第48話:また明日

 救急車のサイレンが聞こえた。かなりの遠くから、まっすぐこちらへ。

 もうすぐそこの角へ来ても、出島さんはあたしを離さなかった。ずっと謝り続けたのは、なぜだか分からないけど。


「ごめん、ごめん……」

「あ、あぃがどうござひまず」


 耳元で囁くと、あたしの声もどうにか人間の言葉に聞こえた。なのに彼はしゃくり上げ、「うおぉぉぉ」と大声で泣く。


「ら、大丈夫らぃじょうぶでず」


 温まり、感覚が戻ってくると、風邪を引いたように喉が痛かった。

 繰り返しに頷く彼の大きな手が、あたしの頭を撫でてくれる。ぐるぐるとタオルで拭くみたいに、強くて優しい。


「失礼します。患者さんの様子は?」


 救急車の隊員さんがヘルメットを押さえつつ、正面へ立つ。遠慮がちに手を伸ばし、出島さんの肩を叩いて。


「つ、冷たくて。それに足が、足が」

「お話はできる状態みたいですね?」

「声がっ」


 足がどうなったんだろう。眉間へ皺を寄せた隊員さんに、彼が答えてくれる。

 たぶん今、あたしのことを最も分かっていないのはあたしだ。首を振り向かせ、出島さんの言う通りと頷く。


「なるほど、お預かりしますね」

「よ、よろしくお願いします!」


 逞しい腕が開かれ、あたしは隊員さん二人がかりで抱えられた。ストレッチャーに乗せられ、救急車に収納。身動き一つできない自分を荷物みたいだと思った。

 搬送先が決まると、彼にも伝えられたのが聞こえた。一緒に行ってくれるんだ、そう考えた瞬間から記憶が途切れた。


 ――再び目覚めると、ベッドの上だった。知らない天井だけど、病院だとはひと目で分かる。あたしの腕に繋がる点滴も見えた。

 左右をカーテンで仕切られているが、幾つもベッドが並んでいるらしい。足元の方向へ大きな窓があって、救急処置室と書かれていた。


 だからバタバタと慌ただしいのか。その割にあたしの傍にはお医者さんも看護師さんも居ないっぽいけど、取り敢えずの治療は終わったのだろう。

 ブルッと震えて、洗いたての匂いの布団を引っ張り上げた。


「動けるみたいね」

「あ、あれ?」


 見ていたのと反対から声をかけられた。誰だかすぐに分かったが、視界を妨げていた布団をサッと捲る。

 丸椅子に座った明さんが、ぎゅっと眉を寄せて笑っていた。


「出島さんなら、仕事を放っぽって来たから片付けてくるって。また明日って言ってた」

「大阪に?」

「うん。声、酷いね」


 言われて気づいた。明さんが言うのとは逆に、さっきより格段に声が出る。手を喉へ持って行くと、包帯でグルグル巻きだ。


「これでも全然、ましになったかもです」

「えっ、そうなの?」


 ガラガラの声色が別人としか思えないし、やたら痰が絡んで喉がゴロゴロ鳴る。

 明さんが驚くのも無理はないが、笑って見せた。自信は無いけど、たぶんうまくできたはず。


「明さんは、出島さんが?」

「うん。八時くらいに店に居たら、やたら長く電話が鳴ってさ。取ってビックリよ」


 いつになく微妙な間を挟みつつ、明さんは答えた。震える唇を噛みながら笑わせるのが申しわけない。


「すみません」

「えっ、何で。穂花ちゃんが自分で飛び降りたとかじゃないんでしょ、謝ること無いよ」

「いやもう、色々と」


 飛び起きてからの平伏でもしたいところだ。しかし、あたしは言葉の選択を誤ったらしい。明さんの表情から笑みの成分が抜け落ちる。


「まさかと思いながら、ここに座ってたんだけど。つまり、そういうこと?」

「あ、いや――」


 咄嗟に首を横へ振った。のに、「そか」と明さんは俯く。


「土下座しても足りないくらいだけど、したら却って迷惑だからやめとく。穂花ちゃんは何も心配しなくていいから。私がやるから」


 庇うつもりは無い。けれどこの人に負担を押しつけているようで、「違います」と繰り返した。でも明さんは胸の空気を入れ換えてから「大丈夫」と微笑む。


「だけど」

「ああそうだ、お母さんも来てるからね。さっき飲み物買ってくるって、行っちゃったけど」

「えっ」


 そちらへ出入り口があるらしく、明さんの視線が遠くへ投げられた。すぐに戻ってきたが。

 何と答えるべきだろう。連絡をしてもらってありがとうございます、が模範的なのは分かる。きっと採用された時の履歴書なんかを引っ張り出したはずで、お手数おかけしましたでもいい。


 だが実際の声には出せなかった。せめて何かは言おうとしているうち、明さんの背中に母が見えた。


「目、覚めたのねぇ。あ、これ温かいお茶です」


 左右の手に小さなペットボトルを持ち、一つを明さんに差し出す。


「あ、ど、どうも。お気遣いありがとうございます」


 さすが、にこやかに受け取る明さん。え、今? とばかりに二度見したのは無意識に違いない。

 その隣、あたしに近い丸椅子へ母は座り、さっそくペットボトルの蓋を開けて飲む。


「近所の土手から落ちたって聞いたけど。何でそんなことになったの」

「うん、まあ。うっかり?」

「うっかりって、鳥でも見上げて歩いてたの? 穂花、そういうとこあるよね」


 けらけら笑うでないが、お煎餅でも出せば迷わず手を伸ばすと思う。いつもの母だ、むしろホッとした。


「もうお医者さんと話した? 運ばれた時ね、足がぷらーんってしてたんだって。だけど綺麗に折れてたから、早くくっつくって」


 良かったねとでも言いたげに、母は口角を上げる。ちらと明さんを盗み見れば、上目遣いに小さく頷いた。


「頭も血が出てるけど、中は大丈夫みたいよ。今日は入院して、明日また検査?」

「ええ。何やかんやで全治は三ヶ月前後と仰ってましたね」


 途中であやふやになったようで、母の言葉がモゴモゴ消えかけた。最後に明さんへ同意を求めて持ち直す。

 いやいや、腕や背中も痛いんだけど。あちこち包帯だらけだし。

 説明の続きを待ったが、母は物音に振り返った。新たな救急の患者さんが運ばれたらしい。明さんからも補足はなく、これといった大事は無いんだなと呑み込む。


 賑やかさもまた数分で落ち着き、看護師さんがやって来た。入院手続きの書類を母に渡したが、「穂花、書ける?」と受け取った。


 そうして運ばれた病室は個室だった。洗面台やトイレもあって、十畳以上の広さ。間接照明ばかりなのが今どきだ。

 新しそうな木目調の内装を一通り見て回った母は「ホテルみたいね」と楽しそう。対して明さんは高い景色の窓から、じっと外を見つめる。


「こんな部屋ならお母さんが泊まりたいわ」

「うん、私にはもったいないね」

「ね」


 ちょうど昼食時で、あたしの分を看護師さんが持ってきてくれる。母はそれも「美味しそう」なんて、本気というかお世辞ではなさそう。


「お母さんもお腹減っちゃった。ええと、何かしなきゃいけないことあるんだっけ?」

「ううん。何でも売店で揃うみたいだし、看護師さんがやってくれるらしいし」

「じゃあ、今日は帰るね。また来るけど、何かあったら連絡して。店長さんにもお礼、ちゃんとね」


 店長と言いながら母が頭を下げたのは明さん。

 自己紹介をしていないとは考えにくい。胸の内で謝ることに一つ加え、この場はスルーを決め込む。


「あっ、そうそう」


 病室を出て行く背中に手を振った。その母が出入口の引き戸に手をかけ、半歩戻る。


「部屋、大翔に片付けさせとくから」


 どういう意味? あたしの怪我との関係が繋がらず、もちろん母が解説するわけもなく帰っていった。

 ああ、退院したら実家に戻れってことか。

 それはどうなんだと思うものの、一人ではお風呂もままならない。でも実家の狭い浴室では手伝ってもらう意味があるのだろうか。


 母が去ってしばらく。窓ぎわのオブジェと化していた明さんがボソッと。


「余計なお世話だったらごめんね。穂花ちゃん、お母さんのとこに帰るの嫌だったりする?」

「嫌ってことはないです――けど」


 嘘でなく、正直な回答でもない。どうにも後ろめたさが堪えられず、余計な二文字を付け加える。と、おもむろに明さんも出口へ足を向けた。


「ずっと居たいんだけど、私のシフトが穴空きのままでさ。店に戻るね」

「シフトって言ったら、私のほうが」

「そんなのあり得ないから、ゆっくり休んで。私もまた明日来るつもりで悪いけど」


 ご飯もしっかり食べるようにジェスチャーして、明さんは部屋を出ていく。明日も来てくれるのが悪いなんて、何を言っているのやら。

 ずっと居られないのは当たり前だし、迷惑をかけたくもない。


 だけど広々した部屋が暗く殺風景に感じる。まだ湯気の上がる食事が冷たく見える。ひと口食べようとしてみたが、それで限界だった。

 午後九時の消灯直前、寒くて寒くてナースコールをした。測ってもらった体温は四十度に近かった。

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