夏の思い出と初恋は少し似ている

さまーらいと

夏の思い出と初恋は少し似ている


「うん、だからさ、僕は思うんだ。夏にはほとんどの人間にとって共通の、理想形のようなものがあるんじゃないかってさ」




 昔の話をします。

 小学校六年生の、夏のある日の、教室での出来事でした。


 七草くんは何かを確信しているかのような表情でそう言いました。

「みんなが同じような夏の日を求めているってこと?」

 私はそう訊き返しました。今はペアワークの授業中で、黒板には大きく<夏について>と書かれていました。各々の思う夏についての所感を言葉にし、隣の席の相手と意見を共有しようというものです。

 窓から差し込む太陽の光は目に映るだけでなんだか鬱陶しいです。窓際の席の男の子が下敷きをうちわ代わりにして、汗の張り付いたシャツに風を送っています。ペアワークの見回りをしていた先生が、彼の頭を教科書で軽く叩きました。「せんせーそれはDVだよ」「DVの意味を勉強してから言いなさい」暑さにうだって涼もうとする同級生と、それを諫める先生。例年通りの夏の教室の風景です。

 そんな様子を適当に眺めて時の経過を待ちながら、先生がこちらにやって来た時だけは取り繕って会話をする。それがこういったペアワークの常套手段だったのですが、今日はお相手の彼が何故か会話に積極的でした。

「そう、多くの人間にとって、"夏らしさ"は大抵似たようなモノを指しているような気がするんだ。一人一人の細かいイメージに差はあるのだろうけど、きっとそれらは単なる枝葉の部分でさ。つまり、最大公約数みたいな夏のビジョンが存在する、って感じかな」

 七草くんとはそれほど親しい仲ではありませんでしたが、私は一方的に彼のことをよく知っていました。彼は小学生にしてはとても所作や言葉遣いが大人びていて、それからものすごく聡明で----本人にその気がないとしても、他人を寄せ付けない雰囲気をしていました。

 私は七草くんのことをある意味で尊敬してはいましたが、同時に自分とは縁遠い存在なのだろうなと感じていました。きっと、クラスの他の皆も似たような感情を抱いていたのだと思います。誰が見ても、彼は他の子供たちの一段上にいました。----いえ、きっと一段どころではないのでしょう。

「うーん、例を出してほしいな。まだいまいちぴんときてないかも」

 だからこそ私は、七草くんがこんな風に----受験にもあまり役に立たなさそうな、教師の自己満足のようなテーマの授業で、ここまで目を輝かせていることに驚きました。これが普通の大人であれば『年相応の無邪気なところもあるのだな』なんて言って笑うのでしょうが、彼の同級生で----しかも疑り深い子供であった私は、その無邪気ささえも彼の卓越した知性を表している何かのように感じてしまったのです。

 そして同時に、そんな優れた彼の話をもう少しだけ聞いてみたいと思いました。

「そうだね……例えば、『summer』や『夏影』や『you』みたいな音楽。簡単に、しかも強烈に、夏の存在を感じさせてくれるようなさ」

「ひとつもわかんないよ」と私は返しました。

「ああ、そうなんだ。どれも素晴らしい曲なのに、残念」

 彼が言うには、それらはボーカルの無い"インストゥルメンタル"な曲らしいです。その言葉の意味すら分からなかった私は、彼の言うそれが異国の新しい音楽であるかのように錯覚していました。

「『夏影』や『you』は、後に歌詞が付いた歌がリリースされちゃうんだけどね、どっちも良い歌だけど」と彼は付け加えました。

 普遍的な感情を与えようとするとき、優れた歌詞は必ずプラスに働くというわけではなく、むしろ無い方がよい、というのが彼の意見らしいです。何かしらの言葉が声に乗って現れると----それが歌い手の感情のように思えて、音楽を聴くその人に自由な想像の余地を与えないらしいです。

 (同じような理由で、"理想の夏"を感じさせる作品の多くは風景にスポットを当てており、人物の細かな表情までは描かない方が良いのだそうです)


 私は音楽に特に興味がありませんでした。まるで少女の通過儀礼であるかのようにして習わされたピアノは2年も経たずに辞めてしまいましたし、親の車の中で何度も何度も聴かされた洋楽にだって、なんの興味も湧きませんでした。

 教室の中で特に好きでもない音楽ばかりが流行っていたことも一因だったのでしょうか。クラスで一番背伸びをしていた集団でさえ、意味も知らないままにマルーン5の曲を聴いて自分たちを大人だと主張するような、そんなつまらない"ごっこ遊び"をしていました。

 だからこそ、私にとっては彼の言うその"インストゥルメンタル"な曲が至上の音楽なのかもしれないと勝手な妄想を膨らませました。それは映画やゲームのBGMに過ぎないものだ、ということをすぐに教えてもらうのですが----それでも、彼のような受け止め方をすれば、それはBGM以上のものになるのだと思います。「きみもテレビを観ている時にいつも聴いているよ」と言われても、その思い込みは覆りません。

 単なる作品の部品としてしか捉えることのできなかった私と、それ単体を一つの作品として捉えることのできる彼。両者の間には圧倒的な差があるように感じました。


「うーん、じゃあ、音楽じゃない別の媒体で言うなら……『ぼくのなつやすみ』とか? ゲームなら知ってるかなと思ったんだけど、どうかな」

 私はそのタイトルについても全く知りませんでした。それは初代PSのゲームらしいです。どうしてそんなものを小学生が知っていると思ったのでしょうか。そもそも、どうして私の同級生が数十年前に出たゲームを例に上げるのでしょうか。つくづく彼は不思議な人です。


 彼は頭を捻らせました。私にもわかるような説明を頑張って考えているようでした。

 少し大人になった今思い返してみると----普通の小学六年生だった私にこんな話を説明するのは、土台無理であったようにさえ感じます。それなのに飽きることなく私に説明しようとしてくれた彼は、一体何を思っていたのでしょうか。

 彼自身の為なのか、それとも純粋に私のためなのかは数年経ってもわかりませんでしたが……そんな姿勢を見ただけで、当時の私は無意識のうちに、彼のその態度に応えたいと感じていたのでした。だから、彼の言葉の一つ一つをよく汲み取ろうとしました。

「なら、もっと抽象的な話をしよう。例えばさ……夏休み、おばあちゃんの家に預けられて、暑い日に縁側ですいかを食べているような状況を想像できる?」

 彼の言う通りに、頑張って頭の中で情景を思い浮かべてみることにしました。


----縁側の下の地面につま先さえも届かない私は、手持ち無沙汰になった両足を交互にぶらぶらと前後させています。

 それなりに手入れされた庭の緑は美しく、一定のリズムでことんと音をたてる鹿威しが気分を和ませてくれます。

 どこからともなく姿を現した野良猫が、縁側の下の日陰までやって来て、大きな欠伸をしながらごろんと寝ころびました。

 その光景を見た私もつられて欠伸をしてしまい、ついうたた寝をしてしまいます。

 食べている途中だったというのに!


「……すっごい夏だ」

 驚きました。想像がこれほどしっくりくるなんて。しかも、簡単にそこからイメージが膨らむなんて。そんなこと、これまで一度たりともなかったのです。

「うん、そう。きっとそれが理想の夏。そういう、それなりに状況が限定されているのに誰が見ても夏だと思うような、そんな景色があると思うんだ。君も何か思い浮かばないかな、そんな感じのものが。音楽でも、絵でも、映像でも構わないからさ」

 なんだか無理難題のように思えましたが、それでも私は必死に考えます。さっき自分が頭に浮かべたような、強烈な印象を与えてくれるものは何でしょうか。

 考えて考えて考えて、私はやがて自分なりの答えにたどり着きました。

 それはこの前、週末の夜のロードショーで放送されていた映画です。

 私が生まれるよりもずっと前のアメリカ映画(もっとも、その頃の私はなぜか、外国人が出てくる映画を全てアメリカ映画であると勘違いしていたのですが)、四人の少年が夏休みに線路を歩き続けて死体を探しに行くお話。

 そう、タイトルは確か----

「『スタンド・バイ・ミー』。

あの子たちが太陽の元で線路の上を歩き続けるのは、とても夏らしかったんじゃないかって思う。四人は後ろ姿だけが写っていたし、他には誰も人がいないし、空はとても綺麗だし。それから、なんだかわくわくするし」

 そして何より、『私は彼らと同じようにその線路を歩いたことがあるのではないか』と錯覚させられるのです。これは私だけの感覚かもしれないので、彼には言わなかったのですが。

「確かにあれは夏休みの出来事だね。太陽の下、線路をどこまでも歩くという描写も、夏の理想形の一つとして確かに存在しているよ。最近出たビジュアルノベルでも似たような描写があったな。

……あ、でも、もしかすると、夏というよりは、冒険のシンボルと言ったほうが良いのかもしれないや。確か、ポケモンがそうだったし」

「あっ、ポケモンくらいなら私でも知ってるよ」

 わくわくするのはそれが冒険だからか。私は勝手に納得しました。

 でも、夏だからわくわくする、というような直接的な関係があるかはわかりません。春だって桜に心がときめくし、秋は紅葉に胸が高鳴るし、冬も雪の上を無邪気に走りたくなります。いったいなにが、他の季節と比べて特別なんだろう。

 

「……うーん、夏と冒険はちょっと似てるのかもしれない、ってことなのかな?」

 私が根拠もなくそう言うと、彼は少しだけ驚いた表情を見せ、それから何度か頷きました。それは私がこれまで彼を見てきた中で初めての反応でした。

「確かに。『ひと夏の冒険』という言い方は頻繁に用いられるけど、春や秋や冬はそんな言い方をしないね。ということは、冒険も夏を想起させる要素の一つだってことだ。どうしてこんな単純なことにいままで気が付かなかったんだろう」

 私は少しだけ嬉しい気持ちになりました。

 ここまでの彼との会話は----会話のようで、実際には彼が自分の思考を整理するためだけのものでした。私は相づちとそう変わらないような中身のない返事をしていただけ。言ってしまえば、壁あての壁みたいなもので----キャッチもリリースも、彼一人の動作です。

 けれど、今の一瞬だけは彼とのキャッチボールになったような気がして、深い充足感を味わうことができました。彼とうまく会話するだけで、私は彼に少しだけ近づけたような気がしてしまうのです。同じ小学六年生の子供に対する、清々しいくらいの偶像視です。

 周りの子たちは皆グループ学習に飽き飽きして退屈そうな顔をしていましたが、そんな中で私だけが目を輝かせていました。

 もっと彼と『会話』がしたいなあ、と思いました。



「ねえ、七草くん……、今言った『冒険』みたいにさ……何か夏っぽい言葉はあるのかな、他に?」

「なにか、夏と不可分な言葉?」

「うん、そう」

 私の質問に彼が別の言葉で訊き返したのは多分、そこに彼なりのニュアンスの違いがあったからなのでしょう。

 ただの『夏っぽい』なら、ラムネでも花火でもセミでも何でも該当するのです。しかし、ここで彼は、考えているものがもっと広い範囲に当てはまる言葉だということを暗に強調したのだと思います。当時の私は、そんなこと微塵も気付いてはいませんでしたが。

 

「僕が思うに、夏にはノスタルジーを感じることが多いんだよね」

「ノスタルジー?」

「懐かしさのことだよ」

 そうなんだ。と私は一度納得しましたが、すぐに新たな疑問が浮かんできました。

 ここまで私は七草くんと"理想の夏"についての話をしていたはずです。それなのにどうして、懐かしさなんて言葉が急に出てきたのでしょうか。もしかして、私が会話を拾えていないだけで、気付かぬうちにそういう話の流れになってしまっていたのでしょうか。

「その……ノスタルジー? 懐かしさ? って言うのは、本当に夏に関係している言葉?」

私はおそるおそる彼に尋ねました。この質問は自分の理解の無さを告白しているようなものではないかと心配でしたが、彼はただ淡々と返事をしてくれました。

「うん、少なくとも僕はそう考えてる。もちろん春にも秋にも冬にも何かしらのノスタルジーを感じることはあるよ。けれども、夏はその中で突出してる」

 彼が言うには、春が出会いと別れの季節であると決まっているように、夏は懐かしさの季節であると決まっているのだそうです。

 ジブリの映画を観ていたり、雲一つない青空の下の向日葵畑を眺めたり----そういう時に感じるあの、嬉しいような切ないような気持ち----それが懐かしさだと言うのです。

「なんでそれが懐かしさなの?」

 率直な疑問でした。夏らしい綺麗な景色は綺麗な景色。夏らしい素敵な音楽はあくまでただの音楽。果たしてそれが本当に過去と結びつくのでしょうか。

「さっき君はさ、おばあちゃんの家の縁側で西瓜を食べる情景を想像したよね?」

「うん」

「でもさ、それって、実際に自分で体験したこと?」

 少し考えましたが、私は首を横に振ります。

「一度もないよ」

 母方の祖父母は田舎ではなく近くのアパートに住んでいます。母は少し歳を取ってから私を産んだため、もうお祖父ちゃんもお祖母ちゃんも、多少の手助けが無ければ生活ができない程度の年齢になっていました。

 父方の祖父母は田舎に住んでいたらしいのですが、私が産まれる前に亡くなっています。まず、お祖父ちゃんが先に亡くなったのだそうです。「お祖父ちゃんに孫の顔を見せてあげたかったねえ」と言っていたおばあちゃんも、結局は私が産まれる少し前に亡くなってしまいました。二人の事は知りませんが、どちらもすこし不憫だなあと思います。

「うん、じゃあ次は君自身が言っていたことになるけど----実際に田舎の線路の上を歩いたことがある?」

 『スタンド・バイ・ミー』の話だ、と私は思いました。

 そして、さっきと同じように少しだけ考え----やはり私は首を横に振りました。

「それもないよ、危ないし、そもそもそんな場所を見つけたこともないかも」

「だよね。……でもさ、なぜかそれを自分の出来事のように感じてしまわないかい?」

 私ははっとしました。彼の言う通りなのです。

 さっき私は、『スタンド・バイ・ミー』のあの情景を思い浮かべた時、それがどこか自分の体験であるかのように錯覚していました。過去に自分がそうしたかのように思い込んでいたのです。

「感じる。なんでかはわからないけど……」

「僕たちの親世代までは多分、それを実際に体験した人はもう少し多かったんだろうね。けれども今はそれを知っている子は殆どいない」

 彼の言う通りだと思いました。大人が少年時代の夏休みについて語る時に必ず現れる『駄菓子屋』という言葉だって、私たちにとってはショッピングモールの中にある小奇麗なお店のことを指します。それは元々あった駄菓子屋とは全く違うものですが、不幸なことに私たちはそれしか知らないのです。

 でも----それしか知らないはずなのに、田舎の駄菓子屋の写真や映像を見ると、いつかどこかで私の人生を彩ってくれたものの一つのように感じてならないのです。

「自分が体験した出来事のように感じてしまうから、懐かしい……」

「うん、大まかに言えばそういうことになるね。ステレオタイプみたいな夏が決まっていて、多くの人間がそれを自分のものであると錯覚してしまう」

 何となく彼の言っていることは理解できました。しかし私はまだ『懐かしい』という言葉について完全に飲み込めてはいませんでした。

「でも、そんな感情を懐かしいと呼ぶのは、やっぱり少しだけ不思議かも。だって、夏は過ぎ去ってないよね。夏休みだって失ってしまったわけじゃないんだし」

 今年の夏休みでさえこれからやってくるのです。高校、大学と進んでいくのであれば、少なくともあと何度かは夏休みはやってくるはずです。それなのに"懐かしむ"なんて変な話じゃないでしょうか。

 先ほど言った駄菓子屋なんかは確かに失われてしまったのかもしれないけれど、頑張って探せばあるはずです。少なくとも真夏の線路はこの町にだって残っています。向日葵畑だって、古い家の縁側だって、少し数は減っているとしても----まだまだ沢山見つけられるはずなのです。決して完全に失われたわけではありません。


「そうだね。君の言う通り、世界から夏は失われていない。でもさ、今ここで、確かに失われたものがあるんだよ、矛盾してるように聞こえるけどね」

「うーん、もっと詳しく教えてよ」なんだかわからないけれど、私はとにかく彼の話の続きを聞きたいと思いました。

「さっき言った『ぼくのなつやすみ』だってさ、キャッチコピーは『なくしたもの思い出しゲーム』だったんだよ。まるで夏の何かが失われてしまった前提であるように思える。君の言う通り、夏は過ぎ去っても戻ってくるものなのに、既になくしてしまったなんておかしな話だよね。……まあ、この場合、大人から夏休みが失われたことは確かなのかもしれないけれど」

「えっ、大人には夏休みがないの?」

 私がそう訊くと、彼は優しく笑いました。それを見て、自分は彼にとって当然であるようなことを質問してしまったのだと気付きました。そのことに恥ずかしさを覚えました。でも、よくよく考えなおしてみると、私の父も母も、私の夏休みにはそれなりに長い旅行に連れて行ったりしてくれます。

 やっぱり、大人にも夏休みはあるんじゃないの?

「それは君のご両親が親切な企業に勤めているか、上手く有休を利用しているかのどちらかじゃないかな」

 そうなんだ、と私はよくわからないままに頷きました。


「でも、会社がお休みにしてくれるとしても、夏休みはやっぱり君の両親から失われているんだと思うよ」

「ええ? えぇ……んー?」

「もし仮にさ……社会人になった人たちが、僕たちと同じように一か月以上の夏休みが貰えたとしても、それで彼等の心が満たされることは無いんだと思うよ。人々が求めているのは、熱い夏の日やただの長期休暇ではなくて、あの頃そのものなんだ。……しかもそれはタチの悪いことに、実際に自分が体験していたかどうかすらわからない」

私もここまでに話した夏について、そのほとんどは自分で体験したものではありませんでした。

「それで、七草君の言う『あの頃そのもの』って何? 結局何が失われちゃったの?」

 そう私が質問すると、彼は「それは僕としても難しいところなんだけどね」と前置きしたうえで、彼なりの優れた仮説を持ち出してくれました。

「ここで思い出して感傷に浸りたくなるような"なくしたもの"っていうのは、たぶん、夏という季節や夏休みのことではなくて……純粋な心とか、童心とか、そういうものだと思う。皆がかつて持っていた、あるいは持っていたと信じたいような、綺麗で崇高な何か、だよ」

「なんか……すっごくぼんやりしたものなんだね」

 私はさっきからずっとずっと思っていたことを口にしました。彼が取り上げている対象は、本当に曖昧なものでした。手を伸ばしたところで、泡のように消えてしまいそうな----幻想のようなものについて、私たちはずっと話しているのです。それなのに、そんなぼんやりとしたものを私にもわかるように形にしてくれます。

 魔法使いでした、七草君は、きっと。

「だからこそ、僕たちみたいな子供だって"懐かしい"という感情を持つことができるんだよ。だって、そういう美しく透明で純粋なものを求めたい、っていうのは、今の僕らも同じだからね」

 そこで考えてみると、確かにあの頃の私も『昔のほうが良いな』と思うことが沢山ありました。

 小学六年生の私は、自分が醜いと感じることがありした。本人には聞こえないように悪口をいう事もありますし、自分よりテストの点数が良い友達にはつい冷たい態度を取ってしまいますし(しかし、七草くんはあまりに並外れているため、彼に対してそのような感情は抱きません)、つい3,4年前まではこんなに醜い性格をしていなかったように感じます。もっと私は優しくていい子でした。

 大人にとっての子供時代というのは、私にとっての小学2年生の頃のようなものなのかなあ、なんてことを考えます。

「うん、似てる。あの頃は良かったと思う感情だ」

「でも、それって本当かなあ。七草くん。」

 もう一度思い返してみると、あの頃も今と同じくらい誰かに嘘をついて喧嘩をしていたような気がします。過去の記憶なんてどっちつかずです。

「思い出ってなんだか、自分のもので自分のものじゃないみたいだね」と私は言いました。

「そうだね、それと一緒。夏は虚像みたいなものだよ」と彼は返しました。


 それから七草くんは鞄からペットボトルを取り出し、水を飲みました。

 本来、授業中に水を飲むのは禁止されていますが、今年の夏は熱中症対策のため、特別に許可されたのです。けれども他の誰一人として授業中に給水しようとはしません。これまで禁止されていた行為をいざ行おうとすると、何か後ろめたさのようなものを感じてしまうからです。私たちくらいの年齢の子供にとって、その後ろめたさは突然のルールの変更程度で簡単に払拭できるようなものではありません。けれども七草君はそれを「認められた行為だから」と言って平然と行いました。 

 やっぱり彼は、どこか特別なのだろうと思います。


「七草くん……最後にひとつ、訊いていいかな?」

「うん、いいよ。なに?」と彼は優しい表情で返します。

「私たちみたいなさ……駄菓子屋も縁側も向日葵畑もあまり知らないような世代がさ、それでもそういうものを"理想の夏"だって思っちゃうのは、どうしてなのかな? ほら……本当は私たちの夏休みって、駄菓子屋のゲームなんてやってないし……あんまり草むらを走り回らなくなったし……。実際には公園に3DSを持ち寄るだけだったよね?」

 外は暑いし危ないから、なんていう親もいて、無理やり家の中で遊ばされることさえありました。でも、そういうものを"理想の夏"と思わないのは、どうしてなのでしょう。わざわざ親世代のものを引っ張ってきて、それを懐かしむのはどうしてなのでしょう。

 もうすぐチャイムが鳴りそうな時間でしたが、ふと思い浮かんだこの疑問だけは、彼に解消して欲しいと思いました。


 七草君は二つの大きな理由があるのではないかと予想しているみたいでした。

「一つ目は、僕たちがまだ子供だってこと。多分僕たちが大人になるころに、僕たちなりの幼くて思い出深い夏の日が"理想の夏"のアップデートされていくんだと思うよ。一応は、ね」

 彼が一応、と付け加えたのは、本当にそれらが理想の夏の一員になるかどうかはまた別問題であるから、だそうです。

 

 ここまでに話した内容を考えると、理想の夏というものは何かしらのエネルギーに溢れているようなものが多い気がします。

 彼曰く、夏は最も生命活動が活発になることと関係している、という話もあるらしいです。つまり、生物的な本能から夏と元気さや無邪気さを結び付けている可能性すらあるということです。

 (また、これは余談になりますが、夏は同時に死の季節でもあると彼は言いました。生と死を同時に強調させる季節であるからこそ、私たちの脳裏に強く刻まれるのかもしれません。もっとも、これは大人になっても曖昧な理解しかできていませんが)

 しかし、現在の理想の夏とは違い、私たちの過ごすその日々には、はつらつとしたものや、冒険らしさはありません。生と死を感じさせるものもそれほどありません。だからこれから先、そんな日々は夏のシンボルとして残らないのかもしれません。

 私たちの世代の思い出だけは受け継がれないなんて、なんか損した気分だ、と私は少しだけいやな気持ちになりました。

「あと、もう一つは……理想の夏があくまで"理想"だからじゃないのかな。僕たちが父さんや母さんくらいの世代の懐かしさを享受できているのは、彼等がこつこつと積み上げてきた夏のイメージが確かに存在しているからだ。そう言うものを大人やフィクションから教えてもらって、僕たちの夏のイメージが固まったのは間違いないよね?」

「うん」

「でも、やっぱり少し矛盾しているようなことがある。イメージは、世代が下るにつれてどんどん現実感が希薄になっていくはずだ。なのに、そこから想起させられる"理想の夏"、懐かしさ、なんてものはより強固になっているようにさえ感じる。……僕が言いたいこと、わかるかな?」

わかるようなわからないような気がしましたが、あの時の私は自分なりに考えて浮かんだ言葉をなんとか絞り出しました。

「人間って、どこかずうっと遠くにあるものを美しく感じるんじゃないかな。だから、私たちも」

 七草君は笑います。私の答えは、彼のお眼鏡にかなっていたのでしょうか。

「うん、だから理想の夏が遠くにあるはずの僕らは、それをとても素晴らしいと思える」

「遠くにあるからこそ、ってことだね」

 七草君はもう一度笑顔になり、そのまま話を続けました。

「そして、それは存在しているのかどうかわからないくらいが丁度いいんだ。神様なんかと一緒。完全な現実でも駄目だし、完全な想像でもいけない。多分、僕たちにとっての"理想の夏"に一番大事なのは、現実と虚構、つまり本当の思い出と架空の思い出がうまく混ざり合っていることなんだと思うよ」

 彼の言っていることが本当であるとか嘘であるとか、そんなことはもうどうだっていいようにすら感じていました。

 それに、嘘だとすれば、尚更すごいんじゃないでしょうか。何もない所からこんな素敵な話が思い浮かぶなんて、そんなことができるのはよっぽど優れたストーリー・テラーか、あるいは神様なんじゃないだろうか。きっと、七草君は神様なのだろう。



 そのくらいで授業は終わりとなりました。

 それから七草くんとこのことについてさらに深く掘り下げる機会などあるはずもなく、そのままこの話題は永遠に打ち切られてしまったように思えました。

 その時私は、彼が明らかに他の同級生と違うことを再認識したのですが----だからといって、彼との関係が深まったわけでもありませんし、深めたいと思うこともありませんでした。たまに彼の表情を目で追うくらいのことはしていました。けれど、本当にそれだけです。

 やっぱり彼は、私にとっては雲の上のような存在でした。きっとあの日は、偶然彼と波長が合っただけなのだ、そう思いました。一つの小さな奇跡ぐらいに思っていました。だから、あんな時間はもう二度とやってこないのです。

 ならば関わらないほうがよいのだと思いながら、残りの小学校生活を送りました。私は私立の中学校に行くことになりましたが、彼はそのまま学区内の公立中学校へと進学しました。彼が優秀な人間の沢山いるような学校に行かなかったことには少し驚きました。しかし、それもまた彼らしいな、とも思いました。七草くんはきっと、学力さえも飛び越えた領域で生きているのでしょう。ならばそんな競争に興味が無いのは、むしろ至極自然であるように思えました。

 そうして私と七草くんの接点は完全に断ち切られ、しかも私はそれを良しとしました。

 そのはずでした。


 それなのにどうしてでしょうか、私はその後の人生で夏が来るたびに、彼自身と----彼との会話を思い出していたのでした。

 15分にも満たないようなあの国語の時間を、何度も何度も思い出してしまうのです。

 彼にとって自分は必要ないのに、私にとって彼は特別な存在である、そんなことをいつも再認識させられました。

 もしかすると、あの頃のあの感情は----恋だったのかもしれません。

 いえ、恋だったのだと思います。


 次に七草君と話したのは、それから10年の月日が経った頃でした。

 

 これまでの自分の自堕落さを考えると当然なのでしょうが----就職活動に難航していた私は、8月になったところで何一つの目途も立ってはいませんでした。落ちた企業数が二桁を越えたあたりから数えることをやめました。

自分の応募する企業に第一志望、第二志望などの順番をつけることもしませんでした。もちろん野心や能力がある人間はそうすべきだとは思いますが、私みたいななんの望み

も情熱もない人間が何かを順位付けするようなことは、あってはならないように感じられたのです。

 どうやら人を疑ったような態度というものは思ったよりも顔に現れるようで----それを見破るプロフェッショナル達の前で、私は自分の欠点を再三にわたって指摘されました。

 けれども私はそれを当然のものとして受け止めていました。だから大して落胆することはなく、そして大して反省することもありませんでした。これは私の醜い素直さなんだと思います。


 その日も、人事は私の前で堂々と首を横に振り、労いすらも感じられない「お疲れ様でした」の言葉と共に、私を退出させました。

 私はその会社を出る前に、一階にあった喫煙所に入りました。

 面接をした学生がそのまま会社の喫煙所を利用するなんて、当然褒められた行為ではありません。けれどその時の私は、もうこの会社の就職希望の学生でもなんでもありませんでした。決して自暴自棄などではありません。芯から不採用を確信していたからこそ、自然と足が動いたのです。

 喫煙室には誰もいませんでした。都合がいいと内心で思いながら、煙草に火を点けました。キャメルを吸っていることに理由は無かったと思います。貧乏になってしまったことがきっかけでしょうか。前に買っていたものよりも安いものを選んだ、それだけでした。



 あれから私はいくつかの恋人を作りましたが、そのすべてが不完全な始まりとみじめな終わりでかたどられました。

 そしてそのたびに、私は七草君のことを思い出してしまうのです。たった一度きりの会話を何度も何度も追慕してしまうのです。映画やゲームのサウンドトラックを買い、かつての彼が教えてくれたようなインスト曲を聴いて、その思いに浸るのです。

 これは少女趣味でしょうか、女性的でしょうか。私は一概にそうであるとは言い切れないような気がしています。

 永遠に終わってしまった初恋を引きずったまま、大人になってもそれに縛られ、踏切の向こう側にさえ恋した少女を求めてしまう、そんな映画がどこかにあったような気がします。そしてそれはどちらかと言えば、男性向けのものでした。

 きっと、男性か女性かに関わらず、そういう情けない初恋コンプレックスを持った人間は一定数いるのでしょう。

 私はこのつまらない感情を早く消し去って欲しいと感じていましたが、同時に、一生続いてほしいとも感じていました。

 初恋が至上の恋愛だとするならば、あの頃以上の感情はもう二度と得られないというのならば----それからの人生は全て抜け殻のようなものなのでしょうか。私は、淡い記憶の残滓に縋るだけの、中身のない余生を今も続けているのでしょうか。


 そんなことを考えていると、喫煙所のドアが開かれました。

 ほとんど反射的に目を逸らしてしまった私でしたが、一瞬だけ視界に映った顔に強烈すぎる既視感を覚え、顔を上げました。


「……七草くん?」


 電子タバコを咥えようとした彼は私の方を向き、しばらく静止した後、何か一つの答えに思い至ったように表情を変えます。

「あれ……小学校の時、同じクラスだった……」

 あの頃の七草君とはあまりに違うけれど、けれども明らかに七草君でした。

 いえ----あまりに違いすぎたからこそ、わかったのでしょうか。

 眼前に居る七草君は、姿かたちはこの上なくあの頃を彷彿とさせてくれましたが、かつて彼と不可分であるように感じていた聡明さのようなものが決定的に欠けてしまっていました。それはくたびれたスーツや汚れた靴のせいなどではなく、もっと彼の内なる部分の問題であることを私は直感的に悟りました。



 会社のすぐそばにある喫茶店で数時間ほど待った後、仕事を終えた彼が向かいの席に座りました。

「高専を出てここに入社したんだよね。一年留年したから、今年からなんだけど」

 そう言って彼は苦笑いを浮かべます。悲しいことに、正面に座った彼は凡庸な社会人にしか見えませんでした。

 高専時代の彼は機械工学を学んでいたらしいのですが、今の彼は営業の仕事をしているみたいでした。

 もちろん自分から望んでその道を選ぶ人間もいるのでしょうが、彼の場合は明らかにそうではなく、やむなくこの仕事を選んだように思えました。理由は三つあります。一つ目は、私が応募できる程度の企業であること。二つ目は、(聡明だった昔の彼からは信じられない事実ですが、)彼が留年をしてしまっているということ。そして三つめは----今の彼が、生きているとは到底思えないような、掃き溜めの中にいるような目をしていたことです。

「それにしても、地元じゃない場所で、地元の友人と会うなんて。……とはいっても、僕と君が友人、って言うのは少し誇張しているかもしれないけど」


 ねえ、君にとって私は数えるほどしか会話してないクラスメイトだったかもしれないけれど----私にとって君はずっと特別な存在だったんだよ。

 すぐにでもそう言いたかったけれど、それを今伝えるのはあんまりだろう。そう思った私は少しだけ言葉を選びつつ、彼とあの頃の話をしようと思いました。

「私たち、ほとんど話したことがなかったけど……一度だけちゃんと喋ったことがあるんだよね」

そう私が切り出すと、彼はそのまま間髪入れずに答えます。

「うん、憶えてるよ。国語の授業でしょ」

「覚えてたの」私は驚きました。

「小学校の時の記憶はおおよそすべて覚えているんだ。でも、小学生で脳の容量がいっぱいになっちゃってさ。だからそこからは何にも覚えられなくなった」

「それ、本当?」

 有り得ない話ではないと思いました。あの頃の聡明な彼を思い返してみれば、そのくらいの転換が起こらなければおかしいです。私と大して遜色のないような、こんな凡人に成り下がっていることはあってはならないのです。

「ごめん、それも冗談」

 くだらない嘘を吐くようになったのだな、と私はがっかりしました。

「じゃあ、憶えていなかったってこと」

「違うよ。覚えていたのは本当なんだ。……あの頃の僕は、なかなか自分の会話に付き合ってくれる人間がいなかったから。だから、一瞬でも僕と真面目に会話してくれた人はよく覚えているよ」

 -----今になって考えてみると、ひどく驕った小学生だったな。

 そう彼は付け加えましたが、できればそんなことを言ってほしくはなかったです。眼前に居る情けない男が、私の初恋を穢してしまったかのような----そんな腹立たしい思いにさせられたからです。もちろん、二者が同一人物であることは理解していますが。


 そこから私たちは少しだけ昔話をした後、小学校を卒業してからのことをお互いに語りました。中学はどうだったかとか、どうして高専を選んだのかだとか、大学では何を専攻しているのか、とか。中身がないわけではありませんが、互いに大した興味が無い事だけがはっきりとわかるような、そんなつまらない時間がしばらく続きました。やっぱり私はあの頃の彼に対してのみ感情を抱いており、それからの彼の人生にはそれほど関心がないのだな、という事が自分でもはっきりとわかりました。


 そうして30分ほど経ってから、話題につまった私はふいに、胸の内に永遠にしまっておくはずだったことを口にしてしまいます。

「昔さ、七草くんのことが好きだったの、そして、今でも。……いや、今でも好きって言うのは流石に違うかな。でも、あの時七草君に抱いていた以上の感情を、誰かに抱くことは今までなかったんだ」

 何の成果も上がらない就職活動や、つまらない大学や、この頃の酷い貧乏で、半ば自棄になってしまっていたのかもしれません。あるいは、単純に沈黙に耐えられず、ふいに口から出た言葉だったのかもしれません。とにかく、私はあの頃の彼に対して抱いていた感情やイメージを、今の彼に打ち明けてしまいました。

 やってしまった、と最初は思いました。

 けれど、それを一度口にしてからは、堰が切れたように----私があの頃からずっと抱いていた憧れを全て彼に伝えました。

 どうせ時効でしょう、何を言っても構わないじゃない? 

 そう自分に言い訳しました。

 

「七草君は他の子とは全然違ったんだよ? クラスに一人や二人いる、勉強ができるだけで大きな顔をしてる人とも全然違った」

「それから、いつも一人なのにどんな人にも分け隔てなく優しい所が凄いと思った。自ら選んで一人になってる子供なんてそうそういなかったし、七草君の場合は、自分の世界を大事にしてる、って感じがしたから、かっこよかった」

「あの時授業で話したことも覚えてるんだよ、夏の思い出、ノスタルジーの話。あの話をした日から、私は今でもsummerや夏影を聴いてる」

「でも、でもね? 気を悪くしてしまったら申し訳ないのだけれど----少し残念だったかも。あの頃の君は、もっと、輝いていたような気がしたから」

 もう色々手遅れだ、全部話してしまおう、そう思った私の口は驚くほど回りました。

 矢継ぎ早に浴びせたこれらの言葉に彼はどういう反応をするのか、それは私の興味の対象でした。

 

 彼は頷いた後、軽く微笑みました。

 とはいっても、それはかつての全てを悟ったような微笑みではなく、むしろ何かを理解することを放棄したような、諦めに近い感情を映し出していました。

「うん、ありがとう。……でも、要するに君はさ、僕を夏のノスタルジーと似たようなものに感じてしまっているんじゃないかな」

「……え?」

「理想の夏を手に入れることができなかったから、そしてもう二度と手に入れられないことを理解しているからこそ、そういう偶像に縋っていたんじゃないの、君は」

 そこで私は、彼が私の初恋を踏みにじろうとしていることに気が付きました。それは勿論、意図的な悪意では無いのでしょう。ですが、過去の二人と今の私を否定しようとしていることは間違いありませんでした。

「あの時の僕は、身も蓋もない言い方をするなら……少し大人な作品が好きなだけの子供だった。背伸びをしていただけのおたくだったよ。だから君の感情は後付けなんじゃないかな。僕と会わなくなって、本物がわからなくなってから、現実以上の理想を作り上げたんだよ、きっと」

 彼の言い方が不躾であるとか、そういうことは微塵も気になりませんでした。私が気になっていたのはもっと根っこの部分、何が彼をこんなに変えてしまったのだろう、という事です。

 彼自身に何か大変なことがあって、こんな風に変わってしまったのだと信じたかったです。もし彼の言う通り、『すごい七草君』が単なる私の妄想に過ぎないのだとしたら、それはあんまりだから。

 けれど多分、そんな劇的なことは何も起こっていないのでしょう。彼は普通に、本当に普通に凡人になっていっただけなのだと思います。私は同時にそう直感してもいました。

 10で神童、15で天才、ですが20になれば皆ただの人です。彼もそんな普通だっただけなのです。

「きっと、僕と会う予定も絶対にないはずだったんだ。だから理想の夏と同じように美化することができていた。だけどこうして偶然出会えてしまったから、架空の思い出の中の理想と現実とのギャップに打ちひしがれている、違うかな」

 私は何も否定できませんでした。それはあの頃の七草君との会話を考えると、決して否定できるものではなかったからです。けれども今の彼は、それを人質にして会話をしているようで……やっぱり、気分の良いものではありませんでした。

「初恋と理想の夏は似ているんだね。たまたま僕とした会話を美化して、僕自身のことも美化して、それらを幼い日の夏の思い出として大切にしまっていたんだね、君は」

「……そっか、そうかも」と私は返しました。明らかな空返事でした。

  彼の言葉一つ一つが私を虚しい気持ちにさせました。以降の会話は覚えていません。これ以上彼の話を聞いていても、気分が悪くなるだけだと思ったからです。

 どうして私は、こんな中身の無いからっぽの七草君と会話をしているのでしょうか?

 誰よりも聡明で、それなのに一瞬だけ無邪気な顔を見せてくれるそんな七草君は、確かに存在していたのに。

 それからしばらく、記憶の片隅にも残らない彼の話に、相槌を打ち続けていました。

 もしも世界に時間を通貨に換算するシステムがあったとしても、この時間は一銭にもならないでしょう、文字通り価値はありませんでしたから。

 

「……あ、ごめん、明日も仕事だよね。あんまり遅くなったら困るだろうし、そろそろ行かない?」

 そこからさらに時間が経った後、ここに座っているのも退屈だなと思った私は、ふいに思い出した風を装って、そう切り出しました。

 この時の自分がどんな顔をしていたかはわかりません。ただ、自分が目指した微笑みと比べれば、ひどく歪んだものだったことだけは明らかです。

 彼はその言葉に頷き、それから伝票を手に取って席を立ちました。

「今日はありがとう。就活、頑張ってね」

「うん、こちらこそありがとう」と私は返して、それから彼がレジに向かった間に、

「……どうでもいいよ」と呟きました。


 そうして私は、目の前にいる七草君の紛い物にさようならをしました。


 帰りに駅前のデッキにある喫煙所で煙草を吸おうとしました。けれど箱を開いたときに一本も入っていないことに気が付きました。私は適当な人間なので、それが最後の一本であるかを意識しないまま、からっぽの箱だけを鞄に戻してしまうことがしばしばあります。

 だけどそのことも----そして、今日起こった出来事についても、不思議とそれほど嫌な気持ちにはなりませんでした。もちろん、今日出会った彼は丸めて捨ててしまいたいくらいに嫌いな人間でしたし、あの頃に対して抱いていた理想は最悪の形で否定されてしまいました。けれどもどこかで、それでよかったのだろうと思います。

 確かに、彼の言う通り、初恋と理想の夏は似ているのかもしれません。

 どちらも遠い昔の一番綺麗な思い出で、二度と取り戻せやしないもので、そして、本当に存在していたのかどうかさえわからないものです。でも、だからこそ、私たちが何度も思いを馳せる存在です。淡くて眩しくて醜くて、何の価値もないだけの永遠です。


 それから私は少し来た道を引き返し、コンビニに寄りました。それからどういう気の迷いか、もう一度さっきの喫茶店に入りました。

 特に面白くもない思い出を上書きしたかったのでしょうか。いえ、屋内で煙草が吸いたかっただけだと思います。なにしろ、それなりに暑い日でしたし。

 さっきはコーヒーを注文しましたが、今回はクリームソーダを頼みました。小学生の頃、時々母親が作ってくれた思い出の味です。それは確かに今でもあの頃と同じ味でしたが、甘いものが苦手になった今の私には飲めたものではありませんでした。

 甘ったるくなった口の中を誤魔化すために、買った煙草を口に咥えます。

 喫茶店のカウンターに無造作に置かれていた年代物のテレビが、解像度の低い天気予報を映していました。

 猛暑のピークはもう過ぎたらしいです。

 これから少しずつ夏は去っていき、世界は秋の訪れを感じさせてくれるでしょう。



 これで、私の初恋の話は終わりです。

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夏の思い出と初恋は少し似ている さまーらいと @0summer_lights0

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