暗褐色に染まる空

荒矢田妄

暗褐色に染まる空

 ついこの間まで、空に浮かんてでいるものといったら連想するものは雲以外にはなかった。青と白のコントラストは心を爽快にさせてくれて、僕らは折に触れ空を見上げながら暮らしてきた。


 今となってはもう、空を見上げる人はいない。


 人々は建物の中に閉じこもり、空はおろか外界からも目を背けていた。いや、背けざるを得なかったのだ。


 僕は空を見上げる。青と白の中に、無数の暗褐色が風穴を開けていた。空に浮かぶものは雲だけではなくなった。「やつら」が現れて以来、僕らの生活は一変してしまったのだ。人々は「やつら」を恐れ、自らの身を守るために建屋の中に身を隠した。


 けれど、僕らは今も空の下にいる。何故なら、僕らの心に「それら」に対する恐れなどは微塵もないからだ。


 今日もやることは変わらない。「やつら」を一体でも多く刈り、いつかまた元通りの日常を取り戻すこと。それが僕らの使命なんだ。


 相変わらずどこが顔かも分からない「やつら」だったが、何らかの能力により標的を認識することはできるらしい。「やつら」のうちの数体が僕の存在に気が付いた。


 真っすぐに僕へと急降下してくる「やつら」。その様を見て、僕は心の底から湧き上がる笑いを抑えることができずに、少し噴いた。




 僕がこれまで過ごしてきた毎日は、まあ人並みには明るく楽しく充実したものだったと思う。


 突出した能力を持ったり、他にないイベント事を味わったりは無かったけれど、友人たちと中身のない会話で笑い、生産性のない行動に勤しんだ。いずれは自分達も学生という身分を終えて成人と呼ばれる年齢になり、社会に出て働くのだという現実なんてものは頭の片隅にありつつも、でも、なんだかんだでこんな毎日がずっと続いていくんじゃないかという漠然とした感覚を持っていた。


 そんな僕のどこにでもあるような日常は、ある日「やつら」が空から舞い降りてきたと同時に終わりを迎えた。

 重力を無視しふよふよと空を漂う「やつら」に、僕らは授業中にも関わらず席を立って窓際に詰めかけた。本来であればこんな暴動を良しとしないであろう先生でさえも、空を埋め尽くさんばかりの「やつら」に気を取られていた。


 すっげー、なんだあれ、どこから来たんだと僕らはガヤガヤと騒ぎ立てた。これまでの日々では起こり得なかった異常な光景だったけれど、その瞬間の僕らは「日常がガラッと変わるような、面白いことが起きるんじゃないか」なんて、今考えると呑気と言うほかない感情で胸を膨らませていたのだ。


 空に浮かぶ「やつら」は徐々に数を増やしているように見えた。一つ一つに個体差は見えるものの、総じて暗褐色。ぶよぶよとして弛んだ外皮は皺だらけでところどころに染みやら血管と思わしき筋なんかもある。おまけに体毛(と呼んでいいのか分からないが)がまばらにバサバサと生え揃っていて、まあお世辞にも綺麗なものとは言い難かった。


 グロテスクなまでに醜い「やつら」。しかし何故だか僕はそのフォルムに、不思議な既視感と親近感を覚えさせられたような気がした。

 その理由は、山田くんがぽつりと呟いた一言で判明することとなる。


「…………なんかさ。あれ、きんたまみたいじゃね?」


 暫しの沈黙。のち、堰を切ったような爆笑が教室中に轟いた。


「そうだ! そうだわアレきんたまだ!」


「ブハハハハ! 空飛ぶきんたまじゃん!」


「俺、なんか見た覚えあるなーって思ってたんだよなー! 俺のきんたまだったわ!」


「お、あれとか橋下のきんたまそっくりじゃね? つーかお前のじゃね?」


 そうだ、確かにそうだ。俺たちの股にぶら下がってるきんたまそのまんまじゃないか!

 女子はそんな僕らを見て「もー最低」「男ってほんとバカ」なんて言いつつも口元はぷるぷると震えている。先生すらも笑いを堪えられていないようだ。


 突如現れた無数のきんたまが空を覆う様は、異常な光景ではありつつとてもおかしなもので、僕ら男子はゲラゲラと腹を抱えて笑い転げた。


 突然、ふよんふよんと漂うきんたまの大群が、一斉に地上へと急降下を始めた。

 外にいた人達は逃げ出すための一歩を踏み出す間もなく、きんたま達の締まりのない外皮に飲み込まれた。


 くぐもった悲鳴が上がり、そして……消えた。


 僕らの笑い声も一瞬にして消え去り、教室内は不自然なほどシン……と静まり返った。

 女子の一人が上げた「嫌ァァァ!」という悲鳴をきっかけに、クラスは大騒ぎになった。


 その悲鳴を聞きつけたのか、奴らの大群は一斉にこちらに目のない顔を向けた(ように見えた)。

 そして、弾丸のようなスピードで、余った皮と毛を後方になびかせながらこちらに向かって飛びかかってきたのだ。


「閉めろ! 窓を閉めろおおお!!」


 誰かが叫ぶ。僕らは掴みかからんばかりの勢いで窓をガラリと閉め、鍵をかけた。

 瞬間、ビタビタビタビタッ! と音が弾ける。窓の外は瞬く間にぐにぐにうごめく醜い暗褐色で埋め尽くされた。金切り声を上げながら僕らは一斉に窓から遠ざかる。


 明らかに異常な光景だ。何が起こっているのかは分からない。けれど、決して良いことではないことは確かだ。一体なぜ、こんなことに。奴らは何なんだ。どこから来たんだ。何が目的で人を襲うんだ。


 頭をぐるぐる回転させても何も答えが出てこない。僕らはパニック状態だった。

 そんな中、橋本くんが泣きそうな声で呟いた。


「ま、まさか……。きんたまが人を襲うだなんて……」


 シン……という沈黙。そして、再び教室が爆笑に包まれた。


「ハハハハハ! は、橋本お前笑かすなよこんな時に!」


「嫌だー! きんたまに襲われて死ぬのだけは嫌だー!」


「つーかきんたまが人を襲うなんてマジかよ! あんなに優しい奴なのによ!」


 お前はきんたまの何を知ってるんだ。そりゃお前のきんたまは弱っちいかもしれないが、俺のきんたまは違うぞ? 雄々しく、猛々しく、生命力に満ち満ちているんだ。その気になれば人を殺せるさ。

 そんなバカバカしいことを口にしながら、僕らはゲラゲラと笑い転げた。


 いや分かるんだ。笑ってる場合じゃないんだ。実際に人が襲われてる。不謹慎だ。

 でも、笑っちゃうんだから仕方がない。空を舞うきんたまという字面だけでも面白いのに、高速移動するきんたま、皮で獲物を捕らえるきんたまなんてもん見せられたらもう抱腹ものだ。確かに奴らは人を襲っている。けれど、それ以前にあいつらはきんたまそっくりなんだ。というかきんたまそのものなんだ。それに気が付いてしまったからには、もう笑わずにはいられないんだ。


 女子達はそんな僕らの様子を見てにわかには信じがたいといった表情をしていたが、あんまり僕らが笑うもんだから、つられて笑顔を見せる子達もいた。


 笑うという行為は不思議なものだ。笑えているということが、それも友達とバカバカしい冗談を飛ばし合いながら腹を抱えて笑っていられるという事実が、僕らの身体から恐怖を拭い去っていく。

 僕ら生徒が落ち着きを取り戻したことを確認すると、先生は立ち上がって言った。


「私は一度職員室へ行き、他の先生方と状況を確認してきます。皆さんは教室から離れないように。安藤さん、吉村さん、お願いしますね」


 学級委員の二人にクラスの統率を依頼し、先生は扉をガラガラと開けた。


 瞬間、暗褐色のぶよぶよした塊が先生を一気に飲み込んだ。


「う、ウワー! きんたまが! きんたまが先生を襲ってる!」


「なんてこった! 学校の中にも既にきんたまが入り込んでいたなんて……!」


 そのフォルムでひとしきり笑ってしまったが、目の前で知っている人を襲っているとなれば話は別だ。僕らは再び、一切の茶化しなくきんたまと対峙することとなった。未だかつてこんな真剣にきんたまを見つめたことがあっただろうか。いや、ない(というかこいつらはただきんたまに酷似しているだけの謎の存在で、正確に言えばきんたまではないのだろう、多分)。


 きんたまはうぞうぞと蠢きつつ、確実に先生をその皮の中に沈めていく。しかし、それ以外に人を襲う様子はなかった。


「なるほど、きんたまの生態として、捕食中は他の獲物に向かって行くことはないのか。ひとつ貴重な知見を得た」


「ということは、攻撃するなら今がチャンスってことだな?」


「どちらにせよこいつを始末しないことには教室からは出られないよな」


「それに、今ならまだ先生も助かるかもしれない!」


 そうと決まれば話は早い。流石に素手で殴る勇気はなかったので、教室の中で武器になりそうなものを手にした男子が一斉にきんたまへの攻撃を始めた。

 そして僕は……。


「うお、お前バットなんか持ってたのかよ」


「いつも持ってきてるわけじゃないんだけどね」


 そう、何を隠そう僕は野球部員なのだ。普段ならバットは持ち歩かないんだけど、今日の練習メニューは特打の予定。であれば使い慣れたバットで打ち込みたいので、たまたま持ってきたのだ。

 野球道具を武器にするなんて、普段から考えれば言語道断の所業だ。けれど今は緊急事態。野球の神様よ、僕に力を!


 学級委員長の安藤くんがやや後方から攻撃陣に指示を飛ばす。


「とにかく叩け! ヤツはきんたまそっくり! 即ち弱点も同じである可能性が高い! 打て! その弛んだ袋の奥にある、タマを打つんだ!」


「分かってんだけどよ……! こいつ、どうにも皮がぶよぶよで、効いてる感じがしねえ……!」


「なるほど、きんたまの皮があそこまでダルダルなのは、中にある秘宝を守るためでもあるのか……」


 そうだったのか……。きんたま道は深いぜ……。いやでも普通に叩かれると痛いけどな? 守りきれてない気がするけどな?

 安藤くんの的確な考察に、僕らは感嘆の声を漏らす。そうこうしているうちにきんたまは先生の吸収を進めており、あと僅かで完食されてしまう。そうなればまた次の被害者が生まれる。猶予はない。


 安藤くんと共に、僕らは足りない脳みそを絞って考える。


「どうにかしてタマにダメージを与える方法はないか……」


「せめてこの皮さえなんとかなればいいんだけどな……」


「今はちょうど夏だからなあ。きんたまだったなら、冷やせばギュッと縮まってタマを狙いやすくなるのに」


「そっ、それだ! それだよ橋下くん!」


 橋下くんの呟きを聞いた瞬間、僕の脳みその電球がパァッと灯った。この明るさ、間違いなくLED製だね。


「やつらはきんたまだ! きんたまなんだよ! だとすれば、橋下くんの言う通り冷やしてしまえばいい! それでやつらのタマは丸裸も同然だ!」


 確かに一理ある、と安藤くん。


「だけど、どうやって冷やす? 教室のエアコンじゃ下げられても精々十度前半がいいとこだ。それじゃやつらに致命傷を与えられない。もっと、キンキンに冷やすことができればいいんだけど……」


「あ、あのー……」


 戦う男子を見守っていた女子の集団から、おずおずと加藤さんが手を上げて歩み出てきた。


「あたし、水筒に冷水入ってるけど……。それじゃ足りないよね……?」


「あ、でも私も水筒持ってきてるよ。冷たいの」


「私もあるよ。ジャスミン茶だけど」


 喉が渇きゃ水道水を飲めばええやろという考えの僕ら男連中とは違い、女性陣は水筒に自前の飲み物を入れて持ってきている人が多いようだ。ちらほらと暖かいお茶を持ってきている人もいるのに驚くが、冷たい飲料を持っている人も季節柄それなりの人数がいる。


 女子人から続々と水筒が差し出される。それを見て、僕らの決意は固まる。必ずやこのきんたまを打ち倒そうと。

 僕らは一人ずつ水筒を手に取り、陣を組む。音頭を取るのはやはりクラスのリーダー安藤くんだ。


「みんな、いいか? チャンスは一度きり。失敗は許されない。でも、僕らならやれる。呼吸を合わせるんだ」


 安藤くんはゆっくりとクラスの男子全員に視線を回す。決意に満ちた強い眼差しに、僕らは頷きで応えた。

 そして僕らは配置につく。きんたまとの距離をじりじりと詰め、いつでも攻撃に移れる近さだ。


 安藤くんが鋭く叫んだ。


「今だ!!」


 僕らは一斉に水筒の中身をきんたまへぶっかけた。近頃の水筒は技術とテクノロジーの進化により保温&保冷効果バツグン。キンキンに冷やされた状態の飲み物が一斉にきんたまへと降りかけられる。


 きんたまは全身に飲み物を浴び、うねうねとその身をよじり始めた。見るからに冷たい物を嫌がっている。溶けたウシガエルのような皮膚は、きんたまの中心部へ吸い込まれるようにしてギュンギュンと縮んでいった。

 僕たちは歓喜の声をあげる。


「効果アリだ! いけるぞ!!」


 今やきんたまは元の三分の一ほどのサイズにまで縮み、その皮はピンと張りつめてもはや艶やかなほどだ。そして、僕の期待した通りの結果が現れる。


「見えた! タマだ! 今ならやれるぞ!!」


 恐らくやつらの弱点ではないかと思われる秘部。先ほどまでは締まりのない上皮組織に守られて攻撃が届かなかったが、今は真空パックされたかのようにそのシルエットを完全に露わにしている。


 いっけえぇぇぇ! と誰かの叫びを推進力に、僕は身体に染み込ませたフォームで鋭くバットを振りぬいた。僕は野球部。タマを打つのはお手のものだ。しかも標的は野球ボールよりも数段大きい。逃すわけはない。


 キーン! と一昔前の高校野球中継でよく聞くような、甲高い金属音が鳴り響く。

 きんたまは苦しそうにぶるぶるとその身を痙攣させ、どちゃりと床に落ちた。動く様子は……ない。

 僕らは一斉に拳を突き上げ、勝利の雄叫びを上げる。


「ウオオオオオ!! 我らの勝利だ!!」


「きんたま、討ち取ったりぃ!!」


「下賤なきんたまなぞ、恐るるに足りず!!」


 僕らは人食いきんたまを打ち払い、生をその手に掴み取った。男子も、女子も、皆が手に手を取って喜んでいる。けれど、残酷な事実が僕らをすぐに現実に引き戻す。


 先生を、助けられなかった。


 一人、また一人と、僕らを守るために犠牲になった存在を思い出し、表情を硬くする。


 そして、ふと気が付いた。

 校内の至る所から、悲鳴や助けを求める声が聞こえるのだ。


 もうこれ以上、きんたまの犠牲者を出してなるものかと、僕らは共有の決意を固める。


 やつらは恐ろしい存在だ。突然現れ、物言わず空を浮遊し、なんの前触れもなく人に襲い掛かり、取りつき、捕食する。コミュニケーションの取れる存在ではなく、何のための生命体なのかすら分からない。


 しかし、僕らに恐怖心など微塵もなかった。


 何故なら僕らは、やつらがただのデカいきんたまであることをもう知っているからだ。いくら人を喰らおうと、きんたま相手に怯える道理はない。その滑稽な姿と名前を思う存分に笑い飛ばし、やつらを討ち果たして回ろう。

 そして皆に説いて回るのだ。恐れる必要などないのだと。奴らは人を襲う異形の怪物などではなく、デカいだけのきんたまに過ぎないのだと。


 大丈夫だ。僕らは、人類は、きんたまなぞに負けはしない。

 僕らから始めるのだ。きんたまに抗戦するための力を、僕らから皆に広げていくのだ。この頼もしいクラスメイトとなら、必ずそれができる。


 まずはこの学校だ。学び舎の仲間たちを、きんたまの恐怖から救わなくては。別のクラスのきんたまは同じ手段で倒してやろう。職員室や保健室など、先生がいる部屋には冷蔵庫がある。きんたまが嫌がるものがたっぷり詰まってるはずだ。運動部の部室棟に行けば冷感スプレーだって手に入る。これだって、きんたまへの効果は抜群だ。


 僕らは戦い続ける。その口元に笑みを湛え、この世からきんたまを一匹残らず駆逐するまで。


 たとえ世界がどんなに変容したとしても、きんたまの面白さが揺らぐことなどない。

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