『追憶』

鮎川 雅

~燃えた青き日々~






「この戦争、いつになったら終わるのかしら」

 私は、真夏の勤労動員の疲れもあり、思わずそんなことを口にしてしまった。

 この大東亜戦争が始まって、もう三年半。支那事変も含めれば、およそ十五年間……私達が生まれた頃から、戦争は続いている。だから、私たち私立青葉台高等女学校の生徒達は、戦争のない世界を知らない。

 私自身は、そんな世界を渇望していた。

「……綾子さんは、戦争にお疲れになったのね?」

 私とたった二人きり、学校のチャペルの長椅子で、私のエスである貴理子さんが、穏やかな声で、そう言った。

 ……エス。Sisterの頭文字。いわゆる、女学生同士の恋愛対象のことを、世間ではそう呼んでいる。

 私も貴理子さんも、同性愛者ではない。あくまで、これは疑似的な恋愛関係だ。お互い、そのことは重々承知のうえで、私は、学年いち人気の、器量よしの美少女である貴理子さんと、エスの関係を持っている。とりたてて綺麗でも、器量もよくない私が、どうして貴理子さんの心を射止めることができたのかは知らないが、ともあれ、私だけが、貴理子さんを独占している。そんな私自身が、私に向けられる羨望が、とても嬉しかった。

 私は続けた。

「こんなこと、誰かに聞かれたら、非国民だって言われちゃう」

 貴理子さんは、何も言わず、ただ微笑した。

 その横顔が愛おしかった。

「ねえ、貴理子さんは、私のことを、いけない娘だって思う?」

私は、甘えた声を出して、貴理子さんの、色白に整った顔を見た。貴理子さんの細い目が笑った。

「とんでもないわ。私も、早く戦争が終わって欲しいって思っているもの」

 貴理子さんは、頭を横に振った。その髪の甘い香りが、ふわりと私をとりまいた。

 しばらく、私と貴理子さんは何も言わなかった。ステンドグラスから差し込む、色とりどりの陽光。そして、威勢よく聞こえてくる蝉時雨。

 青葉台高等女学校は、ここ長崎市内にある、ミッション系の学校だ。だから、学内にはこうしてチャペルがある。もっとも、言うまでもなく、この戦時下でキリスト教は、敵性のものだとして事実上禁止されている。そんな空間に忍び込み、大好きな人と時間を共有している私は、とても満ち足りていた。

「私、もっとお勉強したかったわ」

 駄々をこねるように、私は言った。本音だ。本土決戦が近いとされている今や、私達は学業そっちのけで、工場での労働……勤労奉仕に従事している。

 勉強が大好きだったわけではない。だが、今では、教科書とノートを広げて机に向かい、教師の話に熱心に耳を傾けていた頃が懐かしい。知識の渇望が、私の中にあった。おそらく、貴理子さんにも、そして他のクラスメイト達にも。

「そうね。私も、もっとピアノを弾いておけばよかった」

 私は、秀でたものの何もない、ただの凡人だが、貴理子さんには天賦の才能があった。ピアノの才能だ。お家が豊かな貴理子さんは、幼い頃からピアノを習い、手足のようにピアノを操る。そんな貴理子さんは、いまや音楽の先生よりも腕がいいと評されていた……もっとも、この戦時下では、ピアノを発表する場さえ与えられないが。

大東亜戦争前、いや大東亜戦争が始まってしばらくは、まだ自由な雰囲気が社会にも学校にもあった。ピアノを弾くことも許されていた。だが、戦局が悪くなってからは、そんな雰囲気は陽炎のように消え失せてしまった。

 貴理子さんが、静かに口を開いた。

「大事なものほど、失ってから気付くものなのね」

 その言葉が、私の心に悲しく染み渡った。

 また、二人の間に沈黙が漂った。

 話題を探した私は、陰鬱ではあるが、ひとつ話のネタを見つけて口を開いた。

「ねえ、広島に新型爆弾が落ちたって噂、貴理子さんはお聞きになって?」

「ええ。新聞にも載っていたもの。すごい威力みたい」

 貴理子さんは、その長い睫毛の眼に憂いを浮かべて、小さく俯いた。その貴理子さんに縋るように、私は言った。

「私、怖いわ」

 貴理子さんは、私に笑顔を作った。その裏に、少し無理が隠れているのを、私は見た。

「大丈夫よ。広島と違って、こんな田舎の小さな街に、そんな爆弾なんて落ちてこないわ」

「それでも、やっぱり怖い」

「……私だって、怖い」

 貴理子さんが、消え入るような声で言った。が、すぐに打ち消すようにして新たに口を開いた。

「けれども、綾子さんと一緒なら、私は大丈夫」

 私は嬉しくなった。そして、貴理子さんのふっくらしたセーラーの胸に、そっと頭をうずめた。甘酸っぱい香りがした。

 貴理子さんが、そんな私の背中に、そっと優しく、両腕を廻してくれた。

 しばらくして顔を上げた私は、すぐそばに、貴理子さんの顔を見た。その両眼は潤んでいた。おそらく、私も同じだっただろう。

 私と貴理子さんは、どちらからともなく、ゆっくりと抱擁を交わした。

 私は涙を流しながら、この瞬間の永遠を祈っていた。


 *


 その明くる日は、空に時おり雲がかかっている、はっきりしない天気だった。

 朝から何度か空襲警報が発令されたが、いずれもすぐに解除されていた。

 私達、青葉台高等女学校の生徒は、海軍の三菱造船所で勤労動員のために出勤していた。長きにわたって作業に従事していた私達は、もはやりっぱな工員だった。

 お昼前に、クラスメイト全員で、水分補給のために、工場の外の広場にある水道へ集まった。頭から水を被りたい衝動を抑えて、私が顔を洗っていたその時、近くにいた貴理子さんが、タオルで汗を拭いながら、空を見上げて言った。

「……あれ、B29じゃないかしら?」

 微かな、白い飛行機雲が二筋、見えた。いつも貴理子さんに甘えてばかりの私は、つとめて明るい声を出した。

「大丈夫よ。たった二機ですもの。おおかた、偵察に決まっているわ」

「それなら、いいんだけど……」

 貴理子さんの顔は曇ったままだった。私はそれ以上、気の利いたことを言えず、水の入ったバケツに手を浸そうとして、水道の流しの影にかがんだ。

 その時だった。

 突如、全ての音が失われたように感じた。すぐに白く眩い光が私の視界を圧し、遅れて大空が破裂するような轟音が聞こえた。

 視界を失った私は、やがてやってきた突風に押し倒された。

 どれくらい倒れていたのかは分からないが、私は全身の痛みをこらえて立ち上がった。先刻のは恐らく、二機のB29が落とした大型爆弾かと思ったが、さっきまで働いていた工場が、飴細工のようにひしゃげた骨組みだけになり、見慣れた長崎の町並みが、軒並み瓦礫と化して燃えているのを見たとき、私は混乱した。何が起きたのか、皆目見当がつかなかった。腕時計を見ると、針は十一時二分を指したまま、壊れて止まっていた。

 塵がもうもうと舞っていた。きなくさいような、何かが焦げたような、嫌な臭いが立ち込めていた。

 すぐに思い出したのは、貴理子さんのことだった。……貴理子さんは、ケガしていないだろうか? 不安が込み上げてきた。

「貴理子さん……貴理子さん、どこ?」

 貴理子さんが先ほどまで立っていた辺りを見たとき、私は言葉を失った。工場の鉄骨の梁に、まるで磔のように釘付けにされて、一人の少女がぐったりとしていた。

 思わず、私はその少女のもとに駆け寄った。

 磔の少女の、まるで「どうして?」というような表情で、眼を半開きにしたまま固まった顔は……貴理子さんに似ていた。その白い頬を、涙のように、一筋の血が流れていった。

 ……違う。これは貴理子さんじゃない!

 半狂乱になった私は、無意識に彼女の胸の辺りを見た。縫い付けられた名札には、見覚えのある字で、松浦貴理子、と記されていた。

 私は、助けを呼ぼうとした。広場に目を向けたとき、私は立ち尽くした。

 クラスメイト達が、遊び棄てられた人形のように、散らばるように倒れていた。たぶん、まともに熱線をうけてしまったのだろうと思われた。

「……幸子さん! 花江さん! 登紀子さん! ……」

 私は、クラスメイトの名前を、一人一人絶叫していた。誰も、私の声に反応することはなかった。

 嗚呼。

 私の心の中には、怒りだけが渦巻いていた。その怒りがないと、私は心の支えを失って、倒れてしまうか発狂してしまうと思った。

 私は空を見上げた。見たこともない巨大な鉛色の雲が、天を圧倒していた。ところどころに見える青空が、何かの冗談のように思えた。

 どこかで何かが崩れる音がした。振り向くと、浦上の丘にある浦上天主堂のレンガ造りの聖堂が、ガラガラと崩れ落ちていくところだった。丘を転がり落ちていく鐘の音が、晩鐘のように、廃墟と化した長崎の街に響いていた。

 これは罪の業火なのか。それとも、最後の審判なのか。

 私には、分からなかった。


 *


 あれから、幾年経っただろうか。

 私は、杖を握る自分の、皺だらけになった手を見つめた。

 あの爆弾は、原子爆弾だと後に知った。それが原子爆弾であろうが何であろうが、私にはどうでも良かった。

 はっきりしているのは、貴理子さんも、他のクラスメイトたちも、皆が天に召されてしまったことだ。

 私だけが、あの地獄を生き延びることができた。

 ……もっとも、貴理子さんのいなくなったこの世界で生きることになってしまったのが、果たして幸運だったのか、そうでないのかは分からないけれども。

 私は、これも運よくと言っていいのか分からないが、戦後に結婚した。被爆者への差別が厳として存在したあの当時にしては、ちょっと珍しいことだったかもしれない。子供にも孫にも、そしてひ孫にも恵まれた。

 ひ孫は、今は高校一年生だ。普段は携帯電話の画面ばかり凝視しているような今どきの女子高生だが、ふとした瞬間に見せてくれる笑顔に、私は、貴理子さんの面影を重ねてしまう。

 そんな時、私は、貴理子さんの言葉を思い出す。


 ……大事なものほど、失ってから気付くものなのね。


 だったら貴理子さん、私は貴女と共に逝きたかった……結婚して、子供ができてからは、私はその言葉を、浮かんできたとしても飲み込んでしまうことにしている。

 やがて私は、かつて青葉台高等女学校のあった場所にある、慰霊碑の前にたどり着いた。

 慰霊碑に、私は買ったばかりの水のペットボトル飲料と、途中で買い求めた白百合の束を手向けた。苦しみながら死んでいったクラスメイト達は、皆、今際の時に水を求めていたからだ。百合の花は、青葉台高等女学校の紋章。それは今でも、この場所にある学校……青葉台女子高等学校にも、しっかりと受け継がれている。

 私は一葉の写真をバッグから取り出した。クラスメイト達と撮った集合写真の中に、貴理子さんも、クラスメイト達もいる。皆、笑顔だ。

 ……ああ、だめだ。やはり、この場所に来ると、この写真を見ると、涙が零れてしまう。

 貴理子さん、そしてクラスメイトの皆さん。貴女達が永遠の若い日のままでいるのに、私だけがこんなお婆ちゃんになってしまったわ。

 けれども、私ももうじき、そちらに行くから。その時は、セーラーとスカートを着ていくから、皆さんで迎えてちょうだいね。

 その日まで、ごきげんよう。



私は忘れぬ 白き雲の道


私は忘れぬ 燃えた青き日々




 ***



(一)

果てなき戦の 

もがくよな青春にて

ペンすらも奪われ 汗を流したあの日々

そんな中でさえ 私たちは笑い合い

暗き明日にも 希望を抱いていた

学べぬもどかしさも

勤労の疲れにも

互いに支え合って

クラスはいつも 輝いていた


嗚呼 あの瞬間が 今も懐かしい

私は忘れぬ 学び舎への道


(二)

讃美歌奪われし

長椅子に二人座り

戦の終わり祈った 八月のあの日

甘く揺蕩った 貴女の髪の香り 

同じセーラーの胸 私は焦がしていた

貴女の胸の音 

柔らかなぬくもりを

今でも覚えている 

昼下がりの二人だけの教会


嗚呼 あの瞬間に 永遠を祈った

私は忘れぬ 切なき想いを


(三)

青空を白く飛ぶ 

あの鋼鉄の使徒を

貴女は見上げつつ そっと汗を拭った

悪魔(サタン)は羽を広げ 悪の実を落とした

光の槍に刺され 倒される私達

此は罪の業火か 

最後の審判か

立ち上がった私は

変わり果てし級友たちを見る


嗚呼 あの瞬間に すべてを呪った

私は忘れぬ 主なき人影


(四)

あれから幾年(いくとせ)か

私は杖を手にし

かつての学び舎へと 暑き道を行く

綺麗だった貴女も 他の大切な友も

あの日あの時のまま 永遠の若き日

嗚呼 私だけが

貴女達とはぐれた

いずれそばにいくから

遠からず私もセーラー着て


嗚呼 この瞬間に 涙が零れる

私は忘れぬ 白き雲の道


私は忘れぬ 燃えた青き日々

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『追憶』 鮎川 雅 @masa-miyabi

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