第59話:適度な距離
彼の胸に頬をつけると、物凄い早さで太鼓が鳴っていた。いちばん近くに居るんだなと、あたしの胸も熱くさせる。
「い、いやっ!」
耳にキンと鳴る拒絶。そっと下ろされ、てきぱきと松葉杖を持たされた。
嫌だった?
咄嗟に声の出ない中、レジ袋を拾った彼が「ごめん」と後ろを指さす。振り向けば、遠くなったスーパーが見える。敷地を出た車のライトが、当然のようにこちらへ向く。
「他の人が居るのに。俺、我慢できなくて」
「いえ、あたしこそ」
そう言う間に、さっきの車が通り過ぎる。後にはまた別の車も。
何台に目撃されたろう。視線を戻すと、ちょうど彼もあたしを見た。照れくさいどころでなく、恥ずかしくて恥ずかしくて、笑うしかなかった。
「あはは」
「ご、ごめんね」
「いいと思うって言いましたし」
誰に対してか、二人して笑ってごまかす。それからすぐ、逃げるようにタクシーへ乗った。こそこそと、車の中でも俯いたまま。運転手さんに犯罪者と思われたかも。
「それで、あの」
家に戻ると、彼は買った物を片づけてくれた。冷蔵庫と、百円均一の編みカゴにパンやビスケットを。
「俺の勘違いでなかったらだけど、嬉しい。今すぐにでも、会社の人に見せびらかしたいくらいにね」
「い、行きますか?」
そう言うだけで、実際にはしないはず。テーブルで対面する真面目な顔が、予想通りに横へ振られた。
「絶対、オヤジネタでからかわれるから。俺はいいけど、端居さんがイジられるのは見たくない」
それはたしかに困る。頷くあたしに、「でも」と彼。
「何で俺?」
自身の顎を撫で、ジョリジョリと髭を鳴らす。笑っていた眼が自信なさげに細まり、あたしの後ろへ逸れる。
視線を追いかければ、そこには小さな棚がある。少しばかりの本と小物を集めて置いているが、最上部はキバドラグッズ置き場。
「あっ。ええとこれは――」
その中央へ、赤い缶コーヒーが鎮座する。キバドラ達を従えた、神様か王様みたいに。
言いわけの言葉が脳裏に溢れた。どれも口にすることなく、黙秘権を行使したが。
「おっさんだよ」
「そんなの関係ないです。それを言ったら出島さんだって、あたしのこと」
「あ、いや、うん。ごめん、今は全然。可愛い人とは思ってるけど」
正面から突き飛ばされたみたいな衝撃。なぜ彼は、大人な真顔でこんな言葉を吐けるのか。
「そういうところです。思ったことを、きちんと言葉にしてくれる。分からなかったら、分からないって言ってくれる。知らないことは調べて、知ろうとしてくれる。そんなのおかしい、こうするのが当たり前って決めつけない」
それに何より、気に留めてくれる。きっとあたしのことで、何も思わないことがないんだろう。
などと自惚れさせてくれる。とは、さすがに声にできなかった。
「いやあ、そこまで言われる奴じゃないんだけど」
頭を掻き、力なく笑う。こういう時の彼は、とても頼りなげだ。幼いというか、弟の大翔を見るような気分になる。
まあ本当の弟なら、さっき抱き締められたお返しで励まそうとは思わないけれど。
「覚えてますか、病院で」
「うん?」
「明さんや鴨下がどうしたいか、分かるって。あの時あたしの母も並べて言ったのに、答えは言いませんでしたよね」
一瞬、彼の眼が見開かれる。すぐに閉じ、観念するのに何を考えたのか、元通り少し眠そうに開いた。
「気づいてたんだ?」
「出島さんの言うことなので。聞き逃しません」
「そりゃ困ったね」
はにかむ彼を、ずっと見ていたい。そうだ、こういう時に写真を撮れば。
名案だったが、スマホがなかった。壊れた原因への怒りは、これが最高潮だったかも。
「気にするなってことじゃないんですか? あたしの怪我のことよりもっと、考えてもムダだって」
「いやいや、そこまでは。人それぞれに適度な距離は違って、近ければいいってもんじゃない。友達、同僚、親子でも」
合わない相手のことを、深く考えない。
適切な距離を保っていれば、そもそも悩まなくて済む。
順序が逆さまなだけで同じじゃないか、と最初は思った。けれど、なぜ逆さまにするんだと思い直す。
彼の言うまま、母には母に向いた対話をすればいい。父や大翔にも。
ふわっと、胸の底の焦げ付きが溶け落ちる。
「今日、お昼ごはんを三人で食べて。みんなで食べると美味しいんだなって、初めて知りました」
「一人は味気ないね」
実感たっぷりに「あぁー」と唸る彼。トラックの仕事中は、ずっとそうに違いない。
「だから、その。今日」
「今日?」
「晩ごはんも一人だと寂しいので」
要求が幼すぎる。どこまであたしは子供なんだ。
最後は消え入った依頼に、彼は意外なくらい楽しそうに答えた。
「えっ、いいの! 俺は嬉しいけど、せっかく買った食料が足らなくならない?」
「大丈夫です。できれば日曜日、また買い物へ連れて行ってほしいですけど。あと、スマホの新しいのも」
「行く行く。朝から付き合うよ」
かなり多くの表情を見せてもらったが、まだ知らない顔があるらしい。
もう少し居てくれるそうだし、もっと見せてもらおう。深夜のカフェ裏と違い、声を憚る必要もないのだから。
そうして出島さんがあたしの家を出たのは、翌朝のパンを一緒に食べた後だった。
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