第一話 邑﨑キコカ(その六)
実習棟の裏手に在る東側突き当たりの窓。その上の明かり取りは鍵が壊れていて、しかも隣接する植え込みの木の枝から校舎内に忍び込める。それは知る者ぞ知る侵入経路だ。しかしボクは知っているというだけ。使う理由は無かったし必要性も皆無だったから、当然利用するのはこれが初めてだった。
てっきり委員長も初めてだろうと思っていた。だのに、随分と手慣れた様子でするすると植え込みを登ってゆき、明かり取りを開け、あれよあれよという間に侵入して見せた。
その呆気なさに少し驚いた。窓の桟を手がかり足がかりにしながら、まるで備え付けの梯子を登って降りるような気安さだった。
「ひょっとして、前も此処を使った事があった?」
「何故そう思うの?」
「いや何となく」
子供の頃木登りしてた時の要領よ、と言われてそうかと返事をする。
対してボクは随分とおっかなびっくり。またしても委員長に手を貸してもらって、ようやく明かり取りのスキマから校舎内に入ることが出来た。情けない限りだ。
夜の校舎の中は本当に静かでただっ広く、独特の雰囲気があった。
昼間の学校とは丸きり違っていて、別の世界の見知らぬ建屋の中に迷い込んでしまったような錯覚が在った。
「委員長、よく進めるね」
「あら、怖いの?」
「そうじゃなくて、この暗がりでそんなにさくさく歩けないよ。よく見えるね」
「馴れればどうという事は無いわ」
「馴れてるんだ」
「いつも歩いている廊下じゃない」
確かにそれはその通りだが、これだけ勝手が違っていると昼間と同じとは到底言えない。明るいのとそうで無いのとは大違いだ。
何処に向っているんだい、と訊いたら四階の第二音楽室という答えがあった。確か其処はもう使われていなくて、不要になった机だの椅子だのが押し込まれていたのではなかったか。ボクの記憶が確かならばの話だけれども。
「誰も使っていないからこそ、誰かが入り込んだり、怪しいことをしていたりするのではなくて?」
「そうかも知れないけれど」
委員長は確信めいた足取りで進んでゆく。迷いや躊躇いなど微塵も感じられなかった。
ひょっとして既に何かを知っているんじゃないのか。予測や憶測などではなく、確たる目的があってそれに向っているのではないのか。或いは何かしたい事があるのだが、一人ではどうにも出来ず、手伝いが欲しくてボクを誘ったのかもしれない。
そう考えると色々としっくりくる。でもそれなら最初から言ってくれればいいのに。女子の頼みを無下にするほど無粋じゃないつもりだ。それとも前もって頼んだら断られるとでも思われたのだろうか。
色々と考えている内に目的の場所に着いた。委員長は一番階段に近い方の入り口を素通りして、もう一つの方、教室の後ろ側の入り口へと歩いていった。ひょっとして、と思って近い方の入り口を開けようとしてみたのだが、予想通り鍵がかかっていて開かない。
「やっぱり此処に来たのは初めてではないんだね。そして夜、校舎に忍び込んだのも今夜が最初って訳でもないんでしょ」
階段から遠い方の入り口を少し開けたところで、彼女は手を止めてじっとこちらを見ていた。
「違うと言ったら、君は帰っちゃうのかしら」
「帰りはしないよ。でも何故黙っていたのかなって思っている」
「昼間、皆が居る前では言わない方がいいと思って」
「そっか。それとさっきからずっと気になって居たんだけれど、そのベースボールキャップって委員長のもの?着ている灰色のパーカーも」
「何故急にそんなことを訊くの」
「以前、その格好とよく似た人影を学校の近くで見かけた事があったから」
そしてその人物は尋常ならざる脚力で、軽々とあの高い塀を跳び越えていった。
「どちらも弟から借りたのよ。窓から出入りするのに髪が邪魔になっちゃうでしょう」
まぁ確かにそうだろうね。
「其処に何が在るの?」
「いらっしゃい、見れば分かるわ」
そう言って彼女は手招きをした。
細くて綺麗な手首がゆっくりと揺れる。それがやけに白くて艶めかしかった。
招かれて、一歩踏み出そうとしたその時である。
「おっと少年、彼女のお誘いには乗らない方がイイわ」
廊下のずっと奥、消し炭よりも真っ黒な暗がりの更に深い場所から、場違いなまでに良く通る声が響いてきた。
窓から漏れ入る蒼い光の中へ、漆黒の中から一つの人影が出てきた。それはただ歩み寄って来ただけなのだが、まるで音も無く、気配すら無く、明かりも届かぬ深い闇の中から染みだしてきたかのような印象があった。
その人物の、蔦を思わせる酷くうねった黒髪が揺れている。
邑﨑キコカだ。
意外だとは思わない。むしろそうであろうなという確信と、予想が的中した奇妙な安堵とがあった。
「君堂くんだったっけ。悪い事は言わないから今すぐ此処で回れ右して、家に帰ることをお薦めするわ」
「駄目よ、彼女の口車に乗せられないで。此処にあなたには見られたくないモノがあるから、あんな事を言って遠ざけようとしているのよ」
「よく言うわね。見られたくないモノが在るのはあなたの方じゃなくて?」
邑﨑さんの左手には何故かモップが握られていた。時折ぽたぽたと滴が垂れて、廊下の床を濡らしている。どうやら今し方まで使っていたらしい。
「あんたらが汚した後を掃除するのって大変なの。大概にしてくれる?しかもあたしの目の前でお代わりをしようだなんて、図々しいにも程があるわ」
「耳を貸さないで、早くこっちに来て」
手を伸ばした委員長は思いの他に素早く、そして力強かった。強引に手首を掴まれて、そのままあっという間に今は使われていない教室の中へ、有無を言わさず引きずり込まれてしまったのである。
そして廊下に残るのはモップを肩に担いだ女生徒が一人。
「やれやれ、困ったもんだわ」
キコカは片頬を歪めて苦笑する。
だが当然、二人がその言葉を耳にすることはなかった。
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