第六幕:予想外の航路

第42話:共に在る意味

 微かにカビた臭いの混ざる古い事務所が、薄暗くなっていく。蛍光灯は点いているのに、差し掛かった夜に押し負けている。

 それとも、誰も次の言葉を発しないせいだろうか。壁の時計の針が、最も賑やかしい。


「あはははっ」


 弾けるような笑声。

 誰が、と探す必要もない。この場でそんな肝を持つ人が明さん以外にあるはずもなかった。


「いいね穂花ちゃん、イイよ。蔵人もそれでいいでしょ?」


 肩をバシバシ叩かれたあたしより、問われただけの店長のほうが痛そうに身を捩る。


「え、いや、その、僕は。明がいいなら、文句を言える立場じゃないし」

「じゃ決定」


 言うと同時に明さんは、視線の正面へトビを置く。笑んだまま、ずいと前のめりに。


「あんた達もいい?」

「……何の解決になるんだか分からないけど、他に選択肢は無いんでしょ」

「無くはないけど、お勧めしない」


 あからさまに憮然としたトビだが、明さんが胸のボイスレコーダーを指さすと頷いた。


「鳶河」


 同じく頷き、昔の仲間の名を呼ぶ明さんは笑っていなかった。かと言って怒っているでもなく、無表情でもなく。記憶を探すと、カフェのチーフとして働く顔に近い。


「蔵人が留年してるのは知ってた? 二年」

「留年?」

「私らが入学する前だよ。休学手続きを知らなかったみたいでさ」


 もちろん、あたしも知らない。休学というと何か理由があったのだろうけど、代わりにトビが「何で?」と聞いた。


「喫茶店をやるため。食事を出すのに調理の知識が要るし、『コーヒーを淹れるのも調理だ!』って」

「まさか留年して、調理師学校に?」

「そのまさか」


 たしか経営についてを勉強していて、喫茶店もその実践としてのサークル活動、みたいなことを言っていた。

 大学の仕組みはよく分からないが、サークルとはクラブ活動みたいなものでないのか。それをそこまでやるとなると、物ごとの主従がおかしく思う。


「調理って、分かるけど。そこまでする奴なんか」

「居るんだ、ここに」


 肩越しに親指を向けられ、気まずげに首すじを撫でる夫。失笑の妻。


「おかげでうちのお客さんはみんな、おいしいって言ってくれる。メニューの構成を決めるのは私だけど、味を作るのは蔵人だから」

「――だから?」

「あんたの思う仲の良さと、私の思うのは違うって言ってんの」


 まっすぐの視線をぶつけ合い、二人の言葉は途切れた。何十秒かでトビの鳴らした舌打ちが最後だ。


「じゃあ、そういうことで。カモ、頼むね」

「う、うん。もちろん」


 サッと立ち上がり、出口へ向かう明さんにカモも続いた。足早に追い抜き、引き戸を開けて見送る。それから店長も、のろのろと腰を上げた。


 あれ、これで話は終わったんだっけ?

 何やら忘れ物のある気がして、あたしはなかなか立てなかった。でも同じ席に居るのはトビだけだし、首を捻りながら事務所を出た。


「ん-、喉乾いた。コーラ」


 あたしの背中で「はい、どうも」と営業口調のカモが戸を閉める。もはや眼中にない様子の明さんは、事務所前へ置かれた自動販売機を指さした。


「穂花ちゃんは何がいい?」


 黒光りする財布を取り出した店長が、コーラのボタンを押す。落ちてきたペットボトルを持ち上げ、明さんに手渡すのも。


「私は、いいんですか? ミルクティーで」


 遠慮しようと思ったが、喉がカラカラだ。当然、と明さんが笑ってくれるので甘える。その缶ボトルも店長が取ってくれた。


「ねえ蔵人。今回のこと、言った通りで信じる。だけどね、ピンクい希望を持って行った時点で、浮気は浮気だよ。次に何かあるまで、私はさっぱり忘れるけどさ」

「ごめん」


 脊髄反射的にも感じる、即座の謝罪。しかし店長の力ない声と、握って震える両手が多くを物語っていた。

 あたしはここに居ていいのか。分からないからミルクティーを夢中で飲むフリで、聞いていないフリをする。


「私は蔵人ほど、これをやりたいって熱が無いの。後先のことぁんにも考えずに蔵人が走り出すから、おいおいって言いながら着いていけるの。それが蔵人のいいとこで、でなきゃ私はぐうたらしてるだけの怠け者なの。覚えといて」


 返事もなく、店長は立ち尽くした。明さんもコーラを飲みきるまで、見るともなくという感じでいた。

 空になったペットボトルを自動販売機の脇のゴミ箱へ放り、明さんは赤い自分の財布を出す。

 買ったのは、おしるこ。キャッチボールには近い距離から店長へ投げて渡す。


「ほら、何ボケっとしてんの。店に帰るよ」

「うん……うまい」


 受け取ったおしるこを、店長は一気に喉へ流し込んだ。最近ではちょっと暖かい今日、その選択は酷かなと思ったのだけど。

 店長はほんの少し、幸せそうに唇を噛んだ。




 タクシーの流れる通りまで歩き、三人で乗り込む。二人にしてあげるべきと遠慮したのだけど、明さんに押し込まれた。


「聞いてもいい?」


 走り出してすぐの問い。店長を助手席へ追いやった恰好なのはさておき、断る理由は無い。


「鳶河と鴨下にカフェに通えって言ったの、何で? 謝っても弁償してもらっても、嫌な記憶が増えるだけだからかなとは思ったんだけど」

「それもあります。サインペンとかカフェとか、私の好きな物を見るたびに思い出しちゃうので」

「も?」


 それもと言うなら、他は何か。すぐに答えたかったが、できなかった。隣に座る明さんの首を傾げる仕草が、意外に子供っぽかったのとは関係なく。

 あたしの中で完成していないジグソーパズルを、今さらに組み立てる。


「何ていうか、私の大事な物を傷つけられて。それは明さんもで。トビ――鳶河さんには、そういう物が無いのかって思って」

「うん、腹が立った?」

「たぶんそうです。だけどあの人の大事な物が店長というか、店長と一緒に居た時の思い出とかで。そこには明さんも居て」


 今はこうして隣へ居るのに、あたしには想像するしかない景色。その場へ居た気持ちに至っては、想像すら及ばない。

 当たり前なのに、なぜだろうと不思議に思う。


「ああ、それは傷つけられたら嫌だろうなって思って。いや、誰が傷つけたわけでもないのは私は分かってますけど。本当に私が鳶河さん自身だったら、めちゃくちゃにしたくなっても無理は無いのかなって」

「まあね。それでも穂花ちゃんはやらないし、鳶河はやった。鳶河が今の穂花ちゃんなら、同情なんかしない」


 明さんの口から、フッと息が漏れた。ため息か呆れて笑ったか分からないけど、ふわり柔らかい感触が頭に乗る。

 あたしの短い髪で遊ぶようにポンポンと跳ねさせ、整えるように撫でる。


「同情ですね。私みたいな子供が生意気に」

「うーん? 幼稚って意味なら、穂花ちゃんは子供じゃないよ」


 だってこれは、明らかに子供扱いだろう。頭を撫でられるなどと生まれて初めてで、身を固くする自分でもそう感じる。


「いつか何十年先でも、その時が来なくても。鳶河さんが、あの時はごめんなさいって心から言って。明さんは何のこと? ってトボけて。そういう可能性を潰したくないっていう、子供っぽい同情です」

「うん。穂花ちゃんらしいなって思うし、むしろ大人だなぁって尊敬する。鳶河にしたら終身刑に聞こえたかもだけど」


 たしかに、あの人の性格だとそうなるかも。「だから最上の答えだったよ」と言う明さんに、「かもですね、すみません」と答えられた。


 幼稚って意味でなければ子供っぽいってこと? と気づいたのは、ライオンパレス近くで降ろしてもらった後のことだ。

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