第3話 儚い幸せ

 アリシアは、自分の家の庭の隅で、声を押し殺して泣いていた。

 人生でこんなにも胸が張り裂けそうだと思い、体中の水分が抜けるのではないかと思うくらい泣いたことは、あっただろうか。頭の冷静な部分が、冷静に問いかけていた。

 否、そんなこと……あるわけがない。

 彼女は、幸せだった。優しい両親と、大好きな人がいて。これ以上の幸せはないと思っていた。これからもそれが続くのだと思っていた。

 でも、違ったのだ。その幸せは、時間制限付きの、儚いものだったのだ。

 自分は夢から覚めてしまったのだ。そう、気づいた。

『どうして泣いているの? あたしの可愛いアリシア』

 そこで背後から声が掛かった。アリシアは思わず勢いよく振り返る。……そこにいるのは、自分に加護を与える大精霊、トゥ・ウィンクだった。

 その純粋無垢なまでの笑みに、思わずアリシアは怒りと畏怖を覚える。

 ──この子さえいなければ。私はリックとずっと一緒に居られたのに!

 心の中で、怒りのままに叫ぶ。だがそれが声になることはなかった。先程言った通り、畏怖も感じていたからである。

 話しただけで分かるのだ。この大精霊の持つ、強大なエネルギー。

 精霊は、純粋無垢である。だからこそ、彼らが好む人間にはとことん甘いが、それ以外の人間にはそれはそれは無情だ。彼らの住み家に迷い込んだ人間が、無残な姿で帰って来たこともある。

 つまり、アリシアが微笑めばウィンクも彼女に微笑み、怒りをぶつければ同じような怒りと強大なパワーを、ぶつけられる。

 フレドリックの儀式の際、ウィンクは「あいつが嫌い。関わらないで」と告げた。つまりアリシアがフレドリックに寄れば、それはウィンクの怒りを買うことになるのだろう。

 ぐるぐると、アリシアの中に様々な思考が飛び交う。そのせいで脳の回線が口を動かすという行為に繋がることはなく、アリシアはただ口を小さくぱくぱくとさせていた。

『あ、分かっちゃった。あいつに会えなくなることが嫌なんでしょ。アリシア、あいつのこと好きだもんね。あたし、アリシアのことは好きだけど、男のセンスは嫌い! あんなやつのどこがいいの? ……まあいいや、もう関わらないんだもんね。王様にも命令されちゃったもんね。大丈夫! アリシアは可愛いから、すぐにいい男がアリシアを選んでくれるよ。きっと両手じゃ数えられないくらい! それにあたしもいるよ。

 ねぇ、だから、ねぇ。あんなやつ、よね?』

 アリシアの惑う心に構わず、ウィンクは矢継ぎ早に告げる。気づけばアリシアはウィンクに詰め寄られ、庭の柵に背中を付けていた。

 呼吸が乱れる。心臓の音が耳元で鳴っている。涙は乾いた。こんなにも苦しくて辛い。だというのにアリシアは今、選択を突き付けられている。

 愛する人を取るのか、大精霊の怒りを買わず、国命を順守することを取るのか。……傍から見たら、きっと選ぶまでもない問題なのかもしれない。

 この先、ずっとフレドリックと愛し合えるか分からない。どれだけ月日を重ねた夫婦めおとでも、少しのすれ違いでその愛が冷めきり、別れてしまうこともあるという。いつか来る別れが、たまたま今日この時だっただけなのかもしれない。アリシアは思わず、そう感じた。

 一度思いついてしまった悲しい結末は、染みのように心に深く、暗く、広がっていく。そうなるかもしれない、が、きっとそうなるのだ、という言葉に変換されてしまった。

 アリシアは、あまり自分に自信がなかった。だって、フレドリックは昔からとてもかっこよくて、真っ直ぐで、真面目で、頭も良くて、皆から頼られる存在。大精霊に選ばれることも納得だ。

 そんな彼に、これからも愛してもらえる自信がない。彼は自分の髪を撫で、かわいい、や、愛しているよ、などといった甘い言葉を掛けてくれる。最後には額に優しく口付けを落とすのが、気づけばルーティーンになっていた。そうされると、もう終わりか、と感じ、次に彼に触れてもらえる日が楽しみになるのだ。

 むず痒くて気持ちの良い、幸せ。

 いつまで、そうしてもらえるだろうか。

 いつかあの人は、他の子に微笑みたいと思う日が、来るのではないだろうか。

 いつまで続くか分からない幸せより、確約された安定と、それによる幸せを取る方が、いいのではないだろうか。

 そう、思ってしまった。

 そう思うまま、アリシアは無意識に手を伸ばす。ウィンクの手を取るように。それはフレドリックの存在を、関係を、過去のものとする。そうすることと一緒だった。

 これでいいのだ。これで、あの人も私も、きっと幸せになれる。

 雨が降り始めた。ぽつり。音がして、アリシアの頬に一粒の雨粒が舞い落ちる。それはアリシアの涙のように見えた。

 そうして彼女は、目を伏せて。


「──アリス!!」


 はっ、と、彼女は勢いよく目を開いた。それと同時、それまで笑っていたウィンクが舌打ちをする。

『チッ……邪魔者が来た』

「リック……!?」

 雨に打たれながらも、そんなことに構わず自分に駆け寄る彼の姿に、アリシアは思わずその名を呼ぶ。愛称を呼んでもらったことに、自分に駆け寄ってくれることに、アリシアの枯れていた涙はまた潤いを取り戻した。そのせいで、彼の名を呼ぶ声が震えてしまった。

 だがすぐに、背筋に緊張が走る。気づいてしまったからだ。隣にいる大精霊が、その小さな身からは考えられないほどの強大なエネルギーを纏っていることに。

「リック、駄目!! 来ちゃ駄目よ!!」

 しかしフレドリックが足を止めることはなかった。声が届いていないわけではない。彼が愛するアリシアの声を聞き漏らすなど、そんなことがあるはずがない。

 危険だということも理解している。何故なら彼にも、ウィンクの姿が見えているし、そのエネルギーの強さも肌で感じているからだ。だがその危険を無視してまでも、アリシアに駆け寄らないといけないと感じていた。

 そうしないと、アリシアは二度と自分に微笑んでくれないと、彼はそう感じていたのだ。

 だがアリシアはそのことを知らない。足を止めない彼の姿に、数秒後の無残な姿を想像する。想像してしまう。リック、と、悲鳴のようなアリシアの声が響いた。

『優しいアリシアに免じて、あんたが逃げるなら見逃してやろうと思ったけどさ……バカだね~。そんなにアリシアが大好きなら、光に焼かれちゃえ!!!!』

「ウィンク、やめて!!」

 今度はウィンクに頼むが、彼女が止まるはずもない。ウィンクが作り出した光線は、真っ直ぐにフレドリックに飛んでいく。アリシアは目を伏せてしまいたかった。だが目を逸らすことなど、出来なかった。

 アリシアの口から悲鳴が零れる。そして彼女がしていた想像が現実のものになると、そう思われたが……。

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