神は今も……

 小鳥のさえずりに目を開けば、そこにはここ数日間ですっかり馴染んだ自室の天井があった。

 どうやら夢が終わったらしい。記憶をただ辿るだけなんて珍しい夢もあるものだと、そう思いながら徹は身体を起こす。


 カーテンからこぼれる陽光が部屋を照らし、朝の訪れを告げている。窓を開ければそこには地球の中世に建設されたような家屋とありのままの緑が風景を彩っていた。

 今日も仕事に向かう人々からは活気が溢れている。以前は働くことに対して何も感じなかった徹だが、それを見ると妙にいいことのような気がしてくるから不思議だ。


 仕事という言葉のせいか、夢のその後のことを思い出す。

 あれから苛烈な虐待の中を生き抜いた徹は、父親の言いつけ通りにそこそこの大学に通い、そこそこの企業に就職した。「これでお前でもまともな人生を送ることが出来るだろう」と送り出され、一人暮らしをすることになった。

 突然に父親から解放された徹は逆に戸惑うことになる。もはや地獄を地獄とも感じなくなり、彼の言いつけ通りに生きることが人生になっていたのだ、無理もない。


 とにかく送り出された以上は会社で働くしかない。クビになって戻されれば怒られるのは目に見えている。

 そんな、既に余生に入ったつもりで勤めた会社で出会ったのが佐藤だった。

 彼は徹が知らなかった、世間一般で「常識」と呼ばれる類のものをたくさん教えてくれた。犯罪だから、ということ以外に人を殴ってはいけない理由があるのを知ったのもこの頃だ。

 ただ、そうして埋まる部分があるからこそ、それでも残る心の空白部分があるのを自覚したとも言える。しかし、その空白部分の正体が何であり、どうすれば埋まるのかは遂にわからなかった。

 それも、この世界で色んな人と触れ合っていればわかるのだろうか。


 徹はうなずいた。漠然と生きて来たこの世界で、初めて生きる目標が出来た。

 もっと色んな人と触れ合う。流れに任せるのではなく主体性を持って他人との交流を持ち、自分に足りないものが何かを発見するのだ。

 一度そう決めると視界が一回り鮮明になった気がする。徹は今日という日を始めるべく身支度を整えてリビングへと向かった。


 リビングに人影はない。ガンドはまだ寝ているようだ。贅沢を言えば既に起きていて欲しかったが、時間の決まっている仕事でもないので無理は言えない。

 徹は自分で朝食を用意して食べた。こちらの世界に来てからはパンが主食だが、たまに料理をしてパティやガンドに振る舞うこともある。


 食べ終えて食器を片付けると、徹は礼拝堂へと向かう。

 出かける前にパティに挨拶をしたいのだが、この時間にリビングや裏口の井戸の辺りにいないということは自室か礼拝堂だろう。寝ている可能性を考えれば自室を訪れるのは気が引けるので、礼拝堂にいなければ諦めるつもりだ。


 リビングを自室とは反対側に向かって通路を進んでいくと、礼拝堂の祭壇横へと繋がる扉がある。

 それを開けて中に入り、少し歩くと祭壇の中央が視界に入る。だが、そこに祈りを捧げるシスターの姿はない。しょうがない、挨拶はなしで仕事に行くかと踵を返したところで背後から声がかかった。


「あら、トオルさん。おはようございます」

「おはようございます」


 パティが礼拝者用の長椅子に腰かけていた。何かをしている風ではなく、リラックスした面持ちだ。


「今までお仕事をされていたんですか?」

「はい、今は休憩中です」


 朝の祈りを捧げ終えたといったところだろうか。

 仕事までは時間の余裕がある。ガンドが起きるのも待ちたいので、徹は少し話をしていくことにした。

 パティから少し離れたところに座ると、思い切って徹から話しかけてみた。


「あの、差支えがなければ教えていただきたいのですが」

「はい、何でしょう」


 彼女が見せてくれる笑顔はいつも自然で明るい。思わず何でも話しそうになってしまうので、自分よりよほど暗殺者に向いているな、などと徹は見当違いなことを考えてしまう。


「パティさんは目標というものはお持ちですか?」

「目標?」


 首を傾げるパティを見て、少し漠然とした質問だったかな、と反省する。


「人生の目標とか、生きる目標、と言えばよろしいのでしょうか。生きているうちにこんなことをやってみたいとか、毎日これだけはやっておくとか、どんなものでも構わないのですが」


 徹の少し早口な説明を聞くと、パティは何ら迷うことなく即座に答えた。


「ありますよ。昨日も今日も、そして明日も。毎日私がやっていることです」

「お祈り、ですか?」


 それは仕事であって目標とかではなさそうだが、と一瞬だけ思う徹だが、どうやら早とちりだったようだ。


「はい。私にはどうしてもなりたいものがあって、それを達成するには毎日毎日、ただひたすらに天に祈りを捧げるしかないんです。ですから毎日お祈りを捧げることが私のやりたいことで、生きる目標です」

「なるほど」

「そういえばトオルさんは過去の記憶をお持ちでないんでしたよね」


 徹が静かに首を縦に振った。


「勇者と言うのは、ある日神より突然勇者の力を賜った人間のことだそうです」


 語尾が伝聞になっているのは、勇者が誕生した際にパティが生まれていなかったからだろうか。


「そして、その勇者誕生のお告げをマリア様より受け、この世に知らしめる役割を担う人物がいます。私たちシスターの中から神に選ばれた一名、これを『神託の巫女』と呼んでいます」

「神託の巫女」

「ちょっと大袈裟な名前ですが、つまるところ幸運にも神の声を聞くことが出来た人のことをそう呼んでいるんです」


 それは幸運なのだろうか。神の存在、というよりもオカルト全般を信じていない徹にとっては、突然知らない人の声が聞こえるというのは怖いことのように思える。

 と、パティ相手にそんなことを口に出すわけにも行かないので会話を続けた。


「その神託の巫女になる条件、と言いますか。神様に選ばれる基準というのは何かあったりするのでしょうか?」

「いえ、今のところは不明です。ですが、より信仰心の強い者が選ばれるのではないかと言われています」


 なるほど、と徹は思った。突然話題が変わったので少々面喰ったが、ここで繋がって来るのか。


「それで毎日祈りを捧げているのですね」

「ええ。もちろんお仕事だからというのもありますが」


 仕事にしては礼拝の数が多いとは思っていた。

 だがそれはマリアに対して信仰心を示す為であり、いつの日か憧れの「神託の巫女」になることを夢見てのものだったのだ。


「私の質問にお答えいただきありがとうございました」

「いえいえ。でも、どうして突然そんなことを?」


 生きる目標が出来たこと、そしてそれがどんなものであるかを、徹は相も変わらず遠慮がちに話した。


「自分からたくさんの人と触れ合っていく……とても素晴らしい目標ですね」


 どこか遠くを見つめながら、パティは世辞ではなく心からそう思っている様子で感想を述べる。

 くだらない目標だと笑う者もいると思うので、話すのには少し勇気が必要だったのだが受け入れてもらえて嬉しい。徹は礼を口にしつつ顔を綻ばせた。


「そういえばトオルさんから話しかけてもらえたのは久々ですもんね」

「あれ、そうでしたか」

「そうですよ。いつも私からなんだから」


 自分では気付かなかったが、きっとそうなのだろう。

 わずかばかりに頬を膨らませていたパティだったが、それを緩めると、また柔らかく微笑んでから言った。


「では徹さんは早速目標への一歩を踏み出したんですね、おめでとうございます」


 小さく拍手を送るパティに、徹は頭の後ろをかきながら返事をする。


「ありがとうございます。パティさんも夢が叶うといいですね」

「きっと叶うと信じてます。だって」


 パティは祭壇に祀られているマリア像を眺めながら言った。


「マリア様は今も、私たちを見守っておられますから」

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