訪問【一話完結】

sasada

一話完結

 うだるような、茹で上がりそうな暑い日だった。日中の照り付ける日差しもさながら、日が沈んだあともなかなかの熱気である。日が出ている間は、直接太陽に文句の一つや二つも言えそうなものではあるけれど、沈んでしまえば文句はただの陰口。行き場のない虚しさが一つしか部屋がない狭い我が家に立ち込めていた。

 そんな虫も寝静まるような時刻に、俺は布団から起き上がった。暑苦しくて眠れたものではなかったのだ。どうやら寝ている間に冷房のスイッチを押してしまったらしい。薄ぼんやりとした頭と視界を頼りに、布団から少し離れたところにある空調のリモコンを掴んだ。ああ、この夏何回目だろうか、聞き慣れた電子音を鳴らす。

 窓際の風鈴が、音を立てて揺れた。最近の空調機器はよくできたもので、人の動きをセンサーで察知し、人を避け、部屋の上部から冷やすのだ。この企業努力によって、風鈴は趣を失いつつもカラカラと乾いた音を立てる。

 冷房の温度を慣れた手つきで調整しながら、二人掛けのソファに腰を深く落とす。そして部屋が冷えるのを待つ。もはやルーティンと言っても差し支えないこの一連の動きは、予期しないアクシデントによって崩される。俺がソファに腰を落としつつある時に、少し離れたテーブルに置いてあった携帯に電話が掛かってきたのだ。

 今すぐ電話にでるか、それともソファを堪能したのちに確認するか。実時間でおおよそ五秒、脳内時間約三十五分の会議により、今すぐ出るという結論に至った。両脚に力を入れ、座りかけの中途半端な体勢から抜け出すと、スマートフォンを掬うように手に取った。


 「非通知かよ」


 呟いた言葉通り、非通知であった。深夜に掛かってくるこんな怪しい電話など、普段であれば絶対に取ることはないのだが、ソファでの至福の時間を追いやってわざわざ手に取ったのだから、出るしかない。青いボタンを押し、耳に携帯を当てる。


 「もしもし、上条です。」


 やってしまった。必要のない情報を業者に与えるな、と故郷の母親に何度言われたことか。ああ、今年も台風が来なければ帰省できたのになあ、などと遠い我が家に想いを馳せつつ相手の出方を待つ。しかし、待てど暮らせど返答はなく、スマートフォンからは機械音しか聞こえて来なかった。あえて例えるならばその音は、深夜にテレビから聞こえてくる、耳鳴りのようなノイズに似ていた。

 一分ほど聞いていた頃だろうか、俺はそのノイズの奥に人の声のような音が混ざっているのに気づく。詳しく聴くためにスピーカー機能をオンにして、音量を上げる。同じ言葉を繰り返している、母音が「ア・エ・エ」であることはわかった、一体何を言っているのだろうか。この怪しい電話の謎をどうしても解き明かしてみたくなった俺は、自分側のマイクをミュートにしながらノイズを聴き続けることにした。


 外から男性の大きな声が聞こえた。ノイズを妨げたその声に、顔をしかめながらも声の所在を確認したくなった。ガラガラガラ、と窓を開けてベランダに出る。風が出ていた。ここら辺では珍しい、三階建てのアパート。その三階のベランダからは辺りの住宅街が見下ろせた。どうやら4人組の大学生が歩いていたらしい。酒が入っているのか、その声は少し掠れている。時間が時間だけに不快ではあったものの、電話への興味の方が勝った。俺はすぐさま部屋に戻り、窓の鍵を閉める。これだけ暑いと換気などとは言っていられない。


 微かに聞こえる声は少し変化していた。今度は五文字でループしている。俺が返事をしなくとも、通話を切ってこないのがいやに不気味だ。

 「今度はア、エ、ア、オ、ウの五文字か。」


 聞こえてきた五つの母音をメモ帳に書き出す。二文字増えた。

 少しずつしか冷えない部屋に焦ったくなったのか、風量を増やす冷房が風鈴を揺らす。俺は人を避ける機能をオフにした。今は風情だなんだとは言っていられない、俺はこの通話を解読したい。いや、しなければならない。今はただ使命感に駆られていた。


 「イヤホンを持ってこよう。」


 より詳しく聴くためにイヤホンを取ってくることに決めた。おじゃんになってしまったものの、昨日まで帰省の準備をしていたため、イヤホンは玄関に置いてある鞄の中にあった。スマートフォンを片手に玄関まで向かう。その間も通話の向こうでは五文字が回転していた。

 鞄を開ける。普段はあまり音楽を聴かないので、俺はイヤホンを奥のポケットに入れていた。照明をつけるのもまどろっこしく、居間から漏れる灯りを頼りにイヤホンを探す。ア・エ・ア・オ・ウ。ア・エ、ア・オ・ウ……


 考え込んでいる際中に、金属製のドアの向こうから、何か重いものがぶつかってくる鈍い音がしたものだから、俺は飛び上がり、ドアから目線を外さず居間へと後退する。早鐘を打つ心臓の音がよく聞こえる。汗が一滴背中を伝って、下半身に向かう。五感がいつもより鋭敏に感じる。


 けれど、続いて聞こえてきたのは呂律の回っていない男の声だった。どうせ隣の部屋のサラリーマンが酔っ払ってぶつかったのだろう。俺は1.2倍速での活動を続ける胸を抑えながら冷房を切った。もう十分だった。飛び上がる寸前に指先で探り当てたイヤホンをスマートフォンに接続する。スマートフォンがイヤホンに対応し、一時的に通話は無音となった。


  ――風鈴の音が聞こえる。

 俺は耳にはめる部分を右手で掴み、耳に近づける。音が明瞭になっていく。

 風鈴の音が聞こえる。

心臓の鼓動が少しずつ平常に戻ってくる。

 風鈴の音が聞こえる。

二文字目の母音が、「イ」だとしたら。

 風鈴の音が聞こえる。

生温い風が、後ろから俺の喉元に迫る。

後ろから風など、吹くはずはないのだ。


――風鈴の音が聞こえる。

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