第1話　魔物の兄 - 魔物²　（椋鳥）

魔物²　

椋鳥

　何故（なぜ）この愚（おろ）かなる人間（にんげん）は、この場所（ばしょ）に存在（そんざい）を許（ゆる）されて尚（なお）、今（いま）も息（いき）を吐（は）き続（つづ）けるのか。如何様（いかよう）にすれば、僕（やつがれ）の兄（あに）を魔物（まもの）にしたいと願（ねが）うのか。

　愚（おろ）かで間抜（まぬ）けで腹（はら）が立（た）つ、矮小（わいしょう）で救済（きゅうさい）の余地（よち）も無（な）い木偶（でく）。それがこの僕（やつがれ）だ。そして、理（ことわり）を無視（むし）した行（おこな）いの代償（だいしょう）は、そこに転（ころ）がる兄（あに）の、無残（むざん）な姿（すがた）であった。

　誰（だれ）とも知（し）れぬ叫（さけ）び声（ごえ）の主（ぬし）は僕（やつがれ）か、はたまた地面（じめん）に転（ころ）がる兄（魔物）か。だが、どちらにしてもそう変（か）わりは無（な）い。何故（なぜ）なら僕（やつがれ）の心核（こころ）と兄（魔物）は原型（げんけい）すら留（とど）めていないからだ。

　まだ足（た）りぬ、まだ叫（さけ）び足（た）りぬと、僕（やつがれ）だった者（もの）が叫（さけ）ぶ。それは絶（た）えず血液（けつえき）までを絶望（ぜつぼう）で染（そ）める。意識（いしき）が遠（とお）のく中（なか）激（はげ）しい後悔（こうかい）が募（つの）るが、直（す）ぐに体（からだ）が崩（くず）れた。

　死（し）にたい。もう僕（やつがれ）は死（し）ぬべきだと確実（かくじつ）に分（わ）かりなが、僕（やつがれ）は魘（うな）される。醜（みに）い姿（すがた）と生（い）き恥（はじ）を晒（さら）してまでも足掻（あが）きたくは無（な）い。そう思考（しこう）するも、謎（なぞ）の存在（そんざい）によってまだ息（いき）を吐（は）いている。こんな事実（じじつ）、到底（とうてい）受（う）け入（い）れられぬと、僕（やつがれ）は思（おも）う。

　いっそ此（こ）の死人（しにん）の如（ごと）き存在（そんざい）を、跡形（あとかた）も無（な）く引（ひ）き裂（さ）いてしまえと。原型（げんけい）を留（とど）めるという情（なさ）けなど、欲（ほっ）しても居（い）ないのだから。嗚呼（ああ）、中身（なかみ）の無（な）く薄（うす）い虚構（きょこう）の言葉（ことば）しかはけぬ僕（やつがれ）は、何（なに）も為（な）せずただ確（たし）かに来（く）る死（し）という、帰（か）るべき場所（ばしょ）に向（む）かうのだ。

　眼（め）も、耳（みみ）も、手（て）も、舌（した）も、鼻（はな）も、もういらぬ。人（ひと）が人（ひと）で有（あ）る為（ため）の素材（そざい）など、既（すで）に捨（す）てた。しかし、此（こ）の状態（じょうたい）で兄（あに）を、一人（ひとり）だけを残（のこ）していくのは、無理（むり）だ。捨（す）てた感覚（かんかく）を僅（わず）かに感（かん）じ、最後（さいご）にやり残（のこ）した事（こと）をする為（ため）に僕（やつがれ）は、呻（うめ）き声（ごえ）とも分（わ）からぬ声（こえ）を上（あ）げ、の打（う）ち回（まわ）る。

――、ぢ為（な）せぬ。決（け）っじで、ぢなぜぬ。

　持（も）っていけ、全（すべ）て持（も）っていけ。血（ち）など、いくらでもくれてやる。だが、決（けっ）して死（し）なせぬ。死（し）なせてはならぬ。僅（わず）か一里（いちり）でも進（すすむ）むために、一里（いちり）でも進（すす）ませるために死（し）なせてはならぬのだ。

　周（まわり）りは渦（うず）のように血（ち）が舞（ま）い、踊（おど）り狂（くる）う。命（いのち）を祝福（しゅく府フく）するかの如（ごと）く、死（し）を象徴（しょうちょう）するかのように。この魔法（まほう）の使用者（しようしゃ）の血（ち）は意識（いしき）を持（も）ってして、一人（ひとり）の人間（にんげん）に集（あつ）まりだす。終（お）わり絵（え）の魔法（まほう）が、始（はじ）まりを迎（むか）えるのだ。

　どれ程（ほど）時間（じかん）が経（た）ち、眠（ねむ）ったのか。何（なに）も分（わ）からずに僕（やつがれ）は目（め）を覚（さ）ました。

……なぜ生（い）きている。確実（かくじつ）に致死量（ちしりょう）の血（ち）を流（なが）したはずだ。僕（やつがれ）は昨晩（さくばん）の悍（おぞ）ましい記憶（きおく）と共（とも）に何（なに）かを、布切（ぬのき）れに向（む）け叩（たた）きつけた。

　急（きゅう）な吐（は）き気（け）に襲（おそ）われたのか。手探（てさぐり）りで見（み）つけた袋（ふくろ）に僕（やつがれ）は出（だ）そうとした。だが無理（むり）やり止（と）め、一気（いっき）に飲（の）み込（こ）む。

　酷（ひど）い不快感（ふかいかん）だ。喉（のど）が焼（や）けたのかと間違（まちが）うほどの痛（いた）みに、顔（かお）が歪（ゆが）む。声（こえ）とも分（わ）からぬ音（おと）を静（しず）かに上（あ）げ、初（はじ）めのようにまた黙（だま）る。そして、経（た）つ時間（じかん）と逸（はや）る気持（きも）ちなど無視（むし）し、僕（やつがれ）は悩（なや）んだ。あの兄（あに）を、その人間（にんげん）を、この世（よ）で憎（にく）まれて然（しか）るべき姿（すがた）に変（か）え、今（いま）も息（いき）を吐（は）くなど、決（け）っして許（ゆる）されぬ、許（ゆる）されてはならぬのだ、と。

　前（まえ）を見（み）る。此（こ）の存在（そんざい）は即（すなわ）ち人（ひと）、僕（やつがれ）の兄（魔物）だ。淡々（たんたん）と僕（やつがれ）は叫（さけ）びだす。呼吸（こきゅう）が逝（い）かれ、色（いろ）が変（か）わり、反転（はんてん）した。引（ひ）くように笑（わら）い、ひた廻（まわ）る視界（しかい）で必死（ひっし）に兄（あに）を眼で追（お）う。形容（けいよう）できぬ、形容（けいよう）してはいけぬ姿（すがた）の兄（あに）を。

　黒（くろ）……まさに黒（くろ）。黒（くろ）い影（かげ）。絶望（ぜつぼう）では無（な）い。だが涙（なみだ）も出（だ）せぬその身（み）は、生（せい）を縛（しば）り続（つづ）けるだけの装置（そうち）そのものか。まだ兄（あに）は確（たし）かに居（い）る、それなら生（い）きねばならぬ。ただ一言（ひとこと）、すまぬ。と繰（く）り返（かえ）す僕（やつがれ）は、何度目（なんどめ）かもしれぬ無力（むりょく）を嚙（か）み締（し）めた。

　いきなり肩（かた）を捕（つか）まれ、僕（やつがれ）は反射的（はんしゃてき）に払（はら）いのけ、述（の）べた「何者（なにもの）だ。僕（やつがれ）に触（ふ）れるなど、誰（だれ）が許可（きょか）した。」語彙（ごい）を荒（あら）げ、その者（もの）を観察（かんさつ）した。見（み）た所（ところ）医者（いしゃ）のような見（み）た目（め）だが、油断（ゆだん）できぬ。

　しかし、医者は語る。「いきなりすまない。ただ、そんな形相（ぎょうそう）で前（まえ）を見（み）ているから、てっきり体調（たいちょう）でも崩（くず）したのかと思（おも）ってね。」

　医者（いしゃ）もどきはそう呟（つぶや）くと、またも忌々（いまいま）しく話（はな）し出す。「私（わたし）の名（な）は、本庄（ほんじょう）誠（まこと）という。気軽（きがる）にホンジョウとでも呼（よ）んでくれ。先（さき）程（ほど）ほどは申（もう）し訳（わけ）ないことをした……まあ、悪気（わるぎ）が無（な）いと言（い）っても信用（しんよう）されていないから、無駄（むだ）だろうけど。他人（たにん）の分際（ぶんざい）で出過（です）ぎた真似（まね）だった。」