第19話 幌馬車の中で 中編

 私は瞳を閉じて、雑草の刈った後に残るあの青臭さを内包するような、そんなそよ風が頬を撫でてゆく。冬の訪れを感じさせる清涼な風が、私のたおやかで繊細な黒髪の隙間を縫っていき、すらすらと毛先を遊ばせて、ついにはパラパラとほどけてゆく心地よさに一抹のもの悲しさを覚える。その感覚を瞼の裏で堪能していた。

 

 浸透してゆく夜の静けさに身をよじる。


 グラフィの逞しい身にもたれかかり、その肩に頭を沈ませる。ほだらかな人肌を味わい、悠々たる自然の景色に思いをはせながら、森の嘶きを感じた。

 

「くかぁ、くかぁ。」


 体勢はそのままに目を眇めて、ふいごのような息づかいに目をやる。


 そこには、マフラーに顔を埋めて、珍妙な寝息を立てながら眠るダンテの姿があった。口元まで覆っているマフラーの隙間から覗くは、陶器のように透き通る白い肌にほんのりと赤みを帯びた、まるで稚児のような寝顔。幌馬車の振動で長いまつ毛がその時々によって揺れたりなびいたりと、鷹揚に動いて留まることがない。


 すやすやと寝息を立てる彼を眺めていると、私よりも年上なのに、なんだか可愛らしい。そんな愛嬌を見せるのは反則だろうと思えるほどに。


 ひとしきり私はその端正な顔立ちを眺め、十分に満足した後は再び目をつむる。

 

 そしてジワリと暖かい彼女の肌に身を寄せた。その心地よさを味わうように、ぎゅっと瞼を窄めて、その裏側に快然たる夢心地を浮かべた。


 幌馬車の揺れで私の体が不安定になる。すると彼女は、さりげなくその姿勢を変えて、体がずり落ちそうになるのをとどめてくれる。


 時たまに身じろぎをする彼女。


 おそらくは彼女もまた、私と同じく一睡もしていないのだろう。


 彼女はいまどういった表情を見せているのだろうか。ただぼんやりと夜の景色を眺めているのかもしれないし、目線を下に落として物思いにふけっているのかもしれない。または、そのどちらでもないのだろうか。彼女の顔を見たくはあった。しかしそれ以上に、私を起こしてしまったという勘違いの所為で、その心にわだかまりを残して欲しくはなかった。だから私は目をつむったままに、彼女の温もりに感覚をゆだねていた。


 彼女の規則性のある吐息は、夜の寂しさが静まるようであった。虚しさを打ち消すような心地の良い音色であった。


 そのまま微睡まどろみに耽っていると、今まで動き続けていた幌馬車がぴたりとその歩みを止めた。私はなにかと思い、いまだ肉体と精神の区別もついていない体を叩き起こして、辺りを見渡したが、特段変わった様子はなかった。


 彼女もその違和感に気付いたのか、私にその身を預けたまま、後ろに振り返る。


「おい、何が起きた!」


 彼女は馬の手綱を握る御者へ呼びかける。


「馬が足を止めてしまいました。想像以上に馬の消耗が激しく、少し休ませる必要がございます。すみません、お気を煩わせてしまい。」


 その声の主はレイニーである。私たちが向かっている場所の道筋は彼女しか知りえないため、こうやって御者としてその道を案内している。


 グラフィは思う所があるのか、顔をしかめている。


「まさかこんなところでか?」


 私は目線を幌馬車の先へと向けた。幸い、月の光によって微かではあるが確認できる程の暗闇が、辺りと濛々と埋め尽くしているのみである。木々たちは月明りの下で孤独に沈黙しており、まるで眠っているように青々とした色を失くしている。ぬかるみは蝋燭の火に微かに照らされて、陽炎のように揺らめく影と共に、仄赤い姿をあらわす。


「…仕方がありません。どうやら同じ道を行ったり来たりしているようですが、それ以上に幌馬車に負荷がかかってしまっているようです。馬車の重量も入れて、4人程度ならば運べるはずなのですが。」


 幌馬車の中からは彼女の表情は窺い知れないが、その自問自答するような呟きから、かなり困惑しているように思えた。


 そして彼女はこうも呟いた。


「これほどまでの消耗は、規定の重量以上の負荷がかかっているためでしょうか?たとえ整備のされていない道でもここまでの消耗はありえません。例えば…。」


 

 かなり重たい荷物が積んでいるとか。


 

 そうレイニーが言葉を発した瞬間、グラフィの背がビクッと跳ねた。


 そうして身じろぎ一つ見せなくなったグラフィに目をやる。


 グラフィは額に汗が滲んで瞳孔が定まっていない様子だった。彼女の健康的な褐色の肌が、急激に蒼褪めて見えた。


 なんだか具合が悪いように思えた。彼女は瞳を淀ませて、滝のように汗を流している。そして、彼女は心を落ち着かせるようにすこし溜息をついて、目線をどこか遠くを見つめていた。


「……これは多分結界の仕業だな。」


 誰かに訴えるように、抑揚のない言葉を発した。


「いやしかしそんなはずは。」


 すぐさまレイニーの反論が入るが、グラフィは途中で言葉を奪って、「いいや、結界の所為だ。いいな!」と念押しするように投げ入れる。


 私は『結界』という言葉に少し違和感を頭をもたげたが、彼女に背中を叩かれることによって、その熱は急激に冷めていった。


 彼女はたどたどしい仕草で幌馬車の外へ、座ったままににじり寄っていった。彼女が這い出た際には、幌馬車が大きく沈んだかと思うと、木板が波のようにぐわんとうねった。砂塵が煙のように舞い上がった。


 手を振ってほこりを追い払う。


 彼女は一度、ちらりとこちらへ振り返ったかと思うと、絶妙に形容し難い顔を見せて、再びもとあった場所へ目線を向けた。


 

 馬を短時間で疲弊させるほどの体重が、彼女にはあるのではなかろうか。


 

 そんなことを考えていると、私の無礼を見通したのか、彼女は鬼のような形相でキッと私を睨んだ。私は申し訳なさそうに幌馬車の隅へ縮こまった。


 グラフィが幌馬車の先頭へ行ったかと思うと、少しの間、森の騒めきに掻き消されそうな程の話し声が私の耳元へ流れ込んできた。意味もないのに首を伸ばして、聞き耳を立てるも、その声は強い風が吹き飛ばしていき、最後のほうはほとんど聞き取れなかった。


 そんなことをしていると、暗がりから二人の姿が現れた。私はその酷く決まりの悪い姿を見られて、顔まで血が上る感覚に、より一層の羞恥を覚えながらも、いそいそと居住まいを正した。穴に入りたい思いで、必死にその身を縮めた。


 グラフィは腰に手を当てながら、ダンテをじっと見据えている。


「おいダンテ、起きろ。」


「んなぁ?にゅえぇ。なぁにかあったんでぇすか?」


「お前はほんっっっとうに緊張感がねぇよな。早くその寝ぼけたつらをしゃきっとさせないか。何を言っているのか聞き取れねぇよ。」


 そう言われた彼は、マフラーからその蒼く冴えた肌を露わにすると、両手を突き上げて大きく背伸びをした。ふう、と白い息を吐いて、関節をぽきぽきと鳴らした。


 私も息を吐いてみた。すると顔が白く染まった。


 彼は未だ朦朧とした様子で、四つん這いになって私の横を通り過ぎていく。


「ふわぁ。グラフィさん。どうかしましたか?」


「馬の消耗が激しいようだ。…当然結界の仕業だ。お前たちも馬車に揺さぶられて居心地が悪かっただろうから丁度いい。三十分ほど休憩しようと思う。さぁ、幌馬車からその重たい腰を上げてくれ。久方ぶりの夕食といこうじゃないか。」


「うわぁ!夕食っすかぁ!」

 

 彼は夕食という言葉を聞いた途端に、今まで冴えなかった瞳が急激に色を取り戻した。まるでトランペットを眺める少年のようだ。まぶしい。


「乾パンと干し肉が主食で、王都に帰るまでまともな食事が取れないんすよ。久々に新鮮な食事が取れるとは。グラフィさんには感謝しかないっすね。神様仏様グラフィ様っす。」


 こぼれんばかりの愛嬌と媚を売る彼を横目に、グラフィは軽蔑しきった顔でダンテを見下ろしていた。そして彼女は、「まぁ、いつものことか」と、諦めるように感情が抜け落ちていった。


 やれやれといった様子で彼へ向き直す。


「夕食の材料はその袋にあるからダンテ、お前はそれを袋から出してくれ。レイニーは馬の調子を見るように。俺は焚火の準備をする。今日は特に寒いし、アザミとダンテの体調のこともあるからな。あまり目立つことは遠慮したいが、こればかりはどうしようもない。丁度いい枝でも集めてくるよ。」


 あぁ、そうそう。と一言付け加える。


「アザミは俺たちの目の届く所にいること。何かあったら大声を出して伝えること。分かったな。」


 私は大きく頷いてみせた。


 それを見届けた彼女は森の奥へと姿を消した。


「ダンテさんにお願いがあるのですが、そこにあるリンゴを取っていただけませんか?リュンヌに与えてみようと思います。元気を出してくれるといいのですが。」


 リュンヌとはレイニーの所有する馬の名前である。リュンヌ、リュンヌと馬に向かって喋りかけていたので、すんなりと理解できた。


「頼りにされるのは嬉しいことですねぇ。いいですよ。」


 そう言うと彼は私の元までにじり寄ってくる。


 春の芝生のように明るく笑ってみせた。


「さぁ、君も一緒に食べましょう。」

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