現の中

 電車に揺られながら、私はスマホをぼんやりと眺めている。

 Twitterに流れる――ああ、今はXと言うんだったっけ。それに流れる、下らなくて、ほんのちょっぴり面白い投稿をスクロールしていく。

 特に何をするわけでもなく、ただただ時間が過ぎていくのを待っていた。


 何度か電車の案内を確認した頃、アナウンスがもうすぐで新宿に到着することを教えてくれた。私の目的地が、まさにそこだ。

 席を立ち、扉の前に移動する。到着までの数十秒間、吊革に手をかけて振動に耐える。ひときわ大きい振動が来たなら、ついに到着だ。


 扉が左右に開き、人の波に逆らう事無く。というよりは、むしろ流されていくようにして駅のホームに出る。

 右を見れば、すぐそこにはエスカレーターがある。いつも着ている場所だから、当然、乗るべき車両も把握はあくしているのだ。


 エスカレーターを上りきり、改札を通って右折。左側には服屋と大きな階段が視界に映り込んでいた。

 階段に向かい、これまた上りきると、地下だと言うのにやたらと広い通路が眼前に広がっていた。両脇には洒落しゃれた料理店や、またしても服屋が立ち並んでいる。


 やっと地上へ脱出した私を待ち受けていたのは、都会っぽい空気と巨大な猫。その猫はスクリーンの向こうで、横断歩道を渡る小さな人々を見守っているようだった。


「やっと着いたなぁ」


 独り言を漏らし、大きく伸びをする。わざとらしく「よしっ」と吐き出し気合を入れ直した。

 今日、わざわざ私が一時間とちょっとをかけて新宿まで来たのは、友達と待ち合わせをしているとか、レジャー施設で羽を伸ばすとかの為ではない。


 五日前、私は奇妙で不思議な夢を見た。奇妙かどうかは完全に主観ではあるものの、今まで見てきた夢とは明らかに別種のものだった。

 その夢の舞台こそが、まさにここ。夢の中の新宿、歌舞伎町で、私はある少年と出会ったのだ。


 その少年について、私はもはや声も顔も思い出せない。ただ、彼自身が名乗った名前だけは憶えていた。

 漢字が分からないから、あえてカタカナにして記憶しているが、少年の名前は「ヨイショ」だったはずだ。

 なんて不格好な名前だろう。でも、彼は確かにそう名乗っていた。この記憶だけは、きっと間違えてはいないだろう。


 その少年とは、どこかの喫茶店で出会った。

 店主と彼が揉めている場面に、私は出くわしたのだ。


「最初はそこかなぁ」


 私はただひたすらにまっすぐ歩き、歪に見える巨大猫の足元を通り過ぎていく。

 相変わらずの臭いが、私の鼻腔を攻め立てる。上手に表現することはできないが、空気が凄く澱んでいるのは間違いないだろう。

 詩的な表現をわざわざ使うのなら、人々の欲望や意地汚さみたいなものを、香料で無理やり修正したような臭い、とでも言うのだろうか。


 しばらく歩けば、巨大な道路が私の道を塞いでいるのが見える。その向こう側には、昼であるのは、もはやお構いなしに、馬鹿みたいに目立つ看板があった。

 その看板には、デカデカと「歌舞伎町一番街」と赤文字で書かれている。


 女の私が一人きりで行ってもいいものだろうか、などと悩んでいたのは遥か昔の事。今ではもう、暇になったら訪れる場所ナンバーワンになっていた。

 昔にやっていたとかいう、ヤーさん撲滅運動のおかげなのか、この街には他と比べて妙にレジャー施設の種類も数も多い。私はそれらを目的に、この歌舞伎町によく遊びに来るのだ。


 まあ、もちろん良い事ばかりな訳がないのは、想像通りではあるが。誰彼構わず話しかけてくる客引きっぽい人たちを始めとして、変人奇人に絡まれようものなら面倒臭いことこの上ない。

 そんな彼らと関わらないようにするには、この町に訪れて身の振り方を理解していかなくてはならないのだ。

 なんて皮肉な矛盾だろう。本番に向けての練習が、まさに本番そのものであるだなんて。


(さて、どの辺だったかな)


 そんなことを考えていると、私はいつの間にか歌舞伎町のエリアに足を踏み入れていた。

 頭の中で地図を描きながら、おぼろげな夢の記憶を頼りに彷徨さまよい歩く。少年と出会った喫茶店の名前は憶えていない。けれど、その店を見たらきっと思い出せるだろうと、一つ一つ確認していった。


 誰もが知っているチェーン店や、雀荘、さりげなく紛れ込むエッチな店を流しながら見ていく。

 そうし始めて、多分十数分後だろうか。私は不意に、とある店の前で立ち止まった。


「ここ、かなぁ」


 私の視線の先にある看板には、「ルノアール喫茶店」と書かれている。目の前にあるビルの二階にある喫茶店のようだった。

 この場所は、私も何度か利用させてもらったことがある。ビルの二階にあることも、当然知っていた。


 しかし、私の脳裏には違和感がよぎっていた。


「二階、だったっけなぁ」


 少年と出会った場所は、確か一階だったような気がしていた。彼と店を出た時、すぐに外に出れたような。

 でも、確かに内装はルノアール喫茶店っぽかった記憶もある。


 まあ、夢の出来事だし、多少間違っていることもあるだろう。と、そう考えながらビルの中へ入っていく。

 二階に上がれば、なんだかんだで久しぶりな店内があった。少しばかり改装しているようだ。


 店員に席へと案内され、とりあえずクリームソーダを注文。夢の中で少年が頼んでいた飲み物だ。

 店員が去って行ったあとも、私は店内を何となく見回していた。彼の痕跡がどこかに無いだろうかと期待紗たのだが、もちろん、そんなものは何処にもなかった。


 小さく肩を落とし、ただぼんやりとメニューを眺める。色々と書いているが、その中の一文字だって私は認識していない。

 今、私の脳みそは夢の記憶をほじくり返す作業で忙しかったからだ。


 夢の記憶というのは不思議なものだと、改めて実感させられる。

 夢の中で私が何を感じたのか、何を考えていたのかは、ハッキリと思い出せる。

 だというのに、私が見たものや聞いたことに関しては、何もかもが不鮮明。判断不能なまでにぼやけている。


 こうして店内に入ってみて、見回してみて、空気を感じ取って。

 結局わかった事と言えば、ここっぽいかもしれない、という事だけだ。

 つまりは、収穫ゼロ。何にも分かっていないのと同義である。


 何とも言えない切なさをひっそりと抱えていると、男性の店員が注文していたクリームソーダを持ってきてくれた。


「ありがとう」


 一言、店員にも聞こえてないかもしれないくらいの小さな声で礼を言うと、店員は再び去っていく。

 それを見送りながら、細長いスプーンで乗っかっているアイスごと液体と氷をかき混ぜる。

 あふれ出る炭酸を見て、私はさらに寂しくなったような気がした。


 夢の中で少年と出会ったとき。彼はレジの前で店員と揉めていた。

 料金の支払いができないだとか、そもそもお金を持っていないだとか、そんな話だった気がする。


 そんな少年が私を見つけ、目が合ったかと思った途端。彼は私の腕をつかみ、こう言い放ったのだ。

 「この人が代わりに払います」と。


 その後の流れはよく覚えていない。気が付いた時には、私と少年は店の席に座って喋っていた。

 少年が自らを「ヨイショ」と名乗ったのも、その時だ。


 普通に考えれば、ありえない展開だ。

 この事に疑問を一切感じなかったのは、夢の世界ならではなのだろう。

 あらゆる不思議が濃縮されていて、かつそれが普通になっている自分だけの世界。矛盾すらも正しく存在する、心の世界。


 私は、そんな夢の世界が好きだった。

 別に今だけ格好つけて考えているわけじゃない。

 これは、言うなれば「チョコが好き」と言っている時と大差ないのだ。


 自分の頭が勝手に作り出す、自分だけの摩訶不思議な世界。

 自分でさえ理解ができないのに、なぜか腑に落ちてしまう世界。


 なんて面白い世界だろうか。

 朝に目覚めた時の自分の困惑っぷりは、さらに時が経った後に、いい笑い話にもなる。

 まあ、同僚たちには秘密だけど。


「…………冷たっ」


 ほぼ無意識的にアイスを口元に運んでいた私は、その予想以上の冷たさに驚いてしまう。

 それはまるで、警告のようでもあった。


 ああ、ダメだ。

 やっぱり私は、ちょっとだけドラマチックになってしまっている。そんな性格でもないのに、勝手に詩的な表現を乱用してしまっていた。

 自分の事を、何かの物語の主人公だと勘違いしているみたいな。

 ひいて言うなら、まだ夢の中にいるみたいな、そんな感覚だ。


 でも、私がいるここは紛れもなく現実。

 この後の私は、間違いなくクリームソーダの代金をレジで支払うことになる。

 これこそが現実だ。


 緑色の砂糖水を喉に流し込み、改めて記憶を洗いざらい探ってみる。

 あの後、何があったのかをもう一度考える。


 どんな展開があったのか分からないが、私と少年は歌舞伎町をあてもなく歩いていた。周りには何人もの影がいて、それらの流れに逆らうように歩いていた。

 そして、何でもないような、不思議な会話をしていたような気がする。

 その時に、ヨイショは言った。


――ボクには色がないんだ


 そうだ。

 確かに、そんなことを言っていた。


 でも、そんな訳がない。少年の事を思い出すことができないのは確かにそうだけど、色は確かにあったはずだ。

 だから、少年が言った「色」は何かの象徴じゃないだろうか。

 うん、きっとそうに違いない。


 シンプルに考えるのなら、色とは「性格」の事だろうか。赤なら怒りっぽいとか、青なら冷静そうとか、そんなこと。

 でも、少年には性格があった。じゃあ、違うか。


 あとは何が考えられるだろう。

 そうだ、確か色は感情を表すこともできたはずだ。実際に、とある施設の壁紙の色は、そこに訪れた人々の気持ちを微細にコントロールするために、適切な配色をしていると、そう何処かで聞いた覚えがある。


 ああいや、でも少年に感情がなかっただなんて思えない。私は、忘却の向こうにある彼の笑顔が好きだから。

 感情の無い人が笑うわけはない。よって、これも除外。


 色の迷路はますます複雑になっていき、ついには袋小路まで追い詰められそうだった。そんな気分だった。

 でも、諦めるわけにもいかない。というか、私が思い出せる彼との会話は、たったこれ一つしかないのだ。

 つまりこれが、正真正銘最後の手がかり。逆に言えば、色の謎さえ分かってしまえばいい。それができれば、彼の背中を見つけることができると思った。


 氷が溶けて、カランとグラスの中を転がる。私はそれを誤魔化すように、もう一度スプーンを使ってクリームソーダをかき混ぜた。

 それが、なぜか可笑しくなって、声を出さずに私は笑った。楽しかったのだ。

 現実の中にいるはずなのに、夢について真剣に考えている自分が滑稽に思えた。下らないことに没頭する自分が、どこか誇らしくもあった。


「色、か」


 色を塗るという事とはつまり、タグを付けるようなことだ。それがどんな性質を持っているのかを表す、ジャンル分けのために私たちは色を付ける。

 色そのものに意味があって、何かに意味を付け加えるために、私達はそれらに色を塗るんだ。


 リンゴは何色だろうか。

 やっぱり赤色かな。いや、もしかしたら青色だったりするのかもしれない。白色は、ちょっと違うかな。


 じゃあ、このクリームソーダは?

 これは一色で言い表すのは無理かもしれない。でも強いて言うのなら、紫色と緑色と……あとは、黒色かな。

 いや、何か腑に落ちない。


 じゃあ、メニューは? この机は? グラスは?

 天井は? 私の服は? 私は?

 文字は? 空気は? 影は?


 考え出したら、どこまでも進む列車のように止まらなかった。

 それが思いもかけず楽しくって、気が付けば私は入店してから一時間程度もここに座っているようだった。


「……なんてね」


 馬鹿馬鹿しい。

 我ながら、不思議な怖い人になってしまったようだ。

 なんだ、リンゴが青色って。誰も食べやしないよ、そんな気色の悪い果物。


 色について、こんな風に考えたことはなかった。

 結局は、少年の手がかりなんて見つけられなかったし。


 でも、何かが分かりかけたような気もした。何か、大切な事に触れることができた気もしていた。

 その正体はきっと、何ともありきたりで当たり前な事なのだろう


(そっか。そうだよね)


 ヨイショは、どこにもいないのだ。

 所詮は夢。夢の中で出会った少年に、もう一度会えるわけがない。

 少なくとも、この現の中では。


「会いたいな」


 これを恋心だというつもりはさらさらない。私はただ、単純に少年に逢いたいだけだ。ここには一切の邪心はなく、隠れた願望もなければ、欲望だって無い。

 これ以上ないほどに、純粋な望みだった。


 薄くなってしまったソーダを最後まで吸い切り、席を立つ。もうここにいる必要はない。レジに向かい、店員が来るのを待つ。

 そこに少年はやはりいなかった。


 それでいい。

 それでいいんだ。


 僅かな安堵を感じていれば、すぐに店員がやってきてくれる。数百円程度の代金を支払い、私はそのまま店を出た。

 再び襲い掛かる、極彩色ごくさいしきの臭い。それはまるで、街が「おかえり」と言ってくれているようだった。


(悪くない)


 小さく笑って、私は右も左も決めないまま歩き出す。

 歌舞伎町は、危険な場所だ。見えない何かと一緒に歩いているような気すらする。

 でも、楽しい場所だ。歌舞伎町は非日常を体感するのならピッタリの街かもしれない。私ももう少し、夢の中に浸っていたかった。

 何をするわけでもない。街を歩いて、人を見て、色を感じる。それだけで、まるで白昼夢の中にいるかのように楽しかった。


 あっちこっちを歩いて、日が暮れ始め。脚も弱音をき始めた頃。ようやく帰る決心がついた。

 大きく息を吸って、大袈裟おおげさく。程よい疲れが全身に巡っていくのが分かった。


 歌舞伎町を出て、大通りへ。

 周りにいる他の人たちも、きっと帰る人たちなのだろう。

 横断歩道の向こう側にいる、今からこっちへと来る人は、夢を見に来たのだろうか。もしかすると、それは悪夢かもしれないけど。


 人は何時だって夢を見る。

 将来何になりたいとか、そういう意味の夢じゃない。


 もっと純粋な「夢」を、私達は見ている。

 現実と夢の境目をまたぎながら、皆は生きているんだ。


 もし、夢がなかったら私たちはどうなるのだろう。

 きっと、つまらない日々が続いていたに違いない。日常しか存在しない生活なんて、すぐに飽きてしまうだろうから。


「……ああ、そうかな」


 そのうち、巨大な猫が頭上であくびをした。この子も、もうお疲れ様だろう。一日中、この街を見守ってくれていたのだから。


(さて、と)


 少年の背中を追いかけるのは、もう辞めだ。だって、彼は現実のどこにもいないのだから。

 彼は今でも、私の夢のどこかにいる。いつかきっと、運が良ければまた会えるだろう。

 だから、それまでは私もおあずけだ。私はもう大人なんだ。だから「待て」くらいはできる。


 横断歩道を渡り、私はようやく夢から覚める。

 思えば、長い夢だった。五日間にも渡る、あまりにも長い夢。


 良い夢であるほど、二度とは会えないものだ。それでも人生というやつは、まだまだずうっと続くのだから悲観することはない。

 でもせめて、かの少年に色を渡すことができた事を祈ろう。次もし出会えた時に、色の話を聞くために。


 私は最後に振り返り、赤く染まった空に彩られた街を眺める。

 そうだ。そんな程度でいいのだ。

 それぐらい単純なのがいい。


 次は一体、どんな夢を観られるだろうか。良い夢だったら嬉しいな。せめて、怖い夢は嫌だな。

 でも、どんな夢でも悪くはない。

 だから。


(……)


 だから、最後の一言を。

 素敵な夢に、別れの言葉を最後に残そう。


「おはよう、私」

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君の背中を追いかけて チョコチーノ @choco238

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