黒シスターと夢喰いの獣

はるかす

第1章 花の都リンデバウム

 冬が明けると、西の六つ丘のはざまに、花束のような薔薇色の屋根郡が現れる——ゼネディア三都の一つ、花の都リンデバウムだ。リボンとなって束ねるテレーゼ川に、朝焼けが花びらのかたちで降りそそぐころ、厳かな楼門を一人のシスター見習いが通された。


 黒の頭巾には、絹織物のような灰青色の髪が一糸も乱れず収まっている。あらわになる真っ白な額はさらりと乾いていたが、彼女が馬車にも頼らずやってきた街道は、大の男が汗だくになる激しい起伏のものだった。


 門番にザッハトッシュ修道院の場所をたずねるあいだすら、革張りの大きなカバンを地面に休ませることなく、礼をして立ち去る背中は剣を通したようにまっすぐだった。


 主神への輿入れを済ませているシスターは、頭巾に白の刺繍が施される。彼女の頭巾は真っ黒だったが、その凛とした佇まいに、門番たちはつい見習いであることを見落とした。巡行なさるシスターさまともなれば、足腰の鍛え方が違うのだろう。互いの出っ張った腹を叩き合いながら、感心して見送る。

 建ち並ぶ家々の白壁と、薔薇色の屋根、しだいに青みを濃くしていく早朝の空。うす赤い光の花びらが影をひらめかせる花の都に、黒白の後ろ姿は美しく際立っていた。


 一方、シスター見習いは涙目だった。


 熟れた果実のように大ぶりな赤い瞳からは、気合いで引っ込めた汗が滴ろうとしている。踏み出す足は、少しでも気を抜いたとたんみっともなく笑いだしてしまいそうだった。


 本物のシスターとなるべく、花の夢守りオズクレイド・ザッハトッシュの眠るザッハトッシュ修道院を目指しやってきた彼女の足腰は、育った辺境の修道院からこれまで一度も出なかった者のそれである。馬車を使うつもりが、行く先々で物乞いに路銀を渡すうち、うっかり馬車代を切らしてしまったのだ。


(……泣いてはいけません、倒れてもいけませんよ、クラリス。そんな情けないありさまでは、とてもシスターになどなれません)


 一人でも多くのかなしみに母のように寄り添い、一人でも多くの喜びを姉のように分かち合う、そんなシスターになりたい——

 育った修道院を旅立つ朝、母であり姉であったシスターたちに告げた言葉が、いまこのときもクラリスの心身の支柱となっている。


 気丈な足がいったん立ち止まる。

 胸の前で指を組み、そっと目を伏せるシスターに、窓から顔をのぞかせる起き抜けの住民たちは一斉にため息をついて見惚れる。頭巾に刺繍がないことに気づく者はいない。


「……私の足腰よ」

『いや神に祈れよ』


 男の呆れた声が指摘するが、彼女は何事もなかったかのようにまた悠然と歩きだした。


『だから散々言っただろ、誰にでもほいほい金を渡してんじゃねぇって。つか有り金くらい把握してろバカ。んな痩せ我慢してねぇで、そこらの日陰でちょっと休んでいけよ』


 罵倒まじりの助言にも、反応を示さない。


 声が届いていないわけではなかった。

 むしろ、その声は彼女にのみ届いている。


(悪魔のくせに、いちいち真っ当なことを言ってくるんですから……)


 あるいはそう思わせることこそ、悪魔の悪魔たる所以なのか。基本的には誰の言葉にも平等に耳を傾けるクラリスだが、彼の言葉だけはいつもどう受け取るべきか悩む。


 胸から下げたペンダントを、さりげなく右手の指先で触れる。

 こつこつ、と爪で二度叩く。

 大して意味をなさないが、それが一応は、『少し黙っていて』の合図なのだった。


 恐れ多くも悪魔は、花の夢守りの神像が彫られる銀のペンダントトップに宿っていた。


 修道院に捨てられた赤ん坊のときから首に下げていたというそれを、いつかと思いながら、今日も手放せずにいる。出自にまつわるものだからだと周囲は納得していたが、本当は彼に少なからず兄のような愛着を持ってしまっていることをクラリスは自覚していた。


(兄というか、最近だとむしろ弟みたいに思うことのほうが多いのだけど……)

『ハァ? 兄とか弟とか、気色の悪いこと言ってんじゃねぇよ』

ません。もう! そうやって勝手にひとの心を読まないでくださいってば)


 胸のうちで啖呵を切っても、表情はいたってしとやかだ。長年の苦労の賜物である。

 幼いころは声に出して会話をしてしまって、幾度となく悪魔祓いにつれていかれそうになったが、そのたび必死でごまかしてきた。それはやはり、彼をたった一人のきょうだいのように思ってしまうがためである。


『心読んだくらいでうるせぇな。どうせ俺たちケッコンすんだからいいだろ、別に』

(いい加減このやり取りも飽きました。何度も言うように、この身は生涯、オズクレイドさまだけのものです。これから輿入れをして正真正銘そうなるのですから、あなたに明け渡す余地などこれっぽっちもないのですよ)

『ナントカの夢守りか。生まれる前から眠ったきりのヤツとこぞってケッコンしたがるんだから、シスターってのは正気じゃねぇよな』


 この暴言には、さすがのクラリスもむっとくちびるをつきだした。


(ともかくあなたと契約することはありませんから。私がオズクレイドさまと結婚してシスターになるところを、そこから見ていてください。邪魔したければしてもいいですよ)

『フン』


 ことあるごとに『結婚』という言葉で契約を持ちかける声は、そうしてペンダントの所有者に話しかけることがせいぜいで、姿を現すことも超常的な技を使うこともできないようだった。取り憑いているというよりも、封じられていると言ったほうが正しい印象だ。


 なぜ、そんなものを首から下げていたのか。


 クラリスが捨てられた修道院とその周辺の土地一帯は、夢守り三神のうち水の夢守りディネウィーン・アッサムを主神とする、アッサム家の領地だった。本来ならばディネウィーンのペンダントを持たせそうなものである。


『あ、あの白っぽいのがそうじゃねぇか』


 薔薇色の屋根の向こうに、花崗岩で造られた灰白色の建物が密集しているのが見えた。


(あれがザッハトッシュ修道院……)


 ザッハトッシュ家の居城であり、研究所とゼネディア随一の図書館を兼ねた修道院。


 クラリスはペンダントを握った。悪魔がいやそうな呻き声を漏らしたが、聞こえなかったふりで、今度こそオズクレイドに祈る。

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