徹とみーちゃん

「勝手なことをするな!」


 顎髭を蓄えた恰幅のいい中年の男性がこちらに向かって叫んでいる。


「やめて!」


 自分とその男の間に入る、髪を後ろで結い上げた女性の背中。


 二人共どこかで見たことがあるなあと思っていたが、それもそのはず、これはしばらく会っていない、実の両親の在りし日の姿だった。

 ああ、これは夢だ。徹はすぐにそう認識する。過去にあった出来事を夢の中で映像として再現しているのだ。


 視界には血の付着した徹の手のひら。口内は血の味で満たされている。幼き日の徹はこの中年の男性――つまり自分の父親――に殴られたのだ。

 確かインスタントコーヒーの淹れ方を覚えたので、父親にサプライズでその技術を披露したのだが、いつも母親が淹れているものと味が違うので怒らせてしまった、というふうに記憶している。


 父親はとにかく手が早かった。

 少しでも自分の気に入らないことをすれば、しつけという大義名分を掲げて堂々と我が子を殴るような人間だった。今も彼が徹を見下ろすその眼光には特定の感情の色は宿っていない。

 しつけの為の手段として殴る、ただそれだけ。徹の父親にとってこれは日常の中のありふれた一ページに過ぎなかった。


「お前は私の言う通りにしていればいい」


 そう言って、父は再びテーブルに着いた。


「大丈夫? ごめんね、徹」


 尻もちをついた徹の元に母親が駆け寄って来る。


 うん、大丈夫だよ。


 幼き日の徹は健気に笑顔を見せながらそう答えた。

 別に周囲に配慮の出来る大人びた子供だったとかそういう話ではなく、単純に優しい母親のことが好きだったのだ。彼女に構ってもらえると自然と笑顔になる。

 毎日毎日、「しつけ」の皮を被った虐待を受けてばかりの徹だったが、母親がいれば耐えることが出来た。いつか大人になったらたくさんお金を稼いで、母親と一緒に父親のいないところで暮らそう、そんな風に思っていたのだ。


 だが、この時徹は母親の顔に疲弊の色がにじんでいることに気付く。

 自分が物心ついた時からこんな毎日を過ごしているのだ。父親との間で板挟みになっている母がそうなるのも無理はない。

 子供心にそう考えた徹は、この日から徹底的に父親の言いつけを守り、なるべく彼を怒らせないようにした。それでも何かにこじつけてしつけは繰り返されたが、幼き徹は耐え続けた。


 そんなある日、徹が小学校から帰って来た時だった。

 学校から家に帰るまでの道を徹は軽い足取りで歩いている。父親が仕事を終えて帰って来てからの時間はこの世の地獄以外の何物でもなかったが、それまでの母と二人で過ごす時間はとても幸せだったからだ。

 自宅に到着すると、ランドセルからいそいそと鍵を取り出して解錠し、玄関の扉を開けて中に入る。


 ただいまー。


 しかし返事はない。母は出かけているようだ。

 徹は周囲に誰もいないにも関わらず唇を尖らせた。やる方ない残念な気持ちを少しでも晴らすためだ。

 仕方がないのでひとまず喉でも潤すべくリビングに顔を出す。家の中は静寂に包まれていて、徹の足音がいつもより響いているように感じられた。


 冷蔵庫の扉に手をかけて開ける。

 中を確認すると作り置きの麦茶があったので、それをコップに注いでごくごくと喉を鳴らしながら飲み干した。

 最近は父親から「家では何をするにも自分の許可を取れ」と強く言われているので、家の中で自由に麦茶を飲むだけなのに、解放感と背徳感が入り混じってとても美味しく感じられてしまう。


 だがそこで、麦茶を飲みながら何気に視界に入ったテーブルの上に一枚のメモ用紙が置いてあることに気付いた。

 その表面には「徹へ」とだけ書かれてある。裏面に別の文章が用意されているのが光に透けて見えていた。

 何気なく、本当に何気なく。ご飯が冷蔵庫にあるから食べてね、とかかな。だとしたら何を作ってくれたんだろう。そんな、どちらかと言えば宝箱を開ける時のような気持ちで、徹はその紙をめくった。

 その文章は冒頭のこの一行から始まっていた。


「ずっと一緒にいてあげられなくて、ごめんね」


 まるで脳を巨大な槌で撃ち抜かれたような衝撃を受けると同時に、世界が、徹の全てが白く濁っていくのを感じた。

 動悸と息切れ。震える指先。それでも徹は母親からの最後の手紙を読まずにはいられない。


 しばらく家を離れること。本当に徹を愛していたこと。それでも一緒には行けず、置いていかなければならないのをとても悲しく思っていること。

 

 幼い徹でも、ここでの「しばらく」が永遠と同義であることは容易に察しがついた。そして、彼女が家を出なければならないほどに追い詰められていたことを気付けなかった自分の愚かさを悔やんだ。

 徹を愛していた、それは嘘だと思った。本当にそうなら何故連れて行ってくれなかったのか。残された自分はどうなるのか。

 憎しみ、怒り、悲しみ、絶望、あらゆる負の感情が膨張しながら己の心に渦巻き続けた結果、徹はとある音を聞いた気がした。


 自分の中の何かが壊れる音を。


 それからの徹は父親の言いなりになって生きた。そうするしかなかった。

 母親がいなくなった腹いせもあって、父親のしつけは日々苛烈さを増したが、徹は耐え続けた。例え耐えた先に何もなかったとしても、自殺をする勇気もなかったのでそうするしかなかったのだ。

 幸か不幸か、壊れた徹は次第に何も感じなくなっていった。虐待に対しては、「耐える」という気持ちすら薄れていった。

 

 そんなある日のこと。


「おい皆ー! 今日も死神が来たぞー!」


 徹は父親の言いつけで近所の子供たちと遊ぶべく、空き時間に公園を訪れるのが日課となっていた。人との付き合いは大切、ということらしい。

 やせ細った身体に青白い肌、いつも感情の窺い知れない、眼鏡の向こうの落ちくぼんだ瞳にシキガミという名前も相まって、徹は死神と呼ばれてからかわれていた。


 どう考えてもいじめられていたが、そんなことはどうでも良かった。父親の言いつけを守っていれば殴られない。嫌われていようが好かれていようが、誰かと一緒に遊んだという事実があればそれでいいのだ。


「おい死神ー! たまには死神らしく誰か殺してみろよ!」


 最初は無視していた彼らだが、最近では徹をからかうのがブームのようだ。そしてこの日は特にそれがひどかった。


「そんなこと、出来ないよ」


 父親から犯罪は起こすなと言われている。そう、この時の徹にとって人を殺してはいけない理由はそれだけだった。

 期待通りの反応だったのか、周囲の少年たちはにわかに盛り上がりを見せる。


「何びびってんだよ! 死神のくせにだせえなぁ!」

「一人くらい殺してみろよー!」


 そんなことを言われても犯罪になってしまうのだから仕方がない。

 そこに一匹の猫が通りかかった。子供の内の一人がいかにも面白いものを見付けたと言わんばかりの笑みを浮かべながら指をさす。


「おい死神! あそこに猫がいるぞ! 猫ぐらいならやれるだろ!」


 徹を取り囲んでいる内の一人が輪から離れて、猫を抱き上げてから戻ってきた。随分と懐いているところを見るに、この公園でいつも皆に可愛がられているのだろう。

 抱き上げられたまま徹と相対した猫は「なー」と挨拶代わりの鳴き声をあげる。


「殴ったりしてもいいの?」


 猫をここで死なせてしまった場合、犯罪になるかどうかが徹にはわからない。そこでこのような状況では飼い主に許可を取ることにしている。

 皆に可愛がられているようなので、ここにいる子供たちが飼い主のようなものだ。彼らの許可があれば殴っても犯罪にはならない。まだ小さい徹はそのように考えた。


 そんな徹の常軌を逸した思考などわかるはずもなく、リーダー格の子供がにやりと笑って返事をした。


「おういいぜ!」


 許可が下りたので行動を起こすべく一歩を踏み出す。


(ちょっと、本当にみーちゃんが殴られたらどうするの?)

(大丈夫だよ。あいつにそんなこと出来ないし、する度胸もねえって)


 ゆっくりと移動している間にもそんなひそひそ話が漏れ聞こえていた。みーちゃんというのはあの猫の名前だろう。

 度胸? 何かを殴るのにどうして度胸が必要なのだろうか。許可はもらっているのだから何も問題はない。


 徹が目の前まで来ると、猫を抱きかかえていた子供がそれを地面に下ろす。


 こうして対峙してみると蹴りの方がやりやすそうだな。

 そう考えた徹は微塵も躊躇なく、ありったけの力で右足を振りぬいた。


「ぎにゃあ!」


 奇声を発しながら猫が弾き飛ばされる。距離を詰め、間髪を入れずにもう一発を繰り出した。再び奇声を発する猫。

 すると、一瞬の間を空けてにわかに周囲が騒がしくなった。


「お、おい! 何やってんだよ!」

「え?」


 言われた通り殴っているだけだけど。

 そう返事をしようとして声の方を見やれば、子供たちが徹と猫に視線を集めながら顔を真っ青にしていた。


 あ、そうか。


 何故顔を真っ青にしているのかはよくわからないが、「何やってんだよ」という言葉の意図は理解出来た。

 徹は必死に反撃を試みて飛び掛かってきた猫を掴み、自分の前に持ってくる。


「こうすればいいの?」


 そして全力で右腕を振りぬいた。

 猫が殴られた勢いで吹っ飛び、地面に落ちる。

 許可をもらったのは「殴っていいか」という質問に対してだった。蹴ってしまっては文句を言われても仕方がない。


 しかし今度は血相を変えた子供たちが徹と猫の間に割って入り、数人が猫をかばって残る数人が徹を抑えつけた。


「お前何やってんだよ!」

「みーちゃん、大丈夫!?」


 仰向けになったまま身体や腕を抑えられた体勢で、徹は無表情のまま言った。


「ごめん、何かやり方を間違えちゃったかな?」

「違えよ! やり過ぎだっつってんだよ!」

「やり過ぎって何が?」

「猫がかわいそうとか思わねえのかよ!」


 目の前の人物が言っていることは全く要領を得ない。やり過ぎというのもよくわからないし、かわいそうとか言うのもそうだ。

 ただ一つわかるのは、どうやら蹴る殴るの行為そのものを咎められているらしいということだけだった。

 だから徹はこう反論する。


「でもさ。君はさっき、この猫を殴ってもいいって言ったよね?」

「お前、殴っていいって言ったら何でも殴るのかよ」

「うん」

「か、かわいそうとか、思わねえのかよ……」


 段々と相手の子供は語気が弱まっていった。

 対照的に徹は表情も口調も変わらぬまま返事をする。


「ごめん。そのかわいそうっていうのがよくわからないんだけど……どういうこと?」


 遂に徹を取り囲む子供たちは何も言わなくなった。


「殴っちゃだめだったの? でも、いいって言ったよね?」


 恐怖とも驚愕ともつかない表情をその顔に浮かべたまま、徹に馬乗りになっていた子供は立ち上がり、一歩、また一歩と後ずさりながら言う。


「お前、おかしいよ」


 この日を境に、誰も徹に近寄ることすらしなくなった。

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