第24話:ささやかな前進

「何って――真地さんこそ、どうしたの?」


 目に痛いくらい真っ赤な傘。金色の孔雀かなと思う、ゴージャスな髪。革ジャン風のアウターにマイクロミニが、いかにも彼女っぽい。

 出島さんとは逆方向からこちらへ、一歩の距離で足を止めた。


「美香はスマホ忘れたぽくて、マジ終わってたんだけど。とりま戻ってきたらハシイさん居るから、ええやんおもってるとこですー」

「スマホ? ああ、お店の中ってことね」


 いつの間にか霧みたいになった雨が、頭の中まで侵すようだった。ぼんやりして、自分がどこで何をしているかさえ意識していなかった。

 だから。フラフラ立ち上がって鍵束を出し、裏口へ歩き出しても真地さんの着いてこない理由が分からない。


「真地さん?」

「こんばんはー。ハシイさんの彼氏さん?」


 あっ。

 気づいたのは、彼女が出島さんに話しかけたからだ。もう遅い。


「こんばんは。いや俺みたいなのが彼氏って、端居さんに申しわけないよ」

「へー」


 機械音声にありそうな、薄っぺらい声。反面、付け睫毛の下の瞳は忙しく動く。


「真地さんっ。スマホ、スマホは?」

「あー、取ってきまー」


 自分の早口と、同じく早まる心臓に気づいた。何食わぬ顔を装い、暗証番号を打つが二度間違えた。

 急かしたのに。真地さんは文句も言わず、扉のノブを握って待つ。警備システムを解除してから、まだ鍵を開けないといけないのに。


 ようやく扉を開けると、彼女はまっすぐ更衣室へ向かった。灯りが点き、ロッカーを開け閉めする音がガタゴト。すぐ、スマホを手にした真地さんが戻ってくる。


「じゃあ、どーもでしたー」

「お、お疲れさま」


 誰に何の用件やら、親指が凄まじい勢いで動く。あたしの前を過ぎるのにも、画面を見たまま。

 呆然と見送るあたし。裏通りの、自分の来た方向を眺める出島さん。


「あっ」


 元来たほうへ二、三歩。通りを戻り始めた真地さんは、小型犬に似た声を上げて立ち止まる。

 わざわざ、たぶん、間違いなく。出島さんの後ろ頭に視線を経由させながら、あたしを振り向いた。


「ごゆっくり」


 どうして今。というタイミングの、ニヒルな笑みだ。返す言葉の思いつかないまま、彼女はもう振り向かずに去っていった。

 施錠をやり直し、通りまで出た頃には姿がない。居たとして、何をするでもないけれど。


「遅くなるね。端居さんも帰ったほうがいいよ」


 ふと。言うが早いか、プラケースがカタカタ鳴った。見れば出島さんは、二人分を重ねて持ち上げている。


「あの……」


 手伝おうにも、手伝うことがない。もっと話したいけれど、何を話していいか分からない。

 候補に挙がるのは、彼の悪夢についてばかり。それを口にしては、さっきの真地さんよりタイミングが悪い。


「ん、まだ何かある?」


 まだ?

 いや違う。出島さんは早く帰りたくて言ったわけじゃない。いつも通り優しく、確認として言っただけ。

 首を振り、どうしようもなくバカな思い込みを追い出した。


「私、その、ええと」


 声に出すのと同じに、頭の中でも「ええと、ええと」だ。その間に彼は意味のなくなった傘を畳み、ちょっと強く振って水滴を飛ばす。


「傘、ありがとう」

「いえそんな」


 胸の鼓動が痛いくらい。喉がきゅうっと、枯れて縮んだかに息苦しい。傘を受け取る手も震えた。

 このまま帰したら、あたしは酷い奴のまま。出島さんに、そう思われるのは嫌だ。もし、これきり会えないとしても。


 ――これで終わり、なんだろうな。


「出島さん、私」

「うん」


 本当にこれきりなら、せめて言っておきたいことがある。

 あるはずだ。勢い込んでみても、正体が見えなかったが。


 とろんと眠たそうな彼の眼が、何でもどうぞと言っている。迷惑をかけるばかりのあたしに、さっきまでのあれこれなど無かったように笑む。


「私、何を言いたいかまとまらなくて」

「うん、いいよ。急ぎの話ならこのまま待つし、そうじゃないなら次に会った時でも」


 次。次と言った。


「次、会ってくれるんですか? お話していいんですか?」

「ええっ? いやその、お店には行けないけど。端居さんが話を聞けって言うのを、断る理由がないよ。ごめん、そう伝わったつもりだった」


 細く震える、あたしの声。驚いて揺れる、出島さんの声。

 見上げるあたしを、見下ろす彼はまじまじ。眼に、ほっぺたに、心配の二文字が無数に読めた。


「相談に乗るとかね、おこがましいけど。端居さんが俺に用がある、話してやるって言うなら、それは嬉しいんだよ。いやもう、おっさんがこんなこと言ったらダメなんだろうけどさ」


 笑った。あたしが、だ。たぶんだらしなく、緩んだ顔をした。証拠に「ど、どうしたの?」と、彼が一歩近づく。

 剃ったばかりの、ツルツルの顎。けぶる空気に混ざったシャンプーの香り。

 抑えられなくて、せめて口元を押さえた。


「また、お願いします。もし嫌じゃなかったら、出島さんのことも教えてください。運転中とか、お休みの日とか、色んなこと」

「そんなのが聞きたいの? いいけど、面白いことは何もないよ」

「面白くしなくていいんです。そのままが知りたいです」


 どうにか噛まなかった自分を、褒めてあげたい。


「そうかあ。でも楽しいこと、何があったか思い出しとくよ」

「楽しみにしてます」


 諦めなくて良かった。言いたいことがある、そう言わなくても同じ結果だったのかもしれないが。

 あたしが踏み出したからと思い込むことで、三十分前のあたしより強くなれた気がする。


「表の通りまで、一緒に歩く?」

「歩きます。あ、でも」

「でも?」


 いつもの自動販売機から、何十メートルかの散歩。これはきっと前進に違いない。


「私、話してやるなんて偉そうなこと言いません」

「ええぇ。それは言葉の綾って奴だよ」

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