第32話
それは、いつもと変わらない朝だった。
朝目を覚まして、朝食を食べて真奈美よりも少しだけ早く家を出る。
その日が今年最後の出社で、明日と明後日は正月休み。
年の最後にもう一踏ん張り、そんなことを思いながら会社へ向かうその途中で突然、意識がブッツリと途切れた。
次に意識を取り戻したとき、そこは暗闇の中だった。
上も下も、右も左も分からない。
何も見えず、何も聞こえず。
ただただ、暗闇が広がる何処か。
その中をぼんやりとした意識だけが、たゆたい、何処かへと流れていくような。
そんな、感覚だけがある。
まるで緩やかな川の流れに乗る、落ち葉にでもなったようなそんな感覚だった。
「初めまして」
何も聞こえ無かったはずの場所で、どこからか声が聞こえた。
抑揚の無い、淡々とした声。
おおよそ感情など持ち合わせていない、人間味を著しく欠いたそれは声というよりも、音と表現した方がいいかもしれない。
「突然ですが、十二月三十一日、朝七時四十八分、あなたの生命活動は停止しました」
衝撃的な事を言われたはずなのに、あまり心は動かなかった。
起きているのか眠っているのか分からないような微睡みの中で、その声が話す言葉をぼんやりと聞いていた。
「死因は交通事故。横断歩道を渡るあなたに飲酒していた男性の運転する大型車が激突しました。信号は青であなたには非の無い、不運で救いの無い、どこにでもあるつまらない事故です」
自分の死を事細かに説明されても、やっぱり心は動かない。ひょっとすれば何かを思う心は、死んだときに何処かへ落っことしてしまったのかもしれない。
「このまま行けば、あなたはある場所へと流れていくことになるわけですが、一つだけ窺います――あなたに悔いや後悔はございませんか?」
その一言に初めて心がわずかに動いた。
小さな火が灯り、ぼんやりとしていた意識が熱を持つ。
「あなたは運がいい。あなたは選ばれました」
音が相変わらず抑揚無く話す。
「あなたには一ヶ月だけ、悔いを無くすための期間が与えられました。あなたが亡くなる一ヶ月前。具体的には十二月一日の朝まで時を戻す。その機会をあなたは運良く与えられました」
ただし、一つだけ注意事項があります。と音が言う。
「あなたは一ヶ月前に戻ることは出来ます。しかしあなたの死の運命、これだけは避けることは出来ません。どこで何をしようとも、十二月三十一日、朝七時四十八分にあなたは死にます。そして、この機会を与えられるのは今回一度きり、二度目はありません。ですので時間は有効にかつ、効率的に使うことをおすすめします」
よろしいですね? と音が尋ねてきたので、解ったと答えた。
声を出すことも、頷くことも出来なかったからただ思っただけだったが、それでも通じたらしく「畏まりました」と返事が返ってくる。
「では、準備はよろしいですね?」
淡々としていて抑揚のない声。
他には何も聞こえないのに、無機質なその声だけが、どこからか聞こえてくる。
「先程ご説明させていただいた通り、機会を与えるのはこれ一度だけ、二度目はないことをどうか努々お忘れ無きように」
ああ、そうだ。
戻るんだ。
戻って、そして――
「どうか後悔の無い一ヶ月を」
声がそう言った瞬間。
おぼろげだった意識は、完全に闇の中に溶けた。
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