第2話 ザッハトッシュ修道院

 季節問わず紅の葉をしげらせるレッドウィルの生垣が、修道院の敷地を囲っていた。


 多種多様な役割を持つ建物が、修道院の名のもとに集っていることは、あらかじめ知識としてはあった。だが育った修道院よりずっと大きな建物が、もはや街と言ってもまちがいではないほど広大に建ち並んでいる様に、クラリスはすっかり圧倒されてしまった。


 さらに案内役のシスターの丁寧な説明を聞くにつれて、だんだんとめまいさえ覚えるような気になってくる。


『もう身体が限界なんだろ。博物館じゃねぇんだから、長ったらしい説明はやめて早く休ませろって、この小さいばあさんに言えよ』


 シスターになんて口をきくのだと叱りつけたくなるが、そんな体力もなく、消え入りそうな声が「し……」とだけ呟いた。


 そんなかすかな声を聞き取って、前を行くシスターがクラリスをふり返った。


 白い糸で花の刺繍がほどこされる頭巾がひらりと揺れる。白髪混じりの太い眉の下、しわの間からのぞく宝石のように澄んだ青い瞳が、クラリスの胸ほどの高さから見上げる。


「なにか、わからないことがありましたか」

「いいえ、丁寧なご説明をありがとうございます、シスターマーロウ」


 ふりしぼってそう伝えれば、マーロウはまじまじとクラリスを見つめたあと、カバンを持つ彼女の手にそっと指先を触れさせた。


「あらまあ! 氷みたい!」


 ぴょんと跳ねてそう叫ぶと、慌ててクラリスの背中を撫でさすりながら、建物の影までつれていく。彼女の手からカバンを取り上げて、その場にしゃがむよううながした。


「ごめんなさい、体調が悪かったことに気づいてあげられなくて」

「いいえ、そんな! 少し歩き疲れてしまっただけで、大したことはないんです!」

『いまにもぶっ倒れそうだったくせして、意地張ってんなよ』


 クラリスは強めにペンダントトップを爪で叩いた。


「よく瞳をのぞけば、わかりますよ。……緊張して、旅のあいだそうしてずっと気を張っていらしたのですね。心配なさらずとも、あなたは素敵なシスターになれますよ。こんなに美しい目をしていらっしゃるのですから」


 思わず、涙が溢れそうになった。

 育った修道院のシスターたちも、そうだった。ほんのわずかに言葉を交わすだけで、心の澱がすっとすべて流れてしまうのだ。


 だからクラリスもシスターになりたかった。自分も誰かの救いになりたい。旅に出てからずっと、理想とするシスターの鎧の内側でがむしゃらに手足を動かしていたクラリスを、マーロウはいともたやすく抱きしめた。


「すぐその建物が、巡礼者たちの宿舎です。あなたの部屋は用意してありますから、礼拝の時間まで身体を休めてください。礼拝堂は、あちらの一番高い塔です。朝のお祈りが終わったあとで、これからのことをお話しします」

「ありがとうございます、シスターマーロウ」


 夢添いの儀——オズクレイドへの輿入れを終えて、黒の頭巾に白い花の刺繍を刻んだら、自分もこんなふうになれるのだろうか。


 重たかった足が虚勢を張らずとも動くようになったころ、マーロウの手を借りてクラリスはこれから数日間宿となる部屋に入った。


 板張りの床は隅々まで掃除が行き届いていた。石造りの壁はひんやりとしていて、ようやくほてりを思い出した身体には心地いい。


 荷解きを諦めて寝台に身体を投げ出せば、頭上の窓を抜けて舞いこんでくる光の花びらがクラリスの修道着にいくつも溶けた。


「太陽の光が花びらのかたちになるなんて、やっぱりふしぎ——」


 クラリスの故郷ではまず見られなかった光景だ。


 ゼネディア共和国の豊かな大地は、三人の夢守りによって保たれている。


 花の夢守り、オズクレイド・ザッハトッシュ。

 水の夢守り、ディネウィーン・アッサム。

 杜の夢守り、ラスカル・リーモルト。


 生まれたときから眠っていたという彼らは、ゼネディア開国から現在に至るまで、およそ千年ものあいだ夢を見続けている。


 一人でも目を覚ましてしまうと、大地に綻びが生じるという。だからこそ夢守りの子孫ザッハトッシュ、アッサム、リーモルトの御三家は協力してゼネディアを治めてきた。


 陽の光、月の光が花びらのかたちとなって降りそそぐのは、花の夢守りが眠るリンデバウム特有の現象だった。ときおり別の場所で見られることもあると言うが、それもザッハトッシュ家の領地に限った話である。


「オズクレイドさまは、こんな素敵な夢を見ていらっしゃるのですね」

『そりゃ、こんだけたくさんの嫁がいるわけなんだしいい夢くらい見るだろ』

「そんなひねくれた物言いをするから、あなたには一人もお嫁さんができないのですよ。……いいえ、もしかして悪魔どうし、すでにそういった方がいたりするの?」


 ふと湧いた好奇心と、もしそうならばなおさら自分と結婚しようとするのは諦めて欲しいと伝えるつもりでたずねれば、思いのほか神妙な沈黙が返ってくる。


「……ごめんなさい、聞いちゃいけないことだったかしら。私、いま眠たくて、ちょっと配慮が足りなくなっているみたい……話したくなければ、無理に答えないでください」

『いや、なんつーか』


 悪魔の声色はいつも通りだった。


『そういや俺、赤ん坊のあんたと修道院に捨てられる前のこと、まったく覚えてねぇんだよなって。ふと気づいて』

「えっ」


 身体がくたくたでなければ、クラリスは寝台から飛び上がっていた。


「私、小さいころあれだけあなたに、捨てられる前のことをたずねたでしょう。いい加減にはぐらかしてばかりだと思ってたのに」

『考えるのがめんどくせぇから適当にあしらってたけど、いま昔のこと思い出そうとしてみたら、なんも思い出せなかった』


 記憶がないことに二十余年ものあいだ気づかないだなんて、そんなことがあるのか。


(人間でないなら、あるのかしら……)


 だがそうなっては、もはや悪魔かどうかも怪しい。


(でもやたら契約したがるし、それって悪魔としての本能じゃないの?)

『知らねぇよ』


 思ったとおりの答えに、クラリスは考えることをやめる。


 足に溜まっていた疲労が、すでに脳のてっぺんまで浸しかかっていた。


 悪魔だろうが幽霊だろうが、これまでと変わることはない——おぼろげにそう納得したとたん、意識は夢に溶けていった。

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