第57話:日常は難しい
「さあさあ、上がって」
明さんが家主みたいに手招きをする。もちろん遠慮なく、一人暮らしの狭い玄関に足を踏み入れた。
壁にもたれて靴を脱ぐのも息が切れる。でもどうにか床を踏み、改めて「ただいま」を心の中で言った。
「じゃ、俺はここで」
紙袋に二つの荷物を置く音。振り返るのにもまた壁を使い、ドタバタする。
「もう帰っちゃうんですか」
「いやぁ。家の中のことは、全然手伝えないしね」
靴を脱ぐスペースに、まだ出島さんはこちらを向いていた。足だけは半分くらい、回れ右をしていたが。
男の人だし、と。彼の言い分に頷きかける。
「一人暮らしなんじゃないの?」
既に奥へ行った明さんから、鋭いツッコミが飛ぶ。
そうだった。年齢を考えれば、あたしより経験豊富なはずじゃないか。
「そうですけど。メシはスーパーの惣菜だし、洗濯はコインランドリーでまとめてだし」
「うん。今の穂花ちゃんには、そういうテクニックのほうが必要なんじゃない?」
「あー、なるほど」
「それにヘルパーさんの書類も書かなきゃいけないし。何を頼むか、チェックに付き合ってあげてよ」
彼と同じく、なるほどとあたしも頷く。何でも自分でやったほうがお得と思って、挙がったようなサービスを使ったことがほとんどなかった。
「ええと、じゃあ。でも俺が上がっていいのかな」
「いいですいいです! どうぞ!」
ここまで来てもらったのに、玄関先で帰すのは申しわけない。とは自分への言いわけで、せっかくだからもっと居てほしいのが正直な気持ち。
咄嗟に大きくなったあたしの声を笑って受け止め、彼は紐のない運動靴を脱ぐ。
「でもヘルパーさんに遠慮は要らないんですよね? 頼めることは何でも頼んで」
そう言う出島さんは、明さんの持つ弁護士さんからの封筒に視線を向ける。どれだけ料金が嵩んでも、支払うのは鴨下さんだ。
「そうだけど。まあいいじゃない」
「はあ、いいですけどね」
明さんはさっさとあぐらで、部屋の真ん中のテーブルに肘を突いていた。その向かいに彼は立ち、あたしを振り返る。
「とりあえず、お茶でも淹れてみます」
ヘルパーさんの介助に遠慮は必要ないとしても。自分だけで何ができるか、知っておくのは悪いことでないはず。
さっそく湯沸かしポットに水を入れようとしたが、置き場所から蛇口までが遠い。コードを可能なだけ伸ばし、足を動かさずに届く位置へ動かす。
足が治るまで、こういうことの繰り返しだ。
「お待たせしました」
お湯が沸き、ティーポットに注ぐ。お茶と言って、ティーバッグだけど。
さて。声をかけ、運ぼうとして手が止まった。片足が使えなくとも、カップの一つずつなら持てる。が、熱湯入りのティーポットは無理。
「運ぶよ」
すぐ、見ていた出島さんが手を伸ばしてくれた。両手も両足も健康な彼は、いとも簡単にテーブルまで辿り着く。
「しばらくはキッチンで食事ですね」
ヘルパーさんの居る時は運んでもらえるが、さすがに二十四時間ずっとではない。頼めば居てくれるだろうけど、あたしが気疲れする。
ちょっとため息で、あたしもテーブルに座った。
「だねえ。まあ暑い時期は過ぎたし、常温でもいい物をテーブルに置いとくとかさ。パンとか」
などと言いつつ、明さんの手はヘルパーさんの依頼書に何やら書き込む。
料理、掃除、というような項目へ丸印を付ける他に、具体的な注文も文章でどうぞという書類だ。
「お昼もパンでいい?」
時計は午後二時を過ぎている。ペンを置いた明さんが、馴染み深い包みのパンを出してくれた。
しかもあたしの好きな、ピリ辛のチョリソーを挟んだコルネサンドがあった。出島さんは生ハムサンド、明さんはチーズサンド。
「パンも美味しいねえ。この間のナットウ――じゃなくて、何だっけ。呪文みたいな」
「ナッツクリームラテ、ピスタチオソース、クラッシュナッツトッピングですか?」
「それ。一緒に食べたいね」
本当に気に入ってくれたらしく、彼は三口くらいで食べきった。そんな姿を見せられると、あたしのチョリソーも十倍美味しい。
「ごちそうさま。出島さん、後はよろしく」
「え」
次に食べ終わった明さんが、両手を合わせるなり立ち上がった。
突然に何だ、どうしたと彼の眼が疑問を訴えても、「店に戻らないと」と言われてはどうしようもない。
「あ、そうだ」
問答無用という感じだった明さんの足が、ピタッと止まった。首だけで振り向くのは、出島さんに。
「な、何でしょう」
「ちょっとちょっと」
こっちへ来いと手が動き、彼も従う。何の用だか耳打ちで、あたしには分からなかった。
「すみません、気づきませんでした」
「いいのいいの。頑張って」
出島さんが頭を掻き、「あははっ」と笑った明さんはそのまま玄関に向かった。
「穂花ちゃん、見送らなくていいからね」
「すっ、すみません」
「だいじょぶ。また来るから」
あたしの代わりに出島さんが玄関まで行ってくれた。開いたドアのまた閉まる音がして、急に部屋の中が静かになった気がする。
「端居さん、食べてていいよ。書類、分かるとこは俺が書くから」
戻ってきた彼は、あたしを見ずに言った。「すみません」と答えて、今日はこればっかり言ってるなと思う。
代わりの言葉も思いつかなくて、コルネサンドで口をいっぱいにする。
「そういえば、これ書いても今日や明日は来てもらえないよね。食べ物、買ってこないといけないんじゃない?」
「あっ。牛乳とか腐ってるかも」
あらかた書類を書き終わった彼の言葉で、恐ろしいことに気づいた。半月ぶりの冷蔵庫の中身を想像したくない。たしか生肉もあったような。
「俺がやるよ。で、買い物も行ってくる」
「すみません……」
「全然。ビニール袋とか、台所にあるよね」
さすが一人暮らしの先輩は、すぐにガサゴソと作業を始めた。シンクに牛乳を流す音も聞こえて、あたしはテーブルに突っ伏した。
「買ってくるのは何がいいかな。菓子パンと惣菜と」
手を止めず、彼が問う。
任せきりは嫌だ。しかし一緒に行くとなると、却って手間をかける。
「端居さん?」
「あの。迷惑じゃなかったら、あたしも一緒に行きたいです」
「迷惑なわけないよ。でも平気かな、買い物するとこ近い?」
あたしは我がままなのかも。けれど、彼の厚意に甘えることにした。
「いつもはスーパーまで行くんですけど、すぐそこに商店街があります」
「そうかぁ。分かった」
答えてすぐ、作業が手を洗う音になった。大きなタオル地のハンカチで拭きながら、「出かけようか」と彼。
さっき恥ずかしそうにしていたのは、明さんが居なくなったからかな。聞いてみたいが、自然な声になぜかあたしの顔が熱くなる。
「どうかした?」
「いえ全然」
落ち着こうにも、彼の手助けなしには動きが鈍い。
立ち上がり、玄関で靴を履き。いちいち彼の手があたしに触れ、あたしも彼の身体に触れる。自分でもうるさいくらいの心臓が、聞こえたらどうしようとまた困る。
「あれ。商店街はこっちですよ」
ラブホ通りと同じ方向を指さす。しかし彼は「うん、でも」と車道ばかり見ていた。と思ったらサッと手を上げ、タクシーを止める。
「商店街も楽しそうだけど、今日は端居さんがつらいから」
「何でそこまで」
「ん、大げさだった? でも心配だから、気を遣わせてよ」
苦笑の彼が、先にタクシーへ乗り込む。奥から差し出される両腕の真ん中へ、飛び込みたくて堪らない。
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