#4 運命的なキス

 隣で東雲がすうすうと寝息を立てていた。窓の外は少し白み始めている。僕は東雲を起こさないようにそっと布団から抜け出し鞄を開くと、メモとペンを取り出して自分の気づきを書き出した。


「遠山さん?」


 見ると布団の中から東雲が不安そうな顔でこちらを見ていた。


「起こしちゃったか」

「もう帰るんですか?」

「いいや」僕はメモ用紙を掲げてみせた。

「それは」彼女はメモの中身を見て戸惑った。「『万人受けしなくてもいい。届く人にさえ届けばいい』」

「どうかな」


 僕が尋ねると彼女はしばらく布団の中にこもって考え込んだ。


「いいんでしょうか。バイトがそんな勝手な判断をして」

「任されたのは東雲だ。だから東雲が決めていいんだと思う」

「私が……」


 僕は彼女の手を握った。


「どうしたんですか?」

「僕は手を繋ぐだけでこんなに救われるなんて思いもしなかった。でも多分それは僕だけの話なんだ。他の人は手を繋ぐなんて当たり前のようにやっているし、それが特段嬉しいことだとは感じない」

「それは、まあ」そこで彼女はハッとしたように僕の顔を見た。「万人には理解できないからこそ、美しい?」

「多分、そうなんじゃないかな」


 届く人にだけ届けばいい。とても傲慢なことだと思う。だがその傲慢さでしか救われない人もきっといるはずで、僕らが作品を届けるべきはそういう人たちなんじゃないか。だからあの記憶はありのまま出せばいい。ありのまま二つ繋げて、寄り添うように配置すればいい。ちょうど運命が僕たちを出会わせたように。


「それなら、できそうです」


 東雲が言った。


「一緒に怒られよう」

「当然です」


 ふふんと鼻を鳴らして彼女は小指を差し出した。


「ゆびきりしましょう」

「うん」

「ゆびきりげんまん嘘ついたら針千本呑ます。指切った」

「切った」

 

 こうして僕と東雲は運命共同体になった。

 


 あっという間に1ヶ月が過ぎた。夏祭りの夜、僕と東雲は公園で待ち合わせした。


「明日君」


 東雲が浴衣の袖をふりながらこちらに歩いてくる。下駄の音が夜の空に吸い込まれる。


「楓」


 僕は彼女の名前を呼んだ。


「じゃあ行こうか」

「うん」


 そうして二人で手を取って夜の街を歩き出した。



 結局僕たちはあの運命の人の記憶を二つ単純に配列しただけのデータを提出した。そこに行き着くまでに多少の試行錯誤はあったが、やはりこの形が一番いいだろうと言うことで二人で同意した。


 社員の人たちからは少し非難の声が上がったが、意外にも社長がそれを一喝した。


「つまりはこれなんだよ」


 という意味不明なコメントに誰も反論することはできなかった。


 

 僕らが境内にたどり着いた瞬間、示し合わせたように花火が打ち上がった。それを目に入れると数多の加工された記憶が僕らの頭の中に飛び込んできた。壮観だった。一つ一つの独立した花火が夜空を舞台に干渉しあい、踊っているみたいだった。


「いろんなことがありましたね」

「そうだな」


 2ヶ月前、僕は全てを失い、代わりになんでも手に入れられるほどの大金を手に入れた。僕はそれで何かを手に入れようとした。だが僕の見える範囲には何もなかった。手に入れて嬉しいようなものは何も。本当に大切なものはお金では買えないという当たり前の事実が僕を打ちのめした。


「いろんなことがあった。いろんなものを失った。でもいろんなものを手に入れた」

「なんと言うか、人生ってあっけなく変わるものなんですね」

「そうだな」

「良くも悪くも、ですけど」

「うん」


 僕らは手を強く握り合う。


「夏祭りが終わったら夏が終わるんだって、私は子供の頃から思ってたんです」


 彼女は物悲しさを称えた顔で笑う。


「夏が終わったら、どうなるんだろう」

「普通に生き続けるんじゃないかな」


 僕はそうであればいいという思いを込めて言った。


「だといいですね」


 彼女は言った。


 大きな音がして、一際上空に花火が飛んだ。


「あれが最後ですね」

「うん」僕は答える。「運命の人の花火だ」


 花火は空の頂点に触れると、跳ね返るように速度を落とした。


 そして爆ぜる。



 とある中学生の女の子は空っぽでした。友達もおらず愛されたこともなく、もう明日には死のうと思っていました。けれどそんな思いを抱えていても足は学校に向いてしまうもので、彼女はいつも通り自分の居場所のない教室に辿り着きました。


 扉を開けると男の子の集団がありました。女の子はその子達が苦手でしたが、偶然にも一人の男の子と目が合ってしまいます。その男の子は彼女の顔をじっと見つめました。女の子は咄嗟に目を逸らします。すると声が聞こえました。「おはよう」女の子は自分の耳を疑いました。それは確かにその男の子が発したものであり、その「おはよう」は自分に向けられたものでした。


「おはよう」、女の子はたどたどしい口調で彼に返します。その日は女の子の人生で一番幸せな日になりました。女の子は思いました。もし彼が何か助けを必要とする時が来たら、自分が力になってあげよう、と。


 ですがその日はやってきませんでした。



 とある男の子は少しだけ満たされた人間でした。しかし彼は両親の残した借金のせいで、自分の記憶を売ることを余儀なくされました。彼は一つずつ記憶を売り払っていきます。


 最後の記憶を売るときになりました。彼には迷いはありませんでした。最後の値段がついた記憶というのがなんなのか、彼にはわかりませんでした。当然です。それはただ挨拶をしたというだけの記憶だったのですから。


 その挨拶をしただけの記憶は一つだけではほとんどなんの価値も持たなかったでしょう。しかし偶然にも挨拶された方の女の子が記憶をすでに記憶バンクに登録しており、男の子が記憶を売ることによって二つが揃いました。奇しくも男の子と女の子はどちらも同じ記憶をうることで完璧な虚無になったのです。数奇な運命が二人を飲み込んだようにも思えました。



 女の子は男の子の力になりたいと考えました。それは結果的に叶いました。男の子は彼女が記憶を売ったことによって借金を全額返済したのですから。しかし女の子がそれを知る余地はありませんでした。彼女の行方を知るものは、誰もいません。




 花火を見終えたとき、涙を流していた。でも後悔はなかった。どんな運命を辿ったとしても、僕が挨拶を交わした女の子と再会することは決してなかっただろう。ただ記憶を売るという行為を通してのみ僕と彼女は通じ合い、一つになった。その僕は僕ではないし、彼女は彼女ではない。僕ではない僕と彼女ではない彼女だからこそ、この話は成立していた。それは僕の話でありながら、どこまでも他人の話だった。


 花火はもうあがらなかった。会場を見ると予想通り困惑している人が大勢いた。当然の反応だろう。入念に加工された花火が多い中、目玉であるはずの花火がとても簡素で、しかもよく理解できない内容だったのだ。でもそれは僕らが目論んだ通りの結末だった。やはり後悔はなかった。


「記憶を売った後、女の子はどうなったんでしょうか」

「あまり考えたくないな」


 良い記憶を全て売ってしまった僕がどうなったかを考えると、彼女がたどった結末というのはやはり好ましくないものだっただろう。だから考えたくはない。だが一方で、決してこの事実だけは忘れないようにしようとも思った。僕は窺い知れないところで間違いなく彼女に救われたのだ。僕が無自覚に彼女を救っていたのと同じように。


「おう」


 見ると階段に社長が立っていた。


「社長」

「厳島だ」社長は初めて名乗った。「いい出来だった。ありがとう」


 それだけ言い残して彼は踵を返す。頬には涙が伝っていた。


「あの」僕は呼び止める。

「なんだ」

「今更いうのもなんですが、楽しかったです。ありがとうございました」


 そして僕らは彼の背に向かった頭を下げた。


「来年も気が向いたら来いよ」彼は背中越しに手を振った。「そのときにはもう事業内容を変えてるかもしれんがな」


 そう言い残すと階段を降りて人混みに吸い込まれていった。


「…変な人でしたね」東雲が言う。

「でもいい人だった」

「部分的には」

「そう。部分的に」


 何もない空を見上げる。


「夏、終わっちゃいますね」

「うん」

「どうしましょうか」

「僕らで夏をまだ続ければいい」


 僕は励ますように微笑みかけた。「信じるなら青春も夏もいつまでだって続けられるさ」


「それは」東雲は笑った。「ユニークな考えです」


 そして僕らは押し黙る空の下で、不器用に口づけを交わした。


 それは多分、いくらか運命的なキスだった。

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思い出を花火にするお仕事です 甘雨隣 @misodengaku893111

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