第11話 羨望


 衝撃が着物を持った手に伝わる。そして、


「きゃっ」


 靖菜が手を離して尻もちをついた。落下の衝撃に耐えられなかったのかと、血の気が引いていく。だが、それは思い違いだった。


「ち、千昭……私、ああ……そんな」


 靖菜はその腕に落下した赤ん坊を抱いていた。ピンクの乳児服を着た一歳になるかならないかくらいの彼、ないし彼女は、きょとんとした顔で靖菜の顔を見つめている。ぼくの予想通り、落下した赤ん坊は布の上で跳ねた。だが、靖菜の豊かなバストが受け止め、そのまま彼女がキャッチしたのだ。


 ぼくは、靖菜は、未来を変えてやったのだ。


 周りからどよめき、そして頭上から事態に気づいたと思しき母親の悲鳴が聞こえてくる。遅すぎだ馬鹿やろう。


 ふいに、全身の力が抜けた。その場にへたりこんでしまう。アドレナリンを出し尽くしたであろうぼくの体は、糸の切れた操り人形のようになってしまった。靖菜はそんなぼくを、呆然としながら見ている。ぼくは周囲の邪魔が入らないうちに、彼女への不満をぶつけることにする。


「ぼくはきみを殺す予定みたいだし、きみの弱みにつけこんで脅迫もした。おまけに体に強引に触った。ぼくへの好感度なんか全くなくて、これ以上嫌われる余地もないだろうから、言いたいこと言ってやるよ」


 彼女の苦痛を聞いたとき、ぼくの中で生まれた感情の正体が分かった。


「靖菜。ぼくはきみが、きみの能力が心底羨ましいよ」


 心の底からの嫉妬。それが浅ましいぼくが抱いた感情だった。


「悲惨な光景を、誰かが傷つく姿を見たくない。めちゃくちゃ分かるよ。嘘みたいに聞こえるかもしれないけど、靖菜の話を聞いたら、自分のことみたいに苦しくなったよ」


 だってぼくも、似たようなものを毎朝見続けているから。でも、


「でも、ぼくは靖菜が羨ましくてたまらないんだ。だってきみに視えるのは、変えることができるかもしれない未来なんだろ。ぼくのは、もう、どうしようもない、終わったあとの過去なんだぞ。きみみたいに、変える機会すら、ぼくはもらえないんだ」


 自分が視てきた変えようのない過去。苦しむ家族の姿を思い出して、泣きそうになっているのが自分でも分かる。ぼくは震える腕で強引に目元を拭った。


「きみが何を見てきて、何を言われて、どんな絶望を経験してきたか分からない。だけど、もしきみが、そんなことで未来を変えるのを諦めるのなら」


 精いっぱい強がってでも、言ってやる。ぼくを殺そうとした、自分がどれほど恵まれているか理解していない、この綺麗でむかつく女に。


「代わりにぼくが変えてやる。きみがやらないなら、その権利を奪って、ぼくがきみの未来を変えてやる」


 靖菜は目を大きく見開いて、顔を上気させた。靖菜は色白だから、赤くなっているのがよく分かる。さぞぼくの演説にご立腹だろう。ぼくはきみ以上に怒っているんだぞ。バーカバーカ。


 そうやってぼくが浅はかな満足感に浸っていると、聞きなれた声が聞こえてきた。史音だ。


「おーい! ふたりともー! どしたー!」


 ああ、これは説明が面倒になりそうだと、ぼくがため息を漏らしたとき、靖菜は立ち上がって、抱いていた赤ん坊をぼくに押し付けた。


「え、あ、は?! ちょま!」


 靖菜は顔を両手で押さえながらその場から立ち去った。いや、確かに言いたい放題言ったけど、そこまで怒ることあるか?!


「あ、靖菜ちゃんまってー!」


 しかも、史音は腕の中の小さい命の扱いに苦慮するぼくの方ではなく、走り去る靖菜を追いかけに行ってしまった。

 その場に取り残されたぼくは、周囲の通行人から次々かけられる言葉に返すこともできない。おまけに腕の中の赤ん坊が大声で泣き始める。そりゃ、顔の近くにあった柔らかい美少女のおっぱいが、青臭い男の固いあばら骨に変わったら、誰だって泣きたくなるだろう。悲しくも納得してしまった。


 騒がしい。いくつものスマホのカメラがぼくに向けられ、シャッター音と録画音が鳴り続ける。赤ん坊も泣き止まない。


 ぼくはまた、ドラマフリーな生活を自分から手放してしまった。

 

 だけど、どうだろう。未来を変えられた、その証明である赤ん坊の体温を感じるぼくは、人生史上、いまだかつてなかった満足感で胸がいっぱいだった。

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