第10話 落下


「ねぇ。靖菜はコーヒーが好きなんだよね」


 ぼくの問いに靖菜は気だるげに顔を上げる。まぁ話の流れをぶった切る質問だったから、彼女の不満げな視線は致し方ない。


「そう言ったけど」

「じゃあさ」


 ぼくは靖菜のカップを指さす。


「なんで一口も飲んでないの」


 ぼくが見ていた限り、靖菜はカップに口を付けていない。それどころか、プラスチックの蓋すら開けていない。


「冷ましてから、飲もうと思っただけ」

「正直に言うと、ぼくはコーヒーの良さが分からない。でもぬるくなったコーヒーが美味しくないってことくらいは知ってる」


 理由は酸化が進んで、風味が変わるからだったような気がする。だが問題はそこじゃない。


「嫌いなんだろ。コーヒー」

「……決めつけないでよ」

「じゃあ、それ、飲めよ」


 ぼくの要求に靖菜は嫌そうにカップの蓋を開け、口元まで運ぶ。そして沈黙した。


「……」

「もし認めたくないって言うなら、写真を撮って見せようか。すごい顔してるぞ」


 艱難辛苦を顔で表現するとこうなるんだ、と思えるほどに、靖菜は顔を歪めていた。


「なんで嘘ついたんだよ」

「言いたくない」

「分かった。当てる」


 靖菜は善良な人だ。史音のことをうっとおしく思っていても、助けに入るほどには。そんな彼女が気分じゃないから、という自己中な理由で、嘘までついてまで目的地を変えさせるだろうか。否だ。


「きみはどうしても史音をハンバーガーショップから遠ざけたかった。何故か」


 つい最近も似たようなことがあった。理由も知らせず、ぼくと史音に学校から遠ざかるよう、靖菜はメッセージを発した。理由はぼくと史音がトラウマになりかねないものを見ないようにするため。だが、ぼくらは靖菜が理由を言わなかったから、警告を無視して学校へ向かってしまった。


「靖菜、きみが優しい人だからだ」


 優しい彼女は、次に同じことがあっても、ぼくたちを守ろうと思った。自分が見た悲惨な光景を、ぼくたちに見せないようにしなければと思った。ぼくと史音の心の平穏のために。


「教えてくれ」


 だから靖菜は嘘をつくことにした。本当のことを言ったら、じゃあ悲惨バッド未来エンドをどうにかしよう、と言い出す奴がいるからだ。そして、それは上手くいった。今、この瞬間までは。


「ぼくたちが向かう先で、何が起こる未来を視たんだ?」

「知らない」


 靖菜は顔をそらす。嘘をつくのが下手すぎる。


「誰かが転んで怪我するくらいのレベルじゃないはずだ。数多くの悲劇を見てきた、きみが目を逸らしたくなるほどの未来なんだから」

「違う」

「違うなら、言ってくれてもいいだろう」

「言いたくない。私を殺せないような根性無しになんか、言いたくない」


 靖菜は勝ち誇ったように口元を歪めた。ぼくがなにもできないと、タカを括っている。


「私のこと殺せたら教えてあげる」


 ああ、そうかい。じゃあお望み通り殺してやる。だけど肉体的にじゃない。社会的にだ。


「そうかぁ! まいったなぁ! こりゃぼくの負けだぁ!」


 ぼくが急に立ち上がり大声を出したから、靖菜は驚き肩を強張らせる。


「ドラマフリー同盟きっての未来予知者であるきみがぁ! そう言うならどうしようもないぁ!」

「ちょっと、なに言って――」

「過去を視るぼくじゃぁ、未来のことはどうにもできないしなぁ! 嗚呼、困ったなぁ!」


 店内にいる客の視線が騒がしいぼくに集まる。史音たちも何事かとぼくたちの方を見ている。それを確認したぼくは、さっき靖菜がしていたように意地の悪い笑みを浮かべて、靖菜を見下ろす。逆にぼくを見上げる靖菜の目は潤んでいた。


「バカ、やめて、お願いだから」


 ようやく気が付いたか、正義のヒーロー殿。ぼくは危うく高笑いしそうになった。


 古今東西、非現実フィクション現実ノンフィクション問わず、異能者が最も恐れることは何か。それは自分の能力が露呈すること。暴露によって少数派マイノリティ、もしくは異常者アブノーマルとして迫害されること。これに尽きる。だからぼくは自分の能力を隠してきた。友人はもちろん、家族にだって話していない。

 だが靖菜は違う。恐らく学校での様子が変わり心配する親に、自分のことを理解してもらおうと現状を打ち明けた。そして妄想と現実の区別がつかなくなったと、レッテルを貼られた。その辛さを誰よりも知っていて、同じ苦痛を他の誰にも味あわせたくはないと思っていることだろう。靖菜ほどの優しい人なら、きっとそうだ。その苦痛を受けるのが、赤の他人の史音でたとえあったとしても、だ。


「光を付けるだけの史お――」

「言うから! 言うから黙って、お願い!」


 靖菜の声はほとんど悲鳴になっていた。ぼくは身をかがめて靖菜に近づく。靖菜は恨めしそうにぼくを睨む。


「この……クズ野郎」

「何が起きるんだ、教えてくれ」

「……赤ちゃんが」


 俯く靖菜が紡ぐ言葉はあまりにも弱々しかった。


「マンションのベランダから落ちて死――」


 ぼくは彼女が言い終わる前に走り出し、コーヒーショップを飛び出した。


 周囲からサイレンの音や、平日午後の賑わい以上の音は聞こえない。幼子が付近で激突していたら、もっと騒がしいはず。つまり、まだ靖菜が予知した絶望的な未来は訪れていない。

 だが、靖菜がわざわざ目的地を変更させたことを鑑みると、時間的余裕はないと思ったほうがいい。自分の乏しい知識と経験をフル動員させたぼくは、普段なら絶対入らない店へ駆け込む。


 ぼくが足を踏み入れたのは呉服店だった。案内係とでも言えばいいのか。正しい知識がないので分からないが、着物を着た店員が息を切らしたぼくを怪訝そうに見ながらも、いらっしゃいませと声をかけてくる。

 ぼくは手近にあった、これまた、ぼくとは一生縁のなさそうな着物を強引にひったくった。


「すいません! 借ります!」

「え、ちょっと、お客様!」


 後ろから「警察を呼んで!」という店員の声が聞こえるが、全力で無視する。着物を半ば引きずるようにして、史音が向かおうとしたハンバーガーショップのある路地に戻った時、ぼくは自分の愚かさにようやく気付いた。


 ちくしょう。どのマンションから落ちるか分からない。


 仙台のアーケード商店街から路地に入れば、雑居ビルとそこそこの大きさのマンション、アパートが乱立する地帯になっている。だから『どこかマンション』という言葉だけで、悲劇が起きる場所を推測するのは不可能だ。

 それを知る人間に話を聞かなければと慌ててスマホを取り出そうとしたところ、真後ろから求めていた声が聞こえた。


「ねぇ、やめてよ」


 ぼくの後を追ってきたのであろう、靖菜が目に涙を浮かべて立っている。


「こんなことしても、意味ないって」


 意味がないだって? 冗談はぼくを殺そうとしたことだけにしろ。


「私が視た酷い未来なんて、誰も見なくたっていいよ……」

「知るかバカ!」


 ぼくは思わず靖菜の肩を掴んでしまった。紳士失格、ドラマフリー失敗。だが、それで済むなら安いものだ。


「頼む、どこから落ちるか教えてくれ」

「わ、わかんない。言ったでしょ、気が利いた予測はできないいて」

「だとしても、全く分からないってことはないだろ。目印になりそうなものや、建物の色。何でもいい、思い出してくれ!」


 ぼくに肩を揺さぶられた恐怖か、はたまた必死に予知した未来を思い出そうとしているのか。靖菜はぎゅっと目を瞑った。


「……赤い、レンガっぽい建物。近くにピンク色のタオルケット」


 靖菜の言葉を聞いて、ぼくがすぐさま周囲を見渡した。


 見つけた。


 すぐ近く。10階ほどの高さの年季の入ったマンション。そのマンションの5、6階くらいにあるベランダで、何かが動いているのが見える。


「おい! マンションに住んでる人! 子供が、子供が落ちるぞ!」


 叫びながら真下へ走る。叫び続けるが、マンションから誰かが反応する気配はない。


「靖菜、これ持って!」


 靖菜に着物の一端を無理やり握らせた。


「これを広げて、受け止める」

「無理だって。絶対無理」


 靖菜はいやいやと首を振るが、強引に肩を押して、ぼくから離れさせた。


「落ちる場所は分かってる。だから受け止められる」


 だが、受け止め方は工夫する必要がある。


「靖菜は持ったまましゃがんで」


 ぼくは逆に立ったまま着物の反対側を持つ。着物の生地が坂道のように斜めになる。

 姉が見ていた消防士のドラマで、似たシーンを見たことがあった。高所から落下する物体を毛布や布で受け止めることはできる。だが布をまっすぐ地面と平行にして張った場合、落下の衝撃で布が破れたり、トランポリンのようになって、最終的にキャッチし損ねる可能性がある。斜めであれば、衝撃をある程度は殺せるし、跳ねて落ちても垂直な落下よりはマシになる、はずだ。


「赤ちゃんがいる部屋の人! 早くベランダを見て!」


 叫び続けるが、ベランダの縁から外へせり出す子供の影は動き続ける。受け止めるしかない。靖菜を見る。彼女は未来に、誰かの死に怯えて、俯いてる。


「右に、半歩動いて。大丈夫、大丈夫だ」


 半分は靖菜に、半分は自分に言い聞かせるようにぼくは喋りながら、位置を微修正する。


 そして、ぼくたち以外の地上にいる何人かの通行人が、危険な状況に気がついて声を上げ始めた時、ベランダから覗いた影が完全に空中へ飛び出した。

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