4-5.恨むかもしれないよ

  ※ ※ ※


「……る。真……、真鶴まつる


 クビキリギスが鳴く声。自分を呼ぶ声。その二つがただただ、こだましている。


(あなた、さま……?)


 違う、と、真鶴まつるはぼんやりまぶたを開けた。


「気が付きましたか、真鶴まつる


 顔を覗きこむのは、難しく、それでも労るような眼差しをした女性、トウ子だ。


「お姉さま……」


 真鶴まつるのささやきにトウ子は一つ、うなずく。トウ子が居住まいを正せば、真鶴まつるの視界に知らない天井が入ってきた。


「ここ。わたし……ここは、どこ」

「我が家、陽月ひづき家の客間です。突然あなたが中庭に現れたので驚きましたよ。長く眠っていたようですが、体の具合はどうですか」

「中庭……」


 どうやら、布団に寝かされているようだ。ぼんやりと横を見る。祝言しゅうげんのときに眺めた日本庭園が広がっている。


「あなたは天乃あまのどのの下へ行ったはず。そう、輝広てるひろさまから聞いていたのですが」

天乃あまのさま……」


 問われれば、段々と、焼き付いた記憶が戻ってきた。


(君は姉君の元に帰れ)


「っ!」


 沈痛な声が脳裏に響き、とっさに上半身を起こす。


 手が、体が、震えていた。じんわりとした冷や汗が背中を伝う。


「わたし……わたし」

真鶴まつる、一体何があったのです」


 心配そうな声音に、ただかぶりを振った。思い出したくない。加賀男かがおの失望にあふれた、悲しげな笑みを思い返したくはない、その一心で。


 胸がざわつく。だが、おもてには何も出てこないままだ。


「奥様、失礼いたします。旦那様がお呼びです」

「今、まいります。真鶴まつる白湯さゆを置いてあります。少し落ち着きなさい」


 トウ子は優しく茶色の瞳を緩めると、着物の襟を正して室外へと出て行った。


 残された真鶴まつるは布団を握り締め、小さく頭を左右に振る。


天乃あまのさま……違うの、違うのです……」


 どうして信じてもらえなかったのか。いや、それより何があったのか。


 ツキミやみつやの身を案ずる思考など、ない。加賀男かがおに突き放された事実、それだけが胸を押し潰すように去来している。


 虫の声がうるさい。のろのろと顔を上げ、もう一度庭を見た。


 白い小望月こもちづきが姿を見せている。大きな月――それは、加賀男かがおと共にはじめて影ヶ原かげがはらへおもむいたときを連想させた。


 優しく自分を抱き留めてくれた腕。微笑み。二人で眺めた花火。


「いや……」


 強張った声。悲しげな自嘲。縁切りの、言葉。


「こんなの、いや……」


 繰り返し繰り返し、加賀男かがおとの記憶がよみがえる。


 膝を抱え、涙も出ないまぶたを柔らかい布団へこすりつけた。


 あのとき、泣けば許されたのだろうか。笑い飛ばせればよかったのだろうか。哀しみで、真摯しんしに訴えればよかったのだろうか。


 だが、それらを行うすべを、真鶴まつるは持っていなかった。


 答えは出ない。答えを出してくれる相手は、現世うつしよにいない。


「帰りたい」


 影ヶ原かげがはらにと、そう思う。しかしそこへいく方法すら、知らなかった。


 帰ったところで、今の自分に何ができるというのだろう。感情もおもてに出せないまま、言葉だけで信じてもらうには、まだ一つも二つも足りないものがある気がした。


「……どうして、こんなことに」


 嘆いてみてもどうにもならない。こんなときでも喉が渇く身が、恨めしかった。


 側に置かれた白湯さゆを飲もうと、顔を上げたときだ。


 月光の差さない文机ふみづくえの影――そこに、こがねがいた。


「こがね……」


 馴染みのある友の姿に、少しだけ胸を撫で下ろす。


「こがね、お願い。天乃あまのさまに伝えて。誤解だって。みつやさんとは何もないって」


 そう言い、立ち上がって近付いた刹那。


 シャッ、と――牙を向けられた。驚き、衝撃で真鶴まつるはよろめく。


「こ、がね?」


 こがねは、怒っている。はじめて負の感情を友から向けられた事実は、真鶴まつるの思考を真っ白に染めるに十分だった。


 金の瞳に宿る、憎悪と悲しみ。絶望と怒り。


 まるでこれが最後だといわんがばかりに、彼はとぐろを巻いて真鶴まつるの前から消え去った。


「こがね」


 名を、もう一度呼ぶ。


「こがね……」


 影にはもう、何もない。こがねの姿など、なくなっていた。


「あ、ああ」


 黒い髪を、くしゃりと握る。その勢いで蝶のかんざしが畳に落ちた。


 形見のかんざしを拾うこともできず、その場に膝を突く。


「こがね……あなたまで、わたしを」


 両腕を垂らし、こがねがいた暗闇を見つめた。


 加賀男かがおからは縁を切られ、友には嫌われ、これから自分はどうしていけばいいのだろう。


 独りが怖かった。強欲になった思いが、増幅していく孤独感を拒絶する。


真鶴まつる


 気付けば厳しい面持ちをしたトウ子が、ふすまを半分開けてこちらを見ていた。


輝広てるひろさまからお話しがあります」

「……」

「しっかりなさい。寿々すず家のみつやさんも来ています」

「会いたくない」


 子どもが駄々をこねるように、首を振る。


 トウ子が大きなため息をついた。真鶴まつるへ近付き、そっと肩に手を載せる。


「あなたはこのままでいいのですか。真実も知らず、変わらぬままで、いいと?」

「真実……?」

「わたくしも聞いて驚きました。あなたの過去に、陽月ひづき家が関与していたとは」


 それはどういう意味だろう、とわからず、真鶴まつるは呆けたように姉を見た。


 トウ子が一つ、うなずく。


「全てを聞いて納得し、それから何かを決めても遅くないのではありませんか? 許すことも、受け入れることも、みな、あなた次第なのですから」

「わたし、次第」

「真実はときとして人を傷付けます。それでも、一度底に落ちた身なれば、あとは這い上がっていくだけでしょう」

「何か、怖い」


 トウ子は笑む。柔らかい微笑に、真鶴まつるは口ごもった。


「怖いと思うことはね、人の身にあって正しい思いなのですよ。恐れを知らねば、誰かに優しくなどできません。厳しくも。あなたは今、羽化をしはじめています」

「……天乃あまのさまにも、友にも嫌われました。今更変わったところで、何も」

「なりません。全てを知る権利と義務があなたにはあります」


 厳しい声は、昔の姉を彷彿とさせた。そう、自分を見守っていたときと変わらない、立派な姿と。


 トウ子のようにありたいと願ったはずだ。優しく、しっかりとした人間に。


 真鶴まつるはこくりと唾を飲む。


 真実とやらが何かはわからない。怖い思いは相変わらずだ。それでも、今側にいてくれる姉の優しさが、厳しさが、自分の背中を後押しする。


「……わかりました」


 例えどうなろうと、せめて理由を知ってから。トウ子のいうとおりだ。全てを決めるのは、きっとそのあとでも遅くない。


(真実を知って、何かしらの諦めがつくかもしれない)


 目をつぶり、思ったあとにうなずいた。


「まいりましょう。ああ、ほら、かんざしまで落として」

「ごめんなさい、お姉さま」


 乱れた髪をき、かんざしを挿してくれる姉の手が心地よい。


「わたくしのあとに。輝広てるひろさまの下へ案内します」

「はい」

「その必要はないよ、トウ子さん」


 とても穏やかな声音が、ふすま越しに聞こえた。


輝広てるひろさま」

「お邪魔かな。私もみつやどのも、どう入ったらいいかと悩んでいたものだからね」

「いいえ、輝広てるひろさま。入って下さって大丈夫です」

「それでは失礼するよ」


 そういい、静かにふすまを開けたのは、二十代前半ほどの美青年だった。一本縛りにした長髪は、青みがかった黒だ。黒目も不思議と青みがかっており、神秘的な雰囲気がある。


 陽月ひづき輝広てるひろ――トウ子の夫は、糸目をより細めて軽く頭を下げた。


 その後ろには、消沈した面影のみつやがいる。


真鶴まつる嬢、会うのははじめまして、だね。私が陽月ひづき家現当主、輝広てるひろ加賀男かがおの兄だ」

「は、はじめまして」


 真鶴まつるは慌てて姿勢を直し、指を突いて頭を下げた。


「……君は、加賀男かがおを恨むかもしれないよ」

「え?」


 顔を上げた際、ぽつりとささやかれて困惑する。


「全てを話そう。私の知る全てを」


 みつやとともに室内に入る輝広てるひろを見上げ、真鶴まつるはもう一度、唾を飲み込んだ。

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