当は、信じてなんていなかった。

 俊介が死ぬなんて話は全部嘘で、いつものようにへヘッと子供のように笑って「冗談だよ」って行ってくれると。

 そんなことを心の奥で期待してた。

 でも俊介は、最後まで冗談だよとは行ってくれなかった。

 ただ一言じゃあねとだけ行って、彼は行ってしまった。

 そんなことは無いと思っていたかった。

 目をそらし続けていたかった、いつかそれが嘘になることを期待して。

 だけど、もう限界だった。

 俊介はもう帰ってこない。

 そのことが避けようのない事実なんだということを真奈美は確信してしまっていた。

 もっと一緒にいたかった。

 もっと色んな事をしたかった。

 もっと沢山の事を話したかった。

 ずっといつまでも、どこまでも。

 でも、それはもう叶わない。

 涙はいつまでも溢れてくる。一体自分のどこにこれだけの水があったのだろう。

 このままひからびてしまうまで泣き続けることになるのではと思ったけれど、そんなことは無くて涙は徐々に収まっていった。

 ようやく物の判別が出来るくらいに水位が落ち着いた頃、時計を確認してみれば、もう今から家を出ても、始業には間に合わない時間だった。

 迷惑を掛けてしまうが、後で休みの電話を入れよう、今日はとても仕事が出来る精神状態にはなれそうにない。

 なんて。悲しくて仕方が無い筈なのに冷静に仕事の事を考えてる自分に、思わず自嘲の笑みがこぼれる。

 どれだけ悲しくても、どれだけ辛いことが自分の身に降りかかってきても、世界は粛々と回っていく。

 いつの間にか取り落としてしまっていた、手帳を拾い上げ、なんとなくもう一度開いてみる。

 と、そこで気が付く。

 最後のやりたいことが書かれたページ、その裏側にうっすらと文字が透けて見えた。

 ゆっくりとページをめくる。

 そこには、手帳に書かれた文字と同じ文字でこう書かれていた。


 真奈実へ

 君がこれを読んでいると言うことは、きっと俺はもう君の前にはいないのでしょう。

 なんて、お決まりの言葉で書き出してみたけれど、ダメだね。

 いざこうして筆をとってみると何を書けばいいのか分かんないよ。言いたいことや話したいことは幾らでもあったはずなのに。

 俺は君のやりたいことリストに幾つ☑を付けて上げることが出来ただろうか?

 本当はずっと君の側にいたかったけれど、それはもうきっと出来ないんだと思う。

 もし最後に何か願いが一つだけ叶うなら、祈ることはただ一つ。

『これから君の歩む道がどうか君にとって幸福に満ちた物でありますように』

 ただそれだけです。

 ありがとう、俺は君に会えて幸せでした。

                俊介より


 最後の一文を読み終えて。また涙が溢れそうになる。

 しかしグッと眉間に力を入れてそれを堪えると、真奈実はペンを手に取った。

 そのまま手帳のまだ何も書かれていないページにあることを書き殴った。

「よしっ!」

 頬を叩いて気合いを入れる。

 やっぱり今日も会社に行こう。今からどう足掻いた所で遅刻だが、それでも急げばお昼前には仕事を始められる筈だ。

 俊介と出会って、一緒になれて嬉しかった、自分は間違いなく幸せだった。

 それを不幸な出来事になんてさせない。

 悲劇のヒロインになんてなってやるものか。

 これから先、どんな事があったとしても最後には幸せな人生だったと言ってやる。

 だから心配しないで。

 真奈実はぐちゃぐちゃになっている顔をなんとかするため、化粧道具のある寝室へと飛び込んでいく。

 リビングのテーブルの上で開きっぱなしにされた手帳には荒い文字で大きくこう書かれている。

 幸せになってやる□ 

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