第8話 幕間 ヴェロニカ・メレシナの事情1



 私、ヴェロニカ・メレシナは北公国出身の新米諜報員である。鏡を見ながらお姉ちゃん譲りの綺麗な赤毛を梳かした。ちょっと気に食わないそばかすもメイクでしっかり隠せば大人っぽく見えるし、私だってお国のために働けるんだ。



「ヴェロ、あなたは幸せに生きるのよ」



 お姉ちゃんは私よりも6歳年上のスパイだった。両親を戦争で失った私たちはお姉ちゃんが軍人さんになることで生計を立てていた。美しかったお姉ちゃんは女軍人なら誰もが憧れる北公国の女スパイに昇進した。お姉ちゃんは評判が良かったらしく、長期の任務から帰ってくるたびに私たちが住むおうちは綺麗で広くなっていったし、美味しいものもたくさん食べられるようになった。

 そんなお姉ちゃんは私の頭を撫でると軍人ではなく誰かのお嫁さんになって、お母さんの様に幸せになってほしいと何度も言っていたっけ。

 私はそんなお姉ちゃんが大好きで、本当はお姉ちゃんみたいな立派なスパイになりたかった。いつかお姉ちゃんと一緒にお国のために働くんだ。もっともっと広くて綺麗なお部屋に2人で住んで、美味しいものをたくさん食べる。おばあちゃんになるまで一緒に……。

 お姉ちゃんは戦乱が終わるほんの数ヶ月前に死んでしまったと聞かされてた。お姉ちゃんに会うことは叶わず、まだ幼かった私が案内されたのは小さな墓の前だった。優しくて暖かくて大好きなお姉ちゃんは十字架の小さな墓の中にいると説明された。

 後に、私が軍人になってからお姉ちゃんは任務中に死亡したと聞かされた。なんでも子供に見せるには悲惨な状態だったからまだ幼かった私には見せない様に配慮した結果だという。


「メレシナ隊員、今日から諜報部だな。君の姉……ニナさんに良く似ているな。今日から、諜報部の訓練生としてまずは先輩スパイの補助からだ。中央帝国がひた隠しにする魔法銃の製造方法を手に入れる使命を果たすために」

「我が、君主のために」

 私は上官に敬礼をして荷物を部屋の方へ運ぶ。私は、軍人になるのが遅かったから潜入調査はまだまだ先らしい。それもそうだ、これから私はここで先輩の補佐をしながらさまざまな訓練を受ける。暗殺、色仕掛け……。特にこの二つはかなり厳しい訓練が必要らしい。女学校出身で内気な私は男性とまともに話したことがないし……男性とそういうことってどんな気持ちなのかな?


「ヴェロニカちゃん?」

 私に声をかけてくれたのはとんでもなく美人でスタイルのいいお姉さんだった。軍服の勲章を見ると私よりも全然立場が上みたいだ……。

「はいっ!」

 私が敬礼をするとその人は「いいよ、楽にしてよ」と困った様に笑った。プラチナブロンドに銀青の氷の様な瞳をしたその人は「レベッカ」と名乗った。なんでも諜報部の先輩で、私のお姉ちゃんと同期だったらしい。

「そっか、よくね。ニナから妹さんの自慢話を聞いていたのよ。大きくなったわねぇ」

「お会いしたこと……」

「ううん、ニナがよく写真を見せてくれてね。燃えるような綺麗な赤毛もエメラルドの瞳もそばかすまで出会った頃のニナにそっくりだわ」

 レベッカさんは私をそっと抱きしめて、髪を撫でると愛おしそうにいった。

「こんなこと、きっとニナは望んでいないでしょうね。でも、我が国の平和のため……。房中術の担当は私。よろしくね」

「房中術……!」

「そ、あなたのお姉さんは苦手だったけれど……でも苦手でもそういう演技が敵の油断を生むのよ。どうかしら、あなたは才能あるかしら」

 レベッカさんはピンク色の唇をちゅるりと舐めると目を細めて私をじっと見つめる。さっきまでは優しいお姉さんだったのに一瞬にして彼女は色っぽい雰囲気を纏う。優しく私の頭を撫でていた手はそっと首筋に添い、もう片方の手は腰をぬるりと撫でる。私は蛇に睨まれた……いや巻きつかれたウサギの様に動けなくなってしまった。

「なーんてねっ。房中術の実技は座学試験とそれからいくつかの同行任務で合格が出てからよ。色任務っていうのはかなりの危険を伴うし、本当に一握りのスパイにしかできないことなのよ」

「あの、私……頑張りますっ!」

「座学、大変よ。大陸4ヶ国語の勉強から心理学に栄養学、それから医学に薬学。稼働命令に従いながらもガッツリ学んでもらうわよ」

「ふえぇ……」

 さっきまでの色気はどのへやら、レベッカさんは私のお尻をパチンと叩いた。

「さ、荷物置いてきなさい。そしたら記念撮影をするから食堂まで戻っておいで」

「写真?」

「新人隊員は全員食堂で写真を撮るのよ、ほら、さっさとしなさい」


 レベッカさんと別れて、用意してもらっている自分の部屋に向かった。普段は相部屋らしいが、戦争が落ち着いてからは人手不足らしくルームシェアの相手はいないそうだ。寂しい様な、気楽な様な。

「えっと、ここを右に曲がって五番目の部屋……」

 北棟と南棟に分かれている宿舎の渡り廊下、殉職したスパイたちの写真が飾ってあった。

<エリカ・ボルニコフ 任務先で殉職 南王国の機密情報を入手>

<マリア・ボスコビッチ 東王国にて暗殺対象とともに殉職 敵国将軍を暗殺>

 まだ私と変わらない年齢の美しい女の子たちの笑顔の写真だった。食堂の綺麗な金色のオブジェの前で笑う彼女たちはみんなただの女の子だ。

<ニナ・メレシナ 中央帝国潜入中に殉職 中央帝国諜報部の隊員を複数人暗殺>

 お姉ちゃんの写真は一際目立つ場所に飾ってあって、近くには花が活けてあった。お姉ちゃんはきっとここの人たちに好かれていたんだろうな。

 ずらっと並んだ写真……どれもがうら若く、美しい女の子たちだ。幸せそうに希望に溢れた笑顔で撮られた写真。でも、ここに飾られている彼女たちはこの世にはいないんだな……。

 私は殉職した先輩たちの写真を一人一人眺めていたら、あることに気がついて言葉を失った。お姉ちゃんの写真から数十人目、少し写真は色褪せていた。でも、同じ様に食堂のオブジェの前、私と同じくらいか少し下の女の子。


——新人隊員は全員食堂で写真を撮るのよ


 これ、全員……きっと入隊した時の写真なんだ。

 私も、殉職したらこんなふうにここで写真になってしまうんだ。

 死んでしまったお姉ちゃんの背中を追いかけて私は軍人になった。けど、この国で軍人になるということは「死」を覚悟しなければならないということなんだ。入ってすぐ、遺影のための写真を撮影するんだ。

 ぎゅっと荷物を抱きしめる。大好きなお姉ちゃんの残したものばかりだ。



「ねぇ、お姉ちゃんは軍人さんにどうしてなるの?」

「それはね、君主様の望む未来になればみんなが幸せに暮らしていけるからよ。私も、ヴェロニカもいつだって好きな場所にいけて、好きな殿方と結婚ができる。豊かな暮らしと素敵な未来が手に入るの」

 


 お姉ちゃん。私が頑張ってみせるよ。

 



***


 朝から日付が変わるまでみっちりの座学授業。テキストは先輩たちのお古だから所々に線が引いてあったり落書きがあったりする。頭がパンクするんじゃないかっていうくらいに知識を詰め込まれて、毎週末の試験に合格しなければ罰則として宿舎中の掃除をしなければならない。

「えっと……男性は頼られることで心を開く傾向が……」

 書いたと思ったらすぐに板書を消してしまうのでついていくのに精一杯だ。一見、スパイに必要なさそうな一般教養も必要なのだ。諜報というのは教科書がない、だからこそ全てをできる様にしておくべき……らしい。

 ここで歴代1位と呼ばれていたお姉ちゃんは、どれだけすごかったのだろう? 

 私は集中力を切らしてしまっていたことに気がついて板書を確認する。いけないわ、結構進んでしまっている……! えっと、テキストはどの辺だろうか……。

 私が慌てふためている時、部屋のドアがガラガラと大きな音を立てて開くと、軍服をきた傷だらけの女性が入ってきて、先生に敬礼をする。

「伝令に参りました」

「おや、メレーナ事務官。いかがしたかな」

 メレーナ事務官と呼ばれた顔中傷だらけのお姉様は死んだ様な瞳で敬礼を解くと、研修生たちの方に向き直り、大きな声でこう言ったのだ。

「ヴェロニカ・メレシナ。潜入任務の命令だ」

 えっ……今、私が呼ばれ……た?

 まだ入隊して一年未満の練習生たちはザワザワと口々に話し出す。先生も困惑した様子だった。

「メレーナ事務官、何かの間違いでは? 彼女は昨日入隊したばかりの新人。補佐任務の経験もない新人ですぞ」

 先生の言葉に、メレーナ事務官は巻物を開くとそこに書かれた辞令を先生に見せた。先生はそれをまじまじと見つめてから、私の方を向いて。

「ヴェロニカ・メレシナ。確かに、ここにはそう書いてある。準備しなさい」

「えっ、でも」

「命令です。さ、すぐに準備を」

 私は先生に半分追い出される様に部屋を出ると、メレーナ事務官について歩いた。

「あ、あの〜」

「任務の詳細はアナ・コマルビッチ将軍から聞きたまえ。私はただの伝令にすぎん。詳細は聞かされていない」

 ぴしゃりと心のドアを閉じてしまうみたいに言われて、私はそれ以上彼女に声をかけることができなかった。優しい人ばかりとは思わないけれど、少しは話してくれてもいいのに。なんて、甘えちゃダメよね。研修用の教室のある棟から地下通路をくぐって、軍事本部に向かうとさらにすれ違う人々の緊張感が重くなった。北公国は中央帝国に降伏している状態ということもあって、楽しそうに仕事をしている人は1人もいなかった。

 いくつかの階段を登って、廊下の一番奥、両開きの扉の前でメレーナ事務官は足を止め、扉番の女性「彼女です」と声をかけた。

「コマルビッチ将軍。例の隊員が参りました」

「入ってちょうだい」

 扉の奥から艶やかな声が聞こえた。優しそうな声だが嘘くさくてあまり好きになれない声色だった。

「さ、入れ」

「失礼します」

 私は習ったばかりの敬礼をしてから扉の中に入る。部屋の中は豪華絢爛とまではいかないが金で装飾された家具がおかれ、一際大きな机には分厚い書籍が並んでいる。壁には剣や盾、魔法杖がいくつも並び、数えきれない数のトロフィーとともに飾られている。

「さ、そこに座って」

 部屋を入って正面の大きな机の奥にシルバーブロンドをきゅっとシニヨンに結い上げた女性が座っていた。軍服の胸には数えきれないほどの勲章が飾られていて、魔法石の指輪がきらりと輝いている。シルバーブロンドの髪と反してその瞳はヴァイオレットとエメラルドのオッドアイ。嘘くさく口角を上げた表情はなんとも言えない恐ろしさだった。動物に例えるなら狼、かな。

 アナ・コマルビッチ将軍は私をソファーに座る様に促すと立ち上がってこちらへ歩み寄ってくる。背はすらっと高く、足が長い。腰に携えた2本の剣は非常に重そうだが、彼女の足は軽やかだった。

「あら、本当によく似ているわね」

「……?」

「ニナ・メレシナ。とても優秀な隊員だった。彼女を中央帝国に殺されたことが今回の敗北の始まりだと私は思っているわ」

 なんと答えるのが正解なんだろう。私は何も言えず、ただアナ・コマルビッチの生気のないオッドアイをじっと眺めていた。アナ・コマルビッチは笑顔を作っているものの感情が存在しないみたいに動かない。怖い。

「あぁ、本題に入りましょうね」

 パンと拍手を一度して、アナ・コマルビッチは私の隣に座ると巻物と写真を取り出した。巻物はさきほどメレーナ事務官が教室に持ってきたものと同じだった。

「あなたには来週から中央帝国に潜入してもらうわ」

「潜入……? 私……」

「あぁ、いいの。喋らないで。上官である私の話を最後まで聞きなさい」

 唇を人差し指で抑えられ、私はじっと押し黙った。すると彼女は感情のない微笑みを浮かべて写真を手に取った。写真には、若い男が写っていた。

 男は銀髪に琥珀色の瞳、顔は整っているが少し小柄で中央帝国らしい紳士風の服を身につけている。軍人には見えない……。

「この男は中央帝国の中央軍事施設前でカフェテリアを営んでいるダレン・バイパー。あなたには彼のお店に潜入してもらうわ」

「あの……」

「上官に話しかけるときは?」

「アナ・コマルビッチ将軍、質問よろしいでしょうか」

「えぇ、いいわよ」

「潜入し、その後の任務について書かれていない様ですが……」

 アナ・コマルビッチはふふっと吹き出すように笑うと

「潜入後、様子を確認したら先に潜入中のものから命令を渡すわ。あぁ、安心して。暗殺は必要ない。それは……必要ないの」

 少し含みのある様子だった。でも、それ以上聞いても無駄だとなんとなく察して、私はアナ・コマルビッチの次の言葉を待つ。

「いい子ね、ヴェロニカ。あなたはこの対象(ターゲット)に近づいて、彼の心に入り込む。可能であれば恋人関係になる。まずはそれが目標よ」

「アナ・コマルビッチ将軍、お言葉ですが私はまだ」

 言葉を遮るように彼女は私の頭を撫でた。ひんやり、冷たい手はいつだって私を簡単に殺せる……そんな殺気が恐ろしくて心臓が止まりそうになる。

「だからあなたを任命したの。この任務は私たちの悲願。国が降伏しようとも絶対に成し遂げなければならないもの。わかったわね。メレーナ。彼女に中央帝国での言語とマナーの研修を急いで。さ、もうあなたに用はないわ。行きなさい」

 私は部屋を出る際、アナ・コマルビッチ将軍が笑顔を崩し、何かをひどく憎んでいる様なそんな表情をしている気がした。

「上官と話終わった後は敬礼でしょう? ヴェロニカ」


「我が、君主のために」

「いい子。期待しているわ」


 私は入隊数週間、異例の任命で潜入任務に出向くことになったのだ。


 

 

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