200×年 7月 関東

ただでさえ人の多い繁華街でファーストフードの店員をやってると色々な客を見る。

だからちょっとやそっと変わった客が来ても驚かない。

それでも、たまーに「ん?」と思う客が来る事はある。


その日の夜遅くに来店したのは、ずいぶんくたびれた感じの中年の女性と、ごつい20代ぐらいの男性だった。

しかもこんな時間に。

この二人、どういう関係だ?

上司と部下…じゃなさそうだ。

くたびれた女性は猫背で卑屈な印象を受ける。

なんかもうオーラがよどんでて世界中の不幸を一身に背負ってるような感じだ。

親戚同士かな?

若い男性はトリプルビッグバーガーセットを頼んだ。

くたびれた年配の女性は何も頼まなかったが、男性が見かねてその女性にサラダや烏龍茶、チキンナゲットを頼んだ。


二人は席に着いた。

女性はきょろきょろと辺りを見回している。

「ここまで追ってくるわけねえよ」

男性が物騒な事を言った。

え、追われてる?

まさか訳ありの客?

ちょっと勘弁してよ、私がシフトの時にめんどくさい事態とか…

女性が言った。

「こんな時間に外に出て、しかも外でごはん食べるなんて、初めてだわ…」

「覚えてるか。これ。トリプルビッグバーガー」

「ああ…昔、食べれなかったんだよね…」

「見て。これ」

男性は女性に何か紙のようなものを見せた。

遠目でもわかる。

当店のレシートだ。

「セットで450円。大人になってさ、実際に自分で働くようになってわかったよ…トリプルビッグバーガーセット450円がどれだけの額か…」

男性はため息をついた。

「450円てさ…学生のバイトでも1時間で稼げる額なんだよな…へたすりゃ小学生の小遣いだよ。大の、既婚者の、大人の男がさぁ…たったその程度をケチってたんだなって…おふくろがたったこれだけの額を貯めるのに苦労したんだって…これが分かった時は…情けなくてもう…失望したよ」

確かに450円ならこのハンバーガーショップの1時間の時給にも満たない。

「なぁおふくろ…ぶっちゃけうちって、どんだけ貧しかったの?」

あ、やっぱり親子なんだ。

「え?」

「いつもいつも金に困ってた記憶はあるけど、今になって子供の時の事を思い出すと不気味な事がいっぱいあるんだよ。…俺、確か駄菓子屋のお釣りか何かの小銭を引き出しに入れっぱなしだったんだけど、それ見つけた親父がすごいニタニタ笑いながら『正継、この金はおばあちゃんにあげなさい』って言ってきてさ。親父の言う事に逆らったら殴られるのわかってるから金渡したけど、どう考えてもあれ、10円1円の小銭しかなかったよ。子供のそんな小銭を没収するほど困ってたわけ?」

えー…子供から10円1円を取り上げる大人…そんなのいるんだ…。

「ち、ちがうの…収入はあったのよ…共働きだったし。でも、お父さん、あの通りでしょう。会社の部下の世話焼きで、会社の飲み会とか夜のお店とか家出の宴会とかにジャンジャン使っちゃうタイプで…お義父さんもお義母さんも同じなんだもの。だからうち、それが、3倍で…」

なんか知らんけど苦労したんだなぁ。

「ごめんなさい…」

年配の女性は深々と頭を下げた。

「なんでおふくろが謝る。あともう、卑屈になるな。そんなだからあいつらにいいようにされてきたんだよ」

男性が怒った。

店内のテレビではバスケの試合の中継が流れている。

女性はテレビを見て言った。

「あの人ね…よく近所のたかしくん見るたびに、なんで正継はあんな風にならなかったんだってよく私に言ってたわ」

バカじゃねぇの、と若い男性が言った。

「たかしくんちは親父さんが昔から子供達と一緒にサッカーとかバスケとかよくしてたじゃん。よく家族でキャンプとか外遊びとかスポーツ観戦とか行ってたし。あの家は、子供がスポーツを好きになるよう大人が努力してたんだよ。俺は、あいつらに遊んでもらった記憶なんか微塵もねえよ。ボール遊びの一つすら記憶ねえよ。それをおふくろに言ってどうすんだよ」

「母さん…間違ってたね…母親失格ね…」

「ああ、とっとと逃げださなかった時点で失格だ」

年配の女性は肩を細かく震わせた。

事情はなんとなくわかったけど、実の母親にずいぶんな事を言うなあと思った。

店内は人が少ない。

何となく、あの席の二人の会話が漏れ聞こえてくる。

「…まぁ、女が三人がかりで20年近くボコられ続けたら、おかしくもなるよな」

さ、三人がかりでボコられた?

「私…おかしかったのね」

「違う。おかしくさせられたんだ。泣くぐらいならちゃんとシェルター行って新しい人生歩んでくれ」

シェルターって確か…DVされてる人なんかを匿う施設だっけ?

あー、そういうことかー。

DVって本当にあるんだ。

言われてみると年配の女性の顔、アザとかが多い気がする。

うちは夫婦喧嘩すらほとんどしない家庭だったからDVとか聞いてもいまいち「?」って感じだった。

「あの人はね…常に、一番になりたい人だったの…仕事でも、家族でも、鬼課長の息子ってプライドで生きてるの…」

年配の女性は語り続けた。

「学生時代は常に一番目指して柔道頑張ってるあの人がすごく眩しくて、立派な人に見えたの…少しでも私にできる事があったら応援したいと思って…」

ああ、ひどい目に遭ってもまだ情があるってやつね。

DV被害者に多いタイプだ。

そして加害者はなぜかそういう被害者を嗅ぎつける嗅覚がすごいって聞いた事ある。

私には理解できない。

「おふくろ。悪いけどあんたの思いやりはあいつらには全然通じてないよ。ただの奴隷としか見てないよ」

「えっ…」

「何かのマンガで読んだけど世の中二種類の人間しかいないらしいよ。奴隷を使う人間と、奴隷。前者は、奴隷がどんなに尽くそうとそれが当たり前だと思ってるから全く感謝しないんだって」

「あんた、マンガなんか読んでるの?」

「こっちに来たら大人でも読んでる人たくさんいるよ。職場で流行のマンガの話するぐらいだし。だってマンガがドラマになってるぐらいだし。大人が読むマンガだってたくさんあるし」

うんうん、私もマンガは大人になっても読んでる。

バイト代入ったら好きなマンガの新刊買う予定だし。

「マンガがドラマに…? そんなの知らないわ」

「そりゃ〇〇県はチャンネル少なかったからな。だいたいジジイがいっつも見てた子連れ狼とか木枯し紋次郎だってもともとマンガじゃん」

「木枯し紋次郎は確か小説よ」

「え、そうなん? おかしいな、漫喫でマンガ版見かけたような…あ。木枯し紋次郎といえば…クソ、嫌な事思い出しちまった」

「なにかあったのかい?」

「ジジイがさぁ、ある時、時代劇スペシャルの木枯し紋次郎見ろって言うからテレビの前で2時間正座で見させられたんだよ」

「そんなこと…あったの?」

「終わった後、ジジイが、どうだ!って言うんだけど、ガキだから時代劇のストーリーとかわかんなくて、うまく答えられなかったらいつもの折檻だよ」

え?

感想を答えられなかったら折檻?

話が急すぎる。

時代劇なんか私だって滅多に見たことない。

「お義父さんはいつもそうだもんね…何が気に食わないのかわからないから…でも、なんだったのかしらね」

いつもそうなんか…

「…何か知らんけど、木枯し紋次郎って貧しい村に生まれて本来は間引きされる赤ん坊だったんだって。それがなんか、祭りの日に生まれた子は間引きしなくていいみたいなルールがあったらしくて、紋次郎の姉ちゃんが祭りの日まで赤ん坊の紋次郎を隠したとかそんな設定あってさ」

「ああ…そういえば、そんな話だったね。あれ」

「ジジイは俺に木枯し紋次郎を見せる事で、平和な世の中で何不自由なく生きてる事を思い知らせたかったらしいけどそんなんガキにわかるわけない。『せっかく木枯し紋次郎を見せたのに何だお前は!!』って一晩中孫の手でぶん殴られたわ」

???

………いやいやいや、話が全然見えない。

なんでそれで殴られるのか全然意味わからん。

…ジジイってのはたぶん、おじいちゃんの事だよね。

間引きはわかる。

学生時代、歴史の本か何かで読んだ。

つまりおじいちゃんは幼い頃のあの男性客に

「おじいちゃん、ボクを間引きしないでくれてありがとう」って言って欲しかったってこと?

うわ気持ち悪、吐き気がしてきた。

「ごめんね…お母さん全然覚えてない…そんなことあったなんて…」

「そりゃ覚えてないよな。こんなん毎日の事なんだから。ま、それはいいや。でさ、話戻るけどあいつらが一度でもおふくろに感謝したことあるか? 朝から晩まで仕事と家事と子育てやって、おふくろの稼ぎまでババアに管理されて、自由に出来る金が1円も、自由にできる時間が1秒もない生活を強いてきて、その中で一度でも、いつもすまんな、とか、ご苦労さん、とか言われた事あるか?」

ええと、これ本当に平成の日本の話?

年配の女性は黙りこくってしまった。

「言う訳ないよな。 奴隷に、いや、道具にいちいちそんな事言うヤツいるわけねえ」

奴隷…

「賭けてもいいよ。こんな時間になってもおふくろが戻って来なくても、あいつら絶対通報すらしてないから。帰ったらどうおふくろに誠意を見せさせるか、それと飯の事しか考えてないはずだから」

「……………」

話を聞いてるこっちも胸糞悪い。



「おふくろ、いいかげん離婚しなよ」

「でも…」

「あいつ、実の娘の友達に手ェ出したんだろ。そんな男と夫婦でいる意味ってなんだ?」

は?

いきなりもっと物騒な話出た。

「そ、それは違うよ、手を出したなんてそんな……あの人は…自分の娘が友達を連れてきたから…お義母さんも、若い人が来たから料理とか家事とか色々アドバイスしてあげたくなって…あの年代の人ってね、若い人を見るとあれこれ教えてあげたくなるもんなのよ…」

「おふくろ。俺はここで色んな県の出身の人に聞いてまわったけどな、子供が家に連れて来た友達に家事させるとかありえないってみんな口をそろえて言ってたぞ」

え?

子供が連れて来た友達に家事を?

「え…」

「俺も…昔から親父もじいさんもばあさんもそうしてたから、それが当たり前だと思ってたよ。でも、ここのみんなはドン引きしてたよ。普通、お客さんに絶対そんなことさせないって。それは当たり前だって言う人もいたけど少数派だった」

少なくとも私の家じゃ絶対考えられない。

たぶん私の友達もそうだ。

そんなことされたことないし。

そもそも今日来たばかりのお客さんに、家のものを勝手にいじられるのも困る。

「あと女にクッキー作らせるとどんな女でも仲いい友達になるってのも他ではないらしいな」

は?

クッキー?

「会社にさぁ、子供の頃からの幼馴染だっていう女子社員がいたから、やっぱクッキー作って仲良くなったのかって聞いたんだよ。そしたら、何それって言われて…」

クッキーを作って仲良くなる?

どういうこと?

「誰に聞いても、なにそれ、どこの国の迷信?って言われたよ。おかげでしばらく女子社員にキモいって言われたわ、ははは。…わかる、女はそういうもんだって賛同してくれる人はいたよ。いたけどマジで年寄りばっかでさ。若い人たちは理解できないって。なんかそれ見て、ザーーッとこう、頭の波が引いた感じした。うまく言えないけど」

元々仲いい友達とかとお菓子作ったらもっと仲良くなるだろうけど…

「そ、そうなの…? 私…初めてお父さんの家にお呼ばれした時、お義母様に叱られながら夕飯作らされて…お義父様に、次はお義母様とクッキーを作れ、そしたら女は仲良くなる、わかったなって…そう言われたからてっきり…」

初めて家に来た人に夕飯は作ってほしくないなぁ…

お客さんだって勝手のわからない家で家事なんてできないでしょうに。

「そうそう…本田の話だと、たしか原だったか原口だったか」

「ああ、原田さんね」

「そうそう原田。俺、会った事もない人間の名前覚えるの苦手なんだよな」

「お淑やかで清楚な美人さんだったよ。その子がうちに来た時ちょうどテレビで結婚式場のCMやってて、それ見て原田さん、教会より神前式に憧れるとか将来は大家族が夢なんです、とか言ってたっけ」

「その子が記録更新したんだよな。家に呼んで3日しないうちに夜逃げ同然で転校したんだって?」

年配の女性は黙りこくってしまった。

「それまでの子達も、家に呼んだあと、一週間もしないうちにみんな転校してったんだよな。セクハラじゃないにしても、あいつらは確実にその子達が嫌がる事を、3日で転校や夜逃げを決めるような事をやったって事だろ」

「で、でも、あの人は…あの人は…そんな事はしないのよ…夜の店は行くけど…素人でしかも子供相手に…そんな人じゃないよ…断じてそんな人じゃ…」

そのとき男性は携帯を出した。

「……これ、こないだ久しぶりに御梅軒食いたくなって検索してて、それで偶然見つけたブログなんだけどさ」

「ブログ…?」

「ネットで書く日記みたいな奴。芸能人とかよくやってるだろ」

「あ、あんたネットなんかやってるの? 大丈夫なの?」

「いまどきネットなんか小学生でもやってる。最近じゃ小学校にパソコン導入しようなんて話まで出てんだぞ。そんでこれな。県外の会社に就職したけど合わな過ぎてノイローゼになった人のブログ。地名とか名前はぼかしてあるけど、もう、読めば読むほど〇〇県と株式会社〇〇産業の事としか思えないんだよ」

「ええ…?」

「ほら、ここ」

男性は携帯の画面をお母さんに見せた。

「…研修で…女の子に…抱き着…嘘……」

「松葉杖で薬草臭いマッチョの40代ぐらいの上司らしいよ。いかにも感動のハグっていう風にしてるのが卑怯だよな。もしかして本人的には本当にやましい気持ちはなくて感動のあまりそうしただけかもしれんが」

…それはそれで、問題じゃないの?

全体的な話は全然見えないけど、中年の男性が女の子に抱き着いて「感動のあまりハグしたんだ、やましい気持ちは一切なかった、感動ゆえの行為だ」とか言ったらますますヤバイ気がする。

少なくとも、もし私がそうされたら私のお父さんなら相手をボコボコにぶん殴ってると思う。

てか今、研修って言った?

そんな地獄絵図な研修ってどんな研修だよ…

「なあ、親父が飲酒運転で自損したのって確か去年だったよな」

「そうよ…病院代もったいないからってお義母さん特製のドクダミ湿布、これでもかって貼って、もうすんごい臭くて、お母さんなんか頭痛くなりそうで、もう今年の研修は休んだらって言ったんだけど、いや俺は小鬼課長だ、研修とは命より大事なもんだって言い張って、ご近所さんからお古の松葉杖借りて…」

「あいつ、会社の研修だけは何があっても毎年行ってたもんな。そりゃそうだよ、こんな福利厚生があるんじゃ大怪我してようが病気してようが行くわそりゃ! あーあ、役得だよな!」

そこで年配の女性はわんわん泣きだした。

いつもなら他のお客様のご迷惑になりますのでと止めに行くが、今日は他のお客さんも少ないので黙っておく。

なにより、止められないよこんなの。

「あの人の…世話焼きなところは…そういうところは…高校の柔道部の主将だった頃…部員に慕われてた時と変わってないと思ってたのに…家にしょっちゅう会社の人連れてきていきなり飯作れって言うのも、もうお金がないのにしょっちゅう飲み屋や夜のお店に行くのも、部下におごってるからで、部下から人望があるからだと思ってた…どれだけ皆さんのごはんの準備が大変でも、これであの人の株が上がるならって思って…一生懸命料理も片づけも毎日の掃除もがんばったのに…お金だって…飲み屋さんのツケだって…お義父さんの呑み代だって遊び代だって車代だって…お義母さんのお花の教室のお金だって…ずっと…私の実家から仕送りしてもらってたのに…」

「マジかー…あいつらマジでおふくろに甘えまくってたんだな。俺には、男に生まれた以上甘えは許さんとか言っといて」

「絶対に研修に行くんだって言うあの人…責任感の強さからそうしてるんだと…なんだかんだ言って立派だわ、この人と結婚して良かったって思ったのに……まさか…まさか…自分の娘ぐらいのよそ様のお嬢さんに……何やってんの情けない…おぞましい…気色悪い…自分の娘ぐらいの…」

「俺も〇〇産業の研修がえぐいって話は先輩とかから聞いてはいたけどこれ読むまでここまでとは思わんかったわ。 このブログ書いた人、結局精神病んで会社辞めて実家に帰ってんだよ。 あとさ、この人、外回りしてる時にスーパーで変質者に遭遇してんだけど、これ絶対△△スーパーのことだよ。てことはこの人、うちの近くにも来たんだな」

「……△△スーパーは…昔から女の子の間で言われてたよ…変な人出るって……でも、あの人もお義父さんもお義母さんも、自分達は何十年もここに住んでるのに変質者なんか見た事無い、嘘をつくなって聞き入れなくて……やっぱり本当だったのね」

しばらく女性のすすり泣きが静かな店内に響いた。



「しかし、わからんなぁ…」

ひととおり食事が終わったあと、男性が言った。

「このブログの人が思いきって会社から逃げる時さぁ、当然会社の連中に引き留められんだけど、そんときなぜかみんなで『思いやりの歌』を合唱してんだよ」

思いやりの歌?

そんな合唱コンの歌あったっけ?

「それだけで、この人が心変わりすると思ってたぽいんだよ。〇〇会社の連中。意味わかんねぇ。あの会社マジで宗教か何かやってたの?」

女性は、携帯電話の画面を見て、またとんでもない事を話しだした。

「あるときね…あんたたちが学校行ってる間、お母さん熱が38度出て…流石にどれだけ殴られても蹴られても身体が動かなくて…ついにはお義母さんやお義父さんもあきらめて、怠けもいいかげんにしろってほっとかれて…」

この人、本当に日本にいたの?

どっか外国じゃないの?

「…ほんと…ひどかったんだなうちって…病院は…行かせてもらえるわけないよなぁ…」

「そのまま寝てたら…なぜかお父さんが、○○産業の社長さんを家に連れてきてね…社長さん、おっきなギター持って来て…」

は?

重病人のいる家に社長?

そんでギター?

社長さんにうつしたら大変じゃね?

「そしたらいきなり社長さんが歌いだしたのよ。『思いやりの歌』を」

お見舞い…のつもり?

「お母さん、何がなんだかわかんなくてぼーっとしてたら、お父さんに、どうだ!って言われて…はぁ…って言ったら、社長がせっかくお前のために歌ってくださったのに失礼だろ、今ので元気になっただろ、とっとと起きて茶でも出さんか、お前はつくづく、そういう思いやりがない奴だってひっぱたかれて…」

「……………」

……………意味がわからん。

「回んない頭で必死でお茶の用意してたら、社長さんが、『やっぱりこの歌にはなにか神通力があるとしか思えん。俺が歌って聞かせると必ずみんな素直な思いやりの心を取り戻すんだよ』って笑い出してね…。

そのあと、社長さんが市会議員に立候補するから協力しなさいって、社長さんの議員計画話に何時間も付き合わされてね…いつか『思いやりの歌』を国連のテーマソングにすれば世界から戦争も差別もなくなるから、そのためにまずは政界に参戦するんだって…」

何? 国連のテーマソングって?

「…確か中学の時、家帰ったらなぜか社長が来てた時あったな…まさか…まさかそんなアホな話してたなんて…バッカじゃねぇのいい大人が…」

で、当選したの?

「そういえば結局社長って当選したん?」

「落選したわよ」

思わず、吉本新喜劇だったらズッコケてるなと思った。

「社員も顧客も関係者も全員巻き込んだのにね。お母さんだって散々手伝いさせられたわよ。社長さん、自分が落選したのは世の中から思いやりの心が減ったからで今の世の中はおかしいって嘆いてたらしいわよ」



「でも…お母さん、ずっとこのままじゃ、いけないわね…あの人達だって、いつかは警察に行くかもしれないし…」

「俺が一応現状報告の手紙書いとく。おふくろも俺もそっちには二度と帰らん、お前ら勝手に野垂れ死ねバーカ、ってな。離婚届と一緒に出しとくよ」

男性は笑った。

なんか、凄く空しい笑い声だ。

「そういえば…あんたどこに引っ越すの? 関東、出るの?」

「タイ」

「タイ…?」

「外国だよ」

「えっ…でも外国なんて大丈夫なの…」

「タイで仕事してる先輩がいるんだ。最初はその人を頼る。もう話はついてる。俺の家の事、色々相談乗ってくれた先輩で…」

男性はふと思いついたようだ。

「あ、そうだ! いっそ、おふくろも来るか?」

「え…と…タイって…どんなところなの?」

「暑い。でも先輩の話だと日本人にも比較的住みやすいらしいし、日本人も多いって」

「…外国なんかに逃げたのがあの人達にバレたら本当に殺されるね。外国なんかに行くのは不良か麻薬の売人だけって言ってたもんね、あの人達」

いやいやいや、私だってこないだ友達とバイト代で台湾に遊びに行ったし。

高校ん時同じクラスの子はアメリカにホームステイしてたって言ってたし。

「あいつら外国なんて絶対追ってこれねえよ。あー、そうだな、おふくろもタイに行くのが一番安全かもな」

「私…なるべく正継に迷惑かけないようにするから…言葉も勉強するし、私も働くし、家事もするから…」

「余計な事は考えるな。とにかく休んでくれ。そうだな、とりあえず日本語で受けられるカウンセリングやってるとこがあるか先輩に聞いとく」

「カウ…?」

「カウンセリング。まあ、専門家が話聞いてくれる悩み相談みたいなもん」

「ごめんね…お母さん、何も知らなくて…」

「いいから。もういいから」

しばらくして、二人連れは、食事を終えて店を出た。

二人の背中はネオンの中に消えていった。

女性の背中が来店した時より、すこーし真っすぐになったように見えたのは私の気のせいだろうか。

私は親子二人の背中に、心で話しかけた。


―――マイペンライ!

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