12、カナヤの本心(1)

 まぁ、である。

 

 印象深い出来事ではあったのだ。

 しかし、結局は何も変わりようは無かった。


 カナヤにとって、彼──テオがどうでもよい『誰か』であることは変わらない。


 よって、何も変わらない。

 何ひとつ変わりようは無い。


「それにしても驚きました」


 発言の主は、いつもの侍女殿であった。

 カナヤは首をかしげて応じる。


「はい? 一体どうされました? 驚き?」

「それはもう。まさか奥様のような高貴な方が、こうして屋敷の清掃を手伝って下さるとは」


 彼女は穏やかな笑みを浮かべているが、とにかくその通りだった。

 人手の足りないグレジールの屋敷は、相応に掃除の手が及んでいない場所も多い。

 カナヤがいるのは、そんな廊下のひとつだ。見事に薄汚れたそこにて、雑巾を片手に汚れた壁面と戦うことになっていた。

 すでにして3日目の作業である。

 侍女の掃除を手伝うことはもはや日課となっているのだが、


(……まぁ)


 まぁ、である。

 別にたいした話では無いのだ。 

 いつもと違う日々を送っているが、カナヤにとってはまったくたいした話では無い。


 あくまでなんとなくであった。

 妙に心と身体に張りがあったためのなんとなくだ。

 決して違うのだ。エラルドの襲撃があったあの夜に、テオの本心に近いだろう言葉を耳にしたためでは無い。

 彼のために何か出来ることをしたいだとか、そんなことを思ったわけではもちろん無い。


 ともあれ、作業は進む。

 壁に白さを取り戻し、床のホコリを取り払っていく。

 すると、侍女が妙な動きを見せた。

 彼女は手を止めて、「ふーむ」と感嘆の息をつく。


「しかし、奥様。まさかこのようなことに経験が? おそろしく素晴らしいお手際ですが」


 その称賛に対し、カナヤは返答に迷うことになった。

 無論、経験は無い。

 だが、魔術だ。

 水を暖めると、それだけで汚れはよく落ちる。風を操ればホコリをまとめることなどわけもない。


 よって、褒められるほどのことでは無く、別に褒めて欲しいわけでも無い。

 返答としては、「いえ、たいしたことでは」といったものになった。

 ただ、彼女はカナヤが魔術を使えることを知らないのだ。変わらず、感心の表情を浮かべ続ける。


「そんな、まさかまさか。素晴らしいことです。旦那さまも大変驚いておられました」


 カナヤは作業の手を止めることになった。

 別に、褒めて欲しくも何とも無い。

 そうですか、で終わらせて良い話だったが、しかしまぁアレである。


「……旦那さまが?」


 なんとなく尋ねてみた。

 侍女は笑みでの頷きを見せた。


「えぇ。奥様についてお伝えする機会があったのですが、大変驚かれると共に感心されておられました。さすがはカナヤ殿、やはり人並みではないお方だと」


 カナヤは「……へぇ」だった。

 

 侍女は変わらずの笑みであり、伝えた内容が喜びを生むものだと信じ切っているらしい。

 もちろん、それはあり得ない。

 どうでもいい『誰か』からの、どうでもいい称賛に過ぎないのだ。


 そう、至極どうでもいい。

 だが……不意にカナヤの脳裏にテオの顔が浮かぶのだった。

 

 彼はやや陰気な顔をしている。

 髪色と合わせて『幽鬼』と呼ばれる由縁ゆえんだろうが、その顔色の理由は明らかだ。

 とかくの仕事熱心。

 今日もまた誠心誠意の仕事ぶりで、疲れ切って帰ってくるに違いなかった。


 ふと目に入ってくるものがあった。

 この廊下には窓があり、庭園の様子がうかがえる。手入れの不十分さが気になるところではあったが、カナヤが注視しているのは庭の木々の合間から見える光景だった。

 里山と言えば良いのだろうか?

 遠くない距離に、こんもりとした緑が広がっているが、


「……あの、あちらの山は当家の?」


 尋ねる。

 侍女は「はい?」と目を丸くした。


「山でしょうか? えーと、あちらの? はい。屋敷の範疇はんちゅうで間違いはなく。しかし、どうされました?」


 当然の疑問の声だった。

 カナヤはその山を遠目にしながらに答える。


「役立つ産物があるかと思いまして」

「産物でしょうか?」

「薬草でもきのこのたぐいでも何でも良いのですが、滋養強壮じようきょそうに役立つものがおそらく」


 早速である。

 カナヤは手にある雑巾を、床に置かれた水桶にかける。次いで、侍女に対して軽く頭を下げる。


「途中ですみません。片付けはお願いしてもよろしいですか?」

「そ、それはもちろん引き受けますが、そういうことなのでしょうか? もしや山に向かわれるので?」


 彼女は言葉通り、怪訝けげんそうに首をかしげていた。

 だが、事実は彼女の推測の通りであり、カナヤの反応は頷きとなった。侍女は大きく目を丸くする。


「お、奥さま? 本当にどうされました? 確かにその、山には役立つ産物があるかもしれませんが、何故それをお求めに……まさか旦那さまのために?」


 彼女の早合点はやがってんに、カナヤは思わず鼻を鳴らしそうになった。

 それこそ、まさかだった。テオのためなどと、そんなことがあり得るはずが無かった。

 まぁ、あるいはである。

 薬湯を作ったとして、テオに味見ぐらいは手伝ってもらうかもしれなかった。

 そして欲しいと言ってくるのであれば毎日作ってやるのも別にやぶさかではなかったが、ともあれ侍女への返答は決まっている。


「いえ、そんなまさ……」

「い、いけませんっ! 旦那さまのためとは言え、奥さまのような方が山歩きなどとんでもない! 危険です! 山の産物など、素人に見分けがつくものでなければえぇ! どうかご自重を」


 早合点に次ぐ早合点があったような気がしたが、カナヤはその点については置いておくことにした。

 その辺りに深入りすると、なにか妙なことを口にしてしまう予感がぷんぷんするのである。

 よって、応じるのは後半についてだ。

 カナヤは彼女に首を左右にして見せる。


「ご心配には及びません。その辺りについて問題はありませんので」

「は、はい? 問題は無いと?」

「ありません。山歩きについても、産物の判別についても何ら支障は」


 侍女は困惑しているようだったが、事実そうだった。

 

 ここでも魔術だ。

 体力的な不安は否めないが、山歩きについては風の魔術が役立つだろう。

 常時風を巡らせておけば、転倒及び落下からの負傷の心配は無い。

 迷子になったとしても、飛んで帰ればそれですむ。


 産物の判別についても魔術が役立つのだった。

 魔術とは、決して魔力を繰るすべを学ぶだけの学問では無い。

 魔力の増強、非凡な集中力の獲得、あるいは神秘を肉体に宿そうとする無謀な試みなどなど。

 それらの実現のために薬草などを利用することは有益とされ、長年研究され続けてきたのだ。

 

 カナヤの頭には、その知識が数十の専門書の単位で詰め込まれていた。

 有益な山の幸を見分けることなどもさして難しくは無いはずである。


 とは言え、それらは侍女の知らない話なのだ。

 カナヤは少し考えて口を開いた。

 

「良ければついてきて下さい。貴女が不安に思えば、私は素直に戻りますから」


 この一言と、平然とした態度が功を奏したらしい。


「……旦那さまではごさいませんが、奥さまはまったく当家には過ぎた方でいらっしゃる」


 感心の呟きを引き出せたのだった。

 無論、許可とみて相違は無い。

 そうして山に出向くことになり、歩き回ることになり、幾程いくほどかの収穫を得た辺りのことだ。


 夕方が迫ってきた。

 テオが戻ってくる時間がやってきたのだ。


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