不思議な世界への入り口

 大学の時からつきあい、二十八の今まで同棲していた彼氏が、浮気をして別れた。

 向こうから、もう好きじゃなくなったと言われた。

 ここまで同棲しておいて、そんなことをよく言えたものだ。

 それなら、もっと前に気づいて言ってほしかった。

 私は、そろそろ三十も手前になり、結婚ということも考えていたのに。

 もう、何もかもどうでもよくなった。

 同棲はその場ですぐ解消し、引っ越しの手配もした。

 荷物はもう家から運び出され、新居へ向かっている。

 我ながら行動力はある方だと自負している。

 一度嫌だと思ったことは、すぐに変えないと気が済まないし、同じ場所にいられない。

 その私が、こんな長い間同棲なんてよくもった方だ。

「それぐらい、好きだったのに……」

 思わずつぶやいて、私はハっとした。

 首を大きく振る。

 もう切り替えよう。

 過去を振り返っても、もう戻らないのだから。

 そして、私はこの機会に旅行をすることにした。

 引っ越しのこともあったので、長期の休暇をとっていたのだ。

 新居へ入居の日程も、旅行が終わるのに合わせている。

 今回の旅行先は、故郷の近くにあるずっと気になっていたところだ。

 帰りに、ついでに里帰りでもできたらいいなとか考えている。

 目の前に、新幹線が勢い良く滑り込んできた。

 開かれた扉に、私は力強く足を踏み出して乗り込んだ。


 車窓から見える風景はほとんど変わらない。

 私はそれに少し安心していた。

 この風景が変わっていたら、私だけ世界に取り残されたような、そんな気分にされていただろうから。

 忙しなく行き過ぎる風景を、私はただ眺めていた。

 いつも車内では本を読んだり、動画を見たり、何かしら時間潰しをしていたのだが、こういう過ごし方も悪くない。

 今は、頭を空にしていたかった。

 目的の駅を降りると、在来線に乗り換えた。

 平日だし、朝の通勤通学の時間をはずしていたから、駅には人もまばらだった。

 電車に乗り込むと、すぐに出発した。

 新幹線に比べてゆっくりと過ぎ去る景色は、穏やかな気持ちにしてくれる。

 この電車も人はまばらで、それもまたゆったりとした居心地を与えてくれていた。

 だんだんと、馴染みのある風景に変わってきた。

 この山だらけの風景は、私をあの頃に帰らせてくれる。

 また電車を降りると、乗り換えだ。

 いつも乗り換えに使っていて、正直ここも降りてみたいとは思っていたのだが、目的地に着いてのんびりとしたい気持ちの方が強かった。

 今回は観光ではなく、リフレッシュすることが目的なのだ。

 のんびり途中下車して周りを見ることもリフレッシュするかもしれないが、今の私には何も考えずぼーっとしている時間がほしかった。

 それには、電車に乗っている時間がとても適していた。

 だから、ちょうど電車が来る時間でもあったので、電車にすぐ乗り換えた。

 この路線も、朝と夕方は学生が大半を占めていて、割とわが物顔で居座っているのを記憶していたが、今は人もまばらだ。

 それがより、私が心を落ち着けるには良い環境だった。

 私はぼーっとただ流れる窓の景色を眺めていた。

 どのぐらい時間が過ぎただろうか。

 私は、はっと気づいた。

 いや、眠っていたつもりは全くなかったのだが、何だか覚醒したような心地だった。

 窓の外を見ていた目が映すのは、どこか違和感を感じる景色。

 なぜかそう思った。先ほど見ていたのと同じ見覚えのある景色のはずなのに、何か違う気がする。

 車内を見回してみると、周りには人がいなかった。

 たまたま、この車両にだけ人がいないだけかもしれない。

 それは特段おかしくもない。

 だが、急激に嫌な予感が襲い掛かってきた。

 私は、自分の荷物があるかどうか確かめた。

 大丈夫だ。きちんと持ってきたものはある。

 なんだろう。何がおかしい。

 電車の様子だろうか。いや、覚えのある走行音、車内だ。

 椅子の座り心地さえ同じだ。

 そうしていると、電車のアナウンスが私の目的の駅名を告げた。

 電車はスピードを落とし、やがて窓に駅のホームが映る。

 ほとんど人のいない田舎のはずなのに、有名作品の舞台になったということが観光資源となり、駅は意外と大きい。

 ホームから降り、改札の方へ行くと、駅員が立つ窓口があり、顔を出している駅員に切符を渡した。

 駅員は切符を受け取りながら、私の顔を不思議そうにまじまじと眺めていた。

 私は何だか嫌な感じがして、少し眉に力を入れて駅員を見返す。

「こちらの駅で下車でよろしいですか?」

 その駅員が、心底不思議そうに聞いてくるので、私は急に不安になった。

「えぇ、そのはずですが」

「そうですか……お気をつけて」

 そう言うと、駅員は切符にスタンプを押して返してくれた。

 駅員は、あんなに私の方を見ていたのに、それ以後は私から目をそらすようにうつむいた。

 私はそれを受け取って、不審に思いながらも改札を通った。

 すると、目の前を小さい子どもが駆け抜けた。

 ように見えた。

 走っていった方を見ても、誰もいない。

 その子どもが、着物を着ていたような気がして、気になって顔を上げてみたが、いないのでは確かめようがない。

 今時着物を着ているなど珍しい。

 何かイベントだろうか、と気になったのだ。

 気を取り直して、宿に向かった。

 ここは駅舎に旅館があり、前からそこに泊ってみたかったので、予約が取れたのは幸運だった。

 受付を済ませて、部屋に通された。

 そこは、ホームが見える部屋だった。

 これは、なかなか良い部屋に当たったかもしれない。

 幸運がここまで続く私の先行きは、なかなか幸先が良いものになりそうだと思えた。

 ここで行きかう電車を眺めていたかったが、せっかく来たのだから、この地を満喫しないわけにはいかなかった。

 宿から出て、また駅の出入り口に立った。

 さて、どこに行こうか。

 ここは、口承で伝わる民話の世界観を大事にしていることで有名だから、そのお話の舞台を回ってみたいと思っていた。

 だが、それがたくさんあるのだ。

 ここから近いのはどこだろう。

 駅にちょうど案内板があったので、それを見てみることにした。

 水に棲む妖怪がいる沢が近くで、ここなら歩いていけそうだ。

 まずはそこに行ってみることにした。

 空はまだ明るいから、時間はありそうだ。

 それから十数分歩いて、沢にたどり着いた。

 さらさらとかすかな音をたてて流れる、穏やかなできれいな小川だった。

 だが、間近で見ても底が見えない暗さが、どこか怖さを感じた。

 何だか寒気まで感じてきたので、その場から離れて、すぐに駅に引き返した。

 しかし、ふと思い至って数歩歩いて立ち止まった。

 そういえば実際に民話を語っているところを見せてくれる催しもあると聞いたことがある。

 先ほどから人がいる気配が感じられず、観光案内所も見当たらないので、ネットで調べてみることにした。

 時間が決まっていそうだから、先に見た方が良いかもしれない。

 そう思ってスマホを取り出し、ネットブラウザを開く。

 だが、ブラウザの画面は真っ白で、いつまでもつながらない。

 おかしいと思って、ふと気づいた。

 ネットがつながっていない。

 いくらここら辺が田舎と言えど、こんな観光地でそんなことがあるだろうか。

 私は、先ほどから感じていた違和感が、ここで一気に確定した気がした。

 背中に、寒気が一気に駆け上って来る。

 スマホから顔を上げて、辺りを見回す。

 すると、今まで気づいていなかったものが見えてきた。

 亀の甲羅のようなものを背負った、緑色の肌の二足歩行をする生き物。

 着物を着た小さな子ども。

 ぼろぼろの着物を着た白髪の年老いた女性が数人。

 猿や熊、たくさんの動物たちが闊歩していた。

 私は、そのこの世のものとは思えない異常な光景に驚き、立ちすくんでしまった。

 そして、私のことなど気にせずに歩いていたかと思っていたものたちは、突然私の方をぎょろりと目を見開いて見つめてきたのだ。


「!!」

 私は、恐怖に体が震えた。

 そして、目が開けた。

 それで、自分が目を閉じていたのだと知る。

「おや、どうされましたか」

 横から声がして、慌ててそちらの方を向いた。

 そこには、駅の改札を通った時にいた駅員がいた。

 私は、いつのまにか駅に立っていたようだ。

 記憶が途切れていて、何だか夢から覚めたような気分だ。

 何だか恐ろしい思いをしたような気がするのだが、記憶が朧げでよく覚えていない。

 せっかく来たが、もうすっかり観光する気が萎んでしまっていた。

「すみません、帰りの切符を買いたいんですが……」

 ちょうどいた駅員に声をかける。

「あぁ、お帰りになるんですね。それは良かった。どこまでですか?」

 駅員は穏やかな声で窓口に戻りながら話し、行き先を告げると、手際良く切符を出してくれた。

 彼の顔が、ここに来る時に改札を通った時とはうってかわって、穏やかな表情になっていた。

 私は礼を言って、その切符を受け取ると、さっそく改札を通った。

「お気をつけて」

 足を進めると、駅員の声が聞こえた。

 改札を通ると、爽やかな風が私の体を通り抜けたような気がした。

 ホームに出ると、すぐに電車が来た。

 扉が開き、車内へ足を出す。

 あぁ、なんだかすっきりとした心地だ。

 観光はできなかったけど、やっぱりここに来れて良かった。

 空いている車内の椅子にゆったりと腰を落ち着けると、電車は発車した。

 流れゆく景色を見ながら、私はこれからの生活に思いを馳せ始めていた。

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